嶋中事件
【事件概要】
1961年2月1日夜、東京・新宿区市ヶ谷の出版社「中央公論社」嶋中鵬二社長宅に、少年K(当時17歳)が押しかけ、登山ナイフで社長夫人と家政婦を殺傷。
犯行は、雑誌「中央公論」に掲載された小説「風流夢譚」(深沢七郎・著)が天皇を冒涜しているとする主張によるものだった。
K
【「俺は右翼だ」】
1961年2月1日午後9時過ぎ、東京・新宿区市ヶ谷の出版社「中央公論社」嶋中鵬二社長宅では、帰宅してきた夫人・雅子さんと長女R子ちゃん(当時12歳)が話をしていた。長男Y君(当時14歳)は別の部屋で試験勉強中で、嶋中社長は不在だった。
その頃、家政婦・丸山かねさん(57歳)と上野のぶさん(当時22歳)が応接間に入ろうとすると、見慣れない1人の男がいた。
「俺は右翼だ。主人はいるか」
応対した家政婦・丸山はボサボサ頭の男が忍びこんでいたことを驚きながらも、「主人は外出中でいない」と言い、2人は夫人のいる四畳半にかけこんだ。
2人を追いかけてきた男は四畳半の入り口でバッタリ夫人と出会い、「右翼だ。主人はいないのか」と低い声で訊ね、持っていた短刀で夫人に斬りつけた。さらにこれを止めに入った丸山さんの左脇腹も突き刺した。R子ちゃん(当時12歳)の目の前での出来事で、R子ちゃんが試験勉強中だった兄のもとへ泣き叫んで行った後には男の姿はもう見えなくなっていた。
刺された丸山さんは死亡、雅子夫人も重傷を負った。
翌朝7時過ぎ、刺した男が浅草署・山谷の交番に自首。男はKという名で、長崎出身のまだ17歳の少年だった。
自首にあたって頭をまるめており、その理由については「昔は犯罪を犯した者はみな丸坊主になったそうだ」と答えた。
【「風流夢譚」】
犯行動機は前年11月発売の雑誌「中央公論12月号」に掲載された小説「風流夢譚」(深沢七郎・著)が天皇を冒涜しているとする主張によるものだった。
※深沢七郎・・・・1914年、山梨県東八代郡石和町に生まれる。日川中学卒業後、職を転々とし、ギタリストとしても活動した。56年、42歳で「楢山節考」で第1回中央公論新人賞を受賞してデビュー。嶋中事件を契機に一時筆を絶ったが、62年に復帰している。87年8月、心不全のため死去。享年73歳。
「風流夢譚」には革命により皇族の処刑されるというショッキングな場面があり、それらは夢の中の出来事として書かれていた。
この作品は深沢氏の持ちこみによるものだったが、すぐには掲載されず、長期間保管されていた。噂のひとつには、竹森編集長が話題づくりのため、三島由紀夫に「風流夢譚」を読んでもらい、「面白い。載せてみてはどうか」と言ってもらったというものもあるという。
この作品を受けて、宮内庁は「たとえ夢の話でも見過ごすわけにはいかない」と不快感を発表。また大日本愛国党員8名が京橋の中央公論社に押しかけ、「皇室を侮辱するものであり、謝罪文を出せ」と要求した。
11月30日、竹森編集長は宮内庁に出向き、実名小説の扱いについて配慮が足りなかったと謝罪。そして「中央公論 新年号」には次のような謹告を掲載した。
「先号に深沢七郎の『風流夢譚』を掲載しましたが、この作品の文学上の評価は別として、実名を用いた小説の取扱いに十分の配慮を欠いた結果、本誌の読者のなかには編集部の意図とは異なる受け取り方をされた方々もあり、いたずらに世間を騒がせてしまったことについて、編集者として関係方面ならびに読者諸賢に深く遺憾の意を表するものであります」
しかし右翼による批判は続いた。大日本愛国党もデモ隊を組織していたという。1月30日には日比谷公会堂で「赤色革命から国民を守る国民大会」が開催され、「中公を死刑に」「三文作家に日本という尊い国がほうむられていいのか」という活動家の言葉に集まった1300人の観衆から拍手が起こった。「浅沼社会党委員長刺殺事件」の山口二矢をモチーフにした大江健三郎の小説「セブンティーン」が、「文学界 1、2月号」(文藝春秋)に掲載されるなど、タイミングも悪かったのである。
さらに当時の池田内閣も「中央公論社を告訴する」と言い出すなど、同社はあまりにも巨大な敵を作ることになり、倒産の危機に陥った。「中央公論」編集長、編集次長が辞表を提出、人事異動が行なわれた。
そんな時、Kによる事件が起こった。殺害された丸山さんは同社の社員の母親であったので、嶋中社長は記者会見で「自分自身が犯人のような気持ち」と話した。
さらに「中央公論 3月号」では殺傷事件に関してのお詫びが掲載された。
「『風流夢譚』は掲載に不適当な作品であったにもかかわらず、私の監督不行届きのため公刊され、皇室ならびに一般読者に多大の御迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます。またこの件を端緒として殺傷事件まで惹き起し、世間をお騒がせしたことを深く申し上げます」
【K】
Kは長崎県に生まれた。父は副検察官。
1960年9月、長崎東高校を中退後、家出。名古屋のパン屋に勤め、その後横浜、東京へとやって来たが、定職には就かず、沖仲士などをやって暮らしていた。その後、赤尾敏の大日本愛国党に仮入党。党本部に寝泊まりするようになった。
Kは大柄だったが口数は少ない少年だったという。「風流夢譚」も読んでおり、「天皇を侮辱するけしからんものだ」と、嶋中社長を襲おうと思ったという。
前年10月、同じ党員だった山口二矢の事件に刺激されたことも大きい。事件の3週間前でに放送された教育テレビの座談会では、愛国党のメンバーの1人として出席し、「山口君を殉国の志士として神社に祭り、後世に残してはどうでしょうか」と発言していた。
事件前日、「右翼生活は性格に合わない。田舎に帰る」と本部を出ていった。これは赤尾氏に迷惑をかけてはならないという理由だったという。
事件後、赤尾氏は殺人教唆の疑いで逮捕されたが、4月17日に証拠不十分として釈放された。
1962年2月、東京地裁、Kに懲役15年の判決。
1964年11月9日、東京高裁で控訴は棄却され、刑が確定した。
【その後の人々】
2004年8月、雅子夫人が亡くなった。79歳だった。雅子夫人は97年に嶋中社長が亡くなった後は社長、会長を歴任していた。
一方、芸人風のキャラクターで、新進気鋭の作家として将来を期待されていた深沢七郎は事件後すぐに身を隠し、埼玉県で牧場を開いたが、親しい人間以外とは絶対に会わないという隠遁生活を続けたとされる。
1987年8月17日、1人で寝られなくなった深沢は、同居していた養子に「そばで寝て欲しい」と頼んだ。翌朝、深沢は土間でお