失墜王子④
ルーカス編ラストです。
流血シーン多めでお送りしておりますので、ご注意ください。
残虐シーンがいっぱいあります。今までより多めに。
次はレナリア編です。同じくらいの長さです。3~6話くらい?
それからは悪夢だった。
連れて行かされた先は大きなダンスホール。見知った白の大理石と、真紅の絨毯のコントラスト。そこにいる大勢の学園生徒と教師たち。
ベロアの張られた丈夫な椅子に座らされ、なぜか目の前に大きなテーブルとからの銀の皿があった。昼間なのにカーテンが引いてあり、魔石の明かりが煌々と輝いて独特の雰囲気を醸し出していた。
生徒の中にはラティッチェ公爵子息のキシュタリアと、ドミトリアス伯爵のミカエリスとその妹のジブリールがいた。彼らは冷めた視線でちらりとルーカスを一瞥した。
公爵の傍には連れて居た執事と、もう一人若い従僕がいた。確か、レナリアが以前声をかけていた男だ。眼鏡をかけた知的で端正なルックスで、いつもきっちり髪を整え隙の無い印象がある。普段はキシュタリアに付き従うことが多かったが、当主がいればそちらを優先しているようだ。少し伏せた紫の瞳には表情を伺えない。
一度逃げようとしたら、素早く彼に捕まえられて再度椅子に座らされた。
その身のこなしは軽い。そしてただの使用人ではないことを示していた。
「如何しましょう?」
「腱を切るのが手っ取り早いが、まだ王子殿下であるからな。押さえておきなさい」
「畏まりました」
その後、公爵から再び名の書かれた紙片を突き付けられた。ずらりと並べられた中には、愛しい少女の名も刻まれている。
嫌だ、と何度拒否しても公爵は聞き入れない。
許しを請おうと言葉を尽くしても、公爵は一切聞き入れることはなかった。暫くそんな問答が続いた後、公爵はため息をついた。
「では籤にしましょうか。これでは進まない」
箱に入れられた紙。その中に手を入れさせられて何枚か引かされた。
引くつもりはなかったが、暴れて手を出した時に何枚か落ちたのが対象となった。
従僕がその紙を拾い上げ、公爵に渡した。公爵が確認した後再び従僕に返され一枚一枚読み上げられる。
すぐさま次を引くように促されたが、嫌だと拒絶した。ルーカスの反応に、困ったように眉を顰める公爵。
「では先に処分を行おうか。手早く済ませなければならないからね。
――寂しがり屋のあの子が起きて、一人で見知らぬ部屋にいたら心細いだろうしね」
どうでもいいように言われた前半に対し、後半はため息交じりの酷く優しい声だった。それを聞き取れたのは、近くにいたルーカスと執事と従僕くらいだろう。
読み上げられたのはルーカスのために王宮より派遣された使用人や騎士たちだった。そして、レナリアに親しい貴族が数名。皆、今回の一件に関わっている者たちばかり。公爵とルーカスの前に突き出された彼らは絶望を浮かべた表情で公爵に謝罪し、助命を請う。しかし、それを聞く耳もたず、すべて一振りで首を落とした。逃げようとしたものもいたが、それも数歩移動しただけで首と胴体が離れることとなる。
夥しい血が、赤い絨毯を一層染め上げる。
気のない声で「罪状を読み上げ忘れたな」と公爵が呟く。
いつの間にか、公爵の手には透明な魔法剣が握られていた。それですべて落としたのだろう。
見たことの無い細剣に似た薄く繊細な形状。振っただけで折れてしまいそうなほど儚げなのに、薄っすら光を帯びて幻想的だった。これが数多の命を屠ってきた凶器とは思えぬような美しいものだった。
首のなくなった死体を目撃することになった令嬢令息たちは小さく息をのんで、卒倒する者たちもいた。親しい者たちは声すら出せずすすり泣きを始めた。余計な音を立てて、魔王の意識が行くことを恐れて本能的に気配を殺したのだ。
物言わぬ骸。呆気なく切り落とされた首に、従僕が静かに近づいた。
