離婚条件すり合わせの過程で、夫からのただ一つの主張は
「社会に出てきたら、連絡をとらせてほしい。養育費を支払わせてほしい」
というもので、私は体中の血が逆流するようなめまいを覚えた。
(まだ裁判前ではあるが)
犯罪(特に殺人)とは、取り返しのつかないことを、指す。
たとえ刑を終えて社会にでてきたとしても、林さんが生き返るわけではない。
社会にでてきて、その後何十人何百人を助ける何かをしたとしても、林さんが助かるわけではない。
何を甘えたことを、言ってるのだ、と。
被告の人権は、法制度で守られている。衣食住の心配はない中で、罪と向き合い、出所後の生活に望みをもって生きるようなメンタルサポートも受けられているようだ。被告に関わる人たちのすべてが、プロ(専門職)だから。
しかし加害者家族を守る法制度はない。報道から身を護る術はなく、信頼をまったくなくした状況からの生活再建を余儀なくされ、お金を払わなければカウンセリング一つ受けられない中(もちろんそんな経済的余裕はないので、我慢するしかない。そもそも加害者家族支援の経験があるカウンセラーを探すのがまず困難である)、家族であった被告の罪と向き合うことを余儀なくされるのだ。
夫が逮捕連行されたとき、刑事さんから
「奥さん、お酒におぼれないようにしてくださいね」
と声をかけられた。あの日から今日まで、私は一滴もお酒を飲んでいないし、向精神薬の類も一切受け付けないことにしている。何かに頼ってしまうと、そこからがらがらと自分が崩れてしまう気がして、踏みとどまれなくなるような気がしているからだ。
はっきりいって、私の精神は崩壊寸前にあるが、自分の44年の人生経験と知識をフル活用し、信念と責任感で自らを奮い立たせ、とにかく今日一日を生きている。幸い私は、哲学科出身で、医療政策の研究者でもあり、精神保健福祉士なので、数は少ないが、犯罪加害者家族の論文や犯罪心理学の本等を読み、今自分がどの位置にいるかを確認したり、経験していることの意義を考えたりすることができる。そして「今ここ」にいる加害者家族の私を、blogを通じて発信することで、救われる人がいたらいいな。とか、今後の加害者家族の支援の検討が進めばいいな、などと考えて、綴っている。
豊かで幸せに満ちていると思っていた夫との生活。何気なく通り過ぎた夫の言動を、事件後に改めて振り返り、
「あれは事件の予兆だったのか。」
と考えさせられて、時が止まることがある。何も気づかず、不審一つ持たなかった自分が、悔やまれてならず、自責の念がとまらない。
何より辛いのは、報道によればであるが、夫が開業医という立場をもって、林さんを死に至らしめる薬を入手し、決行したというくだり。私が開業を手伝わなければ、夫が薬を入手することもなく、事件は起きなかったのであろう。私が開業資金を出し、諸々の折衝や、日々の診療業務を手伝った事実が、夫の犯行が可能となる環境を整えることとなってしまったわけだ。
医師として当然もっているべき倫理観を持っていなかった夫に、なぜ開業させてしまったのか。悔やんでも悔やんでも、林さんが生き返るわけではない。私は夫を愛し、信頼しきっていたがゆえに、何より私達妻子は夫から愛され、大切にされていると盲信していたがゆえに、判断を誤ってしまったのだ。そう考えていくと、夫と出会ってからのすべての判断が間違いだったことに気づかされ、
「犯罪者の子どもを産んでしまった」
というこれまた取り返しのつかない間違いにも直面し、
「私は、生きていていいのだろうか」
との思いに駆られる。加害者家族の自死が少なくない事実は、よく理解できる。
離婚協議の過程で、呑気に「社会に出てから」の希望を伝えてきた夫に対し、失神寸前になりながら私の中に湧いたイメージは、
「私が代わりに死んで、林さんにお詫びを伝えにいくしかないのか」
ということだった。当然夫は知る由もないし、理解もできないだろうけど。