兜町から消えた名門「山一」の名が復活した。山一証券のOBらが経営する独立系の証券会社が4月、「IBS山一証券」(東京・千代田)という社名を新たに掲げたのだ。巨額の簿外債務がもとで、山一が自主廃業してから14年近くがたつ。今になって山一が復活した裏には「名門ブランドを残したい」という元山一マンたちの熱い思いがあった。
顧客の声で社名変更
IBS山一証券は企業向けに国際的なM&A(合併・買収)を提案するブティック型の証券会社。総勢25人のうち7割は、かつて山一で働いた人たちだ。会長を務める立川正人さん(66)が6年前にIBS証券として設立し、今年4月に「山一」を社名に加えた。
立川さんが山一ブランドの復興を思いたったのは、今年初めに顧客企業を回っていた時、山一を懐かしむ声を耳にしたのがきっかけだ。「山一証券はいい幹事証券会社だったよね」と。
山一はかつて「法人の山一」と呼ばれた。多くの上場会社を顧客として抱え、企業の資金調達やM&A戦略を支えていた。野村、大和、日興とともに四大証券会社の一角を占めていた当時の山一をよく覚えている企業経営者がまだ多く残っていることを、立川さんは改めて実感した。
一方で、山一の自主廃業から14年近くがたち、社会人のなかにも山一を知らない世代が増えてきた。「価値ある山一ブランドが、このままでは消えてしまう」。そんな危機感もあり立川さんは社名に「山一」の2文字を入れることを決意した。
立川さん自身は1967年に山一に入社。営業企画部門などを中心に20年間勤めた後、新天地を求めて会社を飛び出して独立、M&A関連の助言業務を手がけてきた。山一が自主廃業した時には会社を離れて10年がたっていた。それでも山一ブランドにこだわるのは「山一の外にいたからこそ、山一ブランドのすごさがよく分かったからだ」と話す。
立川さんはまっ先に、山一が自主廃業した1997年当時の大蔵省証券局長で、今は弁護士の長野厖士さん(67)のもとを訪れた。山一で働いた人々の親睦団体である山友会の大先輩たちにも、山一ブランドを使うことへの理解を求めて回った。
立川さんが訪ね歩いた山一OBの1人が、永野修身さん(52)だ。山一のトップセールスマンだった人物で、自主廃業の当時は千葉支店副支店長だった。転職支援や人材派遣を手がける人材会社、マーキュリースタッフィング(東京・港)を8年前に設立し社長を務めている。
永野さんも実は、いつか山一を復活させることを胸に日々を送っている。「自主廃業はわたしたちにとって会社が突然死したようなものだった。いろいろな思いが残る。山一証券の名前のもと、志の高い証券会社をいつかつくりたい。一緒にやりたいという仲間は100人ほどいる」と語る。
商標登録の手続き
立川さんのIBS山一証券がM&Aなど投資銀行業務に特化するのに対し、永野さんは個人向け業務なども幅広く手がける、総合証券として山一をよみがえらせたいと考えている。永野さんはまず、いま経営しているマーキュリーの株式を新規上場して資金をつくり、新たな山一証券の設立を目指す計画だ。「山一証券」という社名の商標権をおさえるため、特許庁へ申請の手続きもしているところだ。
目指す経営モデルは違うものの、永野さんは立川さんのことを親分として慕う間柄だ。立川さんからIBS山一への社名変更の話を聞いた永野さんはすぐに協力を約束。永野さんは先月、IBS山一証券の社外取締役になった。
「歴史的な瞬間」
IBS山一証券の社長を務める小笠原勇さん(67)は、山一が自主廃業した当時、国際部門担当常務だった。再び、山一の社名を冠した会社の経営に携わることに感慨も深い。「山一の復活という歴史的な瞬間に立ち会え、身の引き締まる思いだ」と話す。他のOBの間からも山一復活を喜ぶ声が相次いでいる。OBの1人である佐藤清明さん(73)は「山一の復活はうれしい。がんばってほしい」と、エールを送る。
山一証券は1897年に小池国三氏(1866~1925)が東京株式取引所仲買人の免許を受け創業した「小池国三商店」が始まり。小池氏は1909年に、渋沢栄一氏らと米国を視察旅行し、ウォール街で投資銀行の地位の高さに感銘を受けた。小池氏はその後、債券の引き受けなど投資銀行業務に力を入れたという。
立川さんは「創業者の理念を引き継ぎ、IBS山一を本格的な投資銀行に育てたい」と話している。
(編集委員 三反園哲治)