一つずつ切り落とした順番に拾い上げると、ルーカスの前のテーブルに置いた。このための銀の皿だったのだ。瞼を閉ざされることなく、虚ろな眼球が開いたままだった。苦悶すら浮かべる暇なく、ただ絶望と恐怖を映し出していた。見覚えのある首だけとなったそれは、丁寧にルーカスを向いた状態で並べられる。
その虚ろな眼差しが、お前のせいだといっているようだった。
「あ、ああ…あああああっ、違う、そうじゃない、私のせいでは…っ」
「では誰のせいだというのですか、ルーカス殿下。小娘の戯言を鵜呑みにして裏もとらず断罪目的でアルベルティーナを嗅ぎまわらせたのも、騎士たちに指示したのも実行したのも貴方です。
ああ、それとも唆した男爵令嬢ですか? そちらの方が簡単に事は済みますね。
その程度が、殿下にとっての本当の愛なのですね。十年近く婚約していたアルマンダイン令嬢を差し置いて、数ある貴族を巻き込み、陛下たちに多大な心配と迷惑をかけて貫いたものが」
公爵はルーカスの心の一番柔らかいところを貫いた。
震える体と拒絶する思考。頭を抱え、普段からよく梳り整えられた金髪をぐしゃぐしゃに掻きまわす。勢い余って頬やこめかみに爪を立てて赤い線を引く。淡い緑の瞳は焦点も怪しくどんどん光が消えていく。
現実を認めたくないが、錆臭く残酷な現実が目の前に置かれていた。
それを指し示しながら、公爵が言う。
「そしてその結果が、これですよ」
とん、と死人の額を指さす。
それは護衛騎士の一人だった。十年以上王家とルーカスに仕えていた中年の男。伯爵家次男で去年結婚したばかり。最近、待望の子を妻が身ごもったと喜んでいた。
あっけなくそれはごろりと横に転がり、そのまま皿からテーブルへ、そしてクロスを汚して床に転がった。近くでその死に顔を見ることとなった生徒たちは青ざめる。さらに悲鳴を押し殺したどよめきが上がる。
一連の周囲の反応を興味なさげに公爵は眺めていた。
ふと、思い出したように従僕の後ろにいた小柄な少年を靴で押しやる。
黒髪の異国風の浅黒い肌の少年だった。何度か殴られたのか顔が痛々しい痣を残しているが、無言で踏まれている。縛られてはいるが、口は塞がれていない。だが、しゃべる気はないらしい。
「ついでにコレも始末してしまおうか。こんな時に役に立たない護衛なんて不要だな」
「…僭越ながら、よろしいでしょうか。公爵様」
「なんだ?」
「念のため、お嬢様にお聞きしては如何でしょう? コレを随分気に入っていたようですので」
「この役立たずを?」
「ええ、差し出がましいとは承知しております。ですが、勝手に始末してあとで泣き顔などご覧になりたくはないでしょう?」
「……理解できないが、この無能を始末してアルベルが悲しむのか?」
「恐らく。可能性はかなり高いかと」
その時、初めて心底嫌そうな顔をした後、困った顔を浮かべた公爵。ため息をついて少年を足先で小突き、鳩尾を踏みつけた。余程苦しいのか、そこでようやく顔を顰めた少年が小さく呻いた。
そして、ちらりと義息子に顔を向けると彼も頷いたので一層深くため息をつく。
「あの子の趣味は本当に理解できないな。どうして無能ばかり好むのだか…お前といい、キシュタリアやミカエリスといい、本当にどこがいいのか…その辺の盆暗よりはましとはいえ、碌に守りもできない木偶ばかりだ。その癖、欲深い。
昔は玩具にそんな情を持ち合わせる子じゃなかったのに――まあ、今のアルベルはそれも含めて可愛いから仕方ないな」
やれやれと言わんばかりの公爵。だが、その表情は酷く柔らかく愛おし気だった。誰に思いを馳せているなど、わかりきっている。
その愚痴っぽい呟きはルーカスには届いていない。近場にいた従僕と執事だけが耳にとめていた。
粛々と殊勝な表情でいるが内心その二人が「なんでこの冷血魔王からアルベルティーナ様が生まれたのだろう」と心の底でシンクロしているなど知らない。誘拐以前はともかく、今の『お嬢様は天使』が使用人の合言葉だ。
無辜で無垢で無知――公爵の作った歪な箱庭で微睡み続ける少女。
最近はその箱庭から出ようとしているようだが、今のところ公爵に微笑まし気にあしらわれている。恐らく、本当に出てしまいそうな気配がすれば魔王は羽ばたくための翼から風切り羽根を切り、歩くための靴を奪い、足枷や手枷の代わりに彼女の大切な人間の命をちらつかせてその意欲ごと奪うだろう。
グレイル・フォン・ラティッチェの寵愛は狂気と紙一重である。
そのとき、ピクリと眉を上げた公爵。
ルーカスから少し離れ、距離があるものの入り口ドアの正面に立つように陣取る。
ややあって、ぱたぱたと軽い――少年か女性くらいの足音が近づいてくる。かなり慌ただしいがその足音に覚えのある使用人たちははっと顔を上げた。
「――お父様!!」
花のような薄紅のドレスを翻し、顔を焦燥で染めた美少女がいた。
レナリアは愛らしいし、ジブリールも美しいが――それすらも霞むほど抜きんでた美貌。絶世の、と付きそうな美少女が泣きそうな顔でダンスホールに現れた。
場違いにもその余りの美貌に、ほう、とため息が漏れる。それはルーカスばかりではない。先ほど魔王により行われていた恐怖の粛清の空気が、一人の麗人により塗り替わった。
それに対し、数人が不愉快気に表情を変えたことに、ルーカスは気づかない。
その後はアルベルティーナの独壇場だった。
悲しげな顔をした愛娘の懇願に、魔王は折れた。数多の懇願を無視してきたのが嘘のようにあっさりと。それはもう、こちらが唖然とするほどに。
疎まし気にしていた使用人の少年も『再教育』という条件を付けて命は残したし、後始末は義息子たちに押し付けてさっさと愛娘を伴って出て行ってしまった。
公爵は先ほどまで何が何でもこの件の関係者を皆殺しにすると譲らなかったというのに、全てはアルベルティーナの望み通りになった。
先ほどまですべてを畏怖で支配するような空気を放っていた公爵は、愛娘を目に入れた瞬間に変貌した。蕩けるような甘い微笑と、優しい声音で彼女に近づき、その望みを聞き入れた。不機嫌になるどころか、安堵に微笑む愛娘に酷く満足げだ。学園を去る際、彼は限りなく上機嫌といっていい様子で帰っていったという。
公爵令嬢アルベルティーナ・フォン・ラティッチェは悍ましいと噂された容貌とは真逆だった。恐ろしく整っていたが、公爵と違い儚げで可憐。眼鏡が壊れ晒されたかんばせは目が眩むような稀代の美貌、絶世の美女と名高いシスティーナの面影そのもの。ほとんど肌の出ない、かなり露出の少ないロマンティック系のピンクのドレスであったが悩ましい限りの女性的な体をした絶世の美少女だった。すんなり説得した父親を伴いすぐに彼女は退室した。
親子仲は良いらしく、令嬢を愛おし気に抱き寄せる公爵。そして、公爵にピッタリ寄り添う令嬢。親子というより、似ていないが整い過ぎた容貌の二人が並ぶと一種の歳の差のある恋人同士と言えるくらい仲睦まじそうであった。
噂で公爵の娘への溺愛は知っていたが、その娘もその苛烈なほど激しく、それでいて重苦しい愛情を当たり前のように受け入れているように見えた。
あれほど恐ろしい実父がいるというのに、アルベルティーナを一目見ただけで心奪われた令息たちは少なくないようだった。
その後、国王直々に呼び出され、謹慎を言い渡されたルーカス。この事態を留められなかった第二王子のレオルドも同じように謹慎を言い渡されたが、実行犯であるルーカスに比べれば咎めはかなり軽かった。
王太子候補と称されながらも、貴賓牢へ追いやられた。
しばらくは恐怖が抜けきらず、廃人のようにぼんやりしていた。だが、だんだんと自分のやってきたことに気づき、色々な意味で青ざめていった。
父王から王位継承権は剥奪しなくとも、最低位――エルメディア以下に落とすといわれた。
今回はラティッチェ公爵の顰蹙を買い、本人からルーカス一派は多大な粛清を受けたことにより今まで溜まっていた他の貴族たちの鬱憤はだいぶ減った。死人はごくわずかだが、貴族名鑑から除名を受けたり、役職や領地をうしなったり、爵位を下げられたりした貴族は少なくない。
ルーカスがまだ王位継承権を滓のごとき僅かだが残っているのは、実質ラウゼス王直系が3名のみであること。そして、エルメディアは実質ないに等しいからだ。また、今回の騒動を発端とした大幅な人事異動もあり、王妃派の激しい反発があり落ち着いてからの仔細は決定するとのことだ。ルーカスは当然それを受け入れた。
今はまだ元老会で内々に決まって、正式な発表は学園卒業後――もしくは復帰のめどが立たなかったら、退学が決定した時点でそうなると告げられた。
よくて爵位と領地を与えられ、一代限りの貴族となる。もしくは、どこかの令嬢の婿として臣籍降下する。最悪、一生貴賓牢のままか離宮を与えられるか、蟄居を言い渡されるという。
面会は、数日に一度の程度で母のメザーリンが来るくらいだった。
ある日、兵士の格好までして人目を避けるようにレオルドが来た。レナリアについて聞いたら、グレアムが身代わりを探して牢屋から出したとのことだった。同じほどの年齢の濃い茶髪に青い瞳の少女が今も『レナリア・ダチェス』として牢に入っているらしい。
グレアム自体も謹慎中のはずだが、宰相が裏で手を回したのだろう。まさか、その温情を無下にして息子がさらにやらかしているとは気づいていないようではあるが。
今回の件は一番の被害者の公爵令嬢の配慮があり、かなり減刑があった。だが、あくまで彼女の事件だけだ。何度もやらかしているルーカスたちには余罪が多すぎた。
ルーカスはレナリアを庇った。もし、自分が見捨てたら一番身分の低い彼女が最も危険である。レオルドは渋い顔をした。彼女は悪意がないとしても、吹き込んだ言葉は悪質過ぎるため、貴族から除名だけでは温く処刑すべきとの声も大きいと聞く。
グレアム・ダレンは解っていて、替え玉を入れたのだろうか。無辜の少女はどうなるのだろうか。顔色の悪さを、レナリアへの心配と思ったのかレオルドは今度レナリアを連れてくると約束してくれた。
嬉しいはずだ。心配だった。ルーカスのたった一人の愛する恋人。
だが、何故だろうか――以前ほどの熱はなくなった気がする。
まさか、と首を振る。色々なことがあり、自覚をして少し疲れただけだ。
無性に、レナリアの作ってくれたお菓子が食べたくなった。懐かしいというより、枯渇。欲しいという感情。虚ろに開いた心を幸せだった記憶で埋めてしまいたかったのかもしれない。食欲はないのに不思議だ――当然かなうはずもなく、王宮で見慣れたパティシエの焼き菓子が出てきただけだった。まだ出てきただけ、ルーカスに対して配慮をする気があるのだろう。まだ、王族だから。
久方ぶりにレオルドが会わせてくれた愛しい彼女を見ても、なぜか心に穴が開いたような空虚さがあった。
ニコニコといつものように無邪気に話しかけ、華奢な体を寄せてくるレナリア。
そういえば、あの令嬢もほっそりとしていた。何故、レナリアと大して体格も変わらない少女にあそこまで無体を働いてしまったのだろう。王族以前に、男として、人として最低な行為だった。
レナリアの顔色はよく、疲れている気配もない。とてもではないが反省や後悔は見られない。
「そういえば、グレイル様でしたっけ? 凄くカッコよかったですよね!
公爵様なんですよね、可哀想…きっとあの方、アルベルティーナに騙されているのよ!
あの女、本当に人をだますのが上手なんですよ!」
いくら綺麗でも、あの性格じゃね――と笑い事のようにいうレナリアに、一気に心が冷めていくのが分かった。
今、ルーカスが王位継承権を大きく下げられたものの、王籍を残していられるのはその女性のおかげだった。あの時、彼女が来なければ粛清はさらに続いた。レナリアどころかルーカスたちも危うかったのだ。レオルドも微妙な顔をしている。
本来、あのラティッチェ公爵に慈悲とか生易しい感情はない。今代を見限ってスペア用に子だけでも作ればいいと一室を与えられ、女を宛がわれる可能性だって十分にあった。今のルーカスには人格や能力などなく、瑕疵だらけの王族でしかないのだ。それなら、次を望んだ方が早いと見限られてもおかしくない不祥事なのだ。
レナリアはどうしてそこまでアルベルティーナを疎むのだろうか。
なのに、なぜあの悍ましく苛烈な公爵は好意的に見ているのだろうか。
確かに見目麗しいのは確かだが、あの処刑現場に居合わせて何故こうも他人事のようにはしゃいでいるのだろうか。
世間でレナリアは王侯貴族の子息を誑かし、悪意を吹き込んだ令嬢と蔑まれている。
そして、本来は投獄されているべき身である。周囲の目を恐れ、縮こまっているどころかなぜこんなに生き生きしているのか。
そのちぐはぐな彼女の言葉に不気味さを覚えたのはルーカスだけでなく、レオルドも青ざめている。
折角レナリアが用意してくれた紅茶やお茶菓子も口にする気が起きない。
「でも、御迷惑かけちゃったみたいだし、一度謝りたいです。
ねえ、ルーカス様。グレイル様に会わせていただけませんか?」
ちょこんと首を傾げる可愛らしい仕草。ルーカスがとことん彼女に甘いねだる時のポーズだった。青真珠のネックレスも、虹珊瑚の髪留めも、ダイヤのブローチだって与えたし、最高級のドレスだって仕立てた。
「私がグレイル様にとりなしてもらって、ルーカス様たちにこれ以上意地悪しない様にお願いしてきます! 任せてください!」
ニコニコといつものように無邪気に笑う彼女を、初めて恐ろしいと思った。
この時、ルーカスは愛したはずの女性が公爵以上の化け物ではないかという予感がよぎった。だが、それをすぐさま払拭した。
レナリアは少し悪意に鈍感でいて、何でも善意的に見てしまうのだ。きっと、また何か勘違いしてしまったのだ。そう言い聞かせる。彼女を早く正しい方向へ導くことが必要だ。そう思いながらも、余りの衝撃で言葉が詰まる。
絶句するルーカス。代わりにレオルドがレナリアを窘める。
「レナリア、公爵はお忙しい方だから無理だと思うぞ。それに俺たちは今、謹慎の身だ。
レナリアは本来投獄されている立場だろう? グレアム達が色々と手を回してくれてはいるが、せめてほとぼりが冷めるまで静かにしなくては不自然だ」
「えーっ! 私、グレイル様に会いたいです!」
頭が痛くなってくる。ちょっと緩い子だとは感じていたが、ここまで致命的だっただろうか? 恋愛マジックの解け始めたルーカスに、改めて見たレナリアの言動は顰蹙ものだった。
婚約者のビビアンの言葉が痛いほど、今更頭に響いた。
上位貴族の名前を呼ぶなどレナリアには許されないことだ。許されるのは親類か婚約者か、伴侶くらい。せめてラティッチェ公爵か、ラティッチェ卿、もしくは元帥など役職かそれに準ずる呼び方をしなくてはならない。
首を小さく傾がせ、目を見張るようにしてこちらを伺う姿。以前は可愛らしくて、とにかく守りたくてレナリアの願いには是と答えてきた。だが、今は空回るようだった。その魅力的なはずの仕草が、胸を素通りするようだった。
かみ合わない何かが、不吉な軋みを上げていた。
「レナリア、その呼び方は良くない。ラティッチェ公爵とお呼びするべきだ。貴族としてのマナーの基本だよ」
「もう、ルーカス様までビビアン様みたいなこと言わないでください!」
拗ねたように頬を膨らませて反論するレナリアの言葉は、ルーカスに突き刺さった。
その通りだ。ビビアンは当然のことを言っていた。学校は表面的には平等を謳っているが、どうしても格差はある。それぞれの背後にある責務の重さが違うのだから。
ビビアンは正しかった。レナリアはルーカス殿下と呼ばない。それは本来許されないこと。プライベートならともかく、公的な場では最低限使い分けが必要だ。そして、当然のように赤の他人より遠い存在を名で呼ぼうとしている。
本人が運良く無視してくれても、あの公爵の美貌に魅了され、公爵家の威光に心酔する周囲がレナリアをやっかみ潰しにかかる可能性がある。
その後、レオルドがあの手この手を使ってレナリアの我儘を何とかしようとするが、結局は機嫌を損ねて帰ってしまった。
(私は…今まで何を見ていたのだろうか)
一人残されたルーカスは暗澹たる気持ちで、椅子に座り込んだ。
幸福だと思っていた悪夢から覚めた先は、地獄しかなかった。
読んでいただきありがとうございます。
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中には他者視点は1,2話にすべきだという意見もありましたが、正直好きに書かせてくれそれくらい…もしくは嫌なら読まずにスルーしてください。
次のレナリア編もそれなりにボリュームがあります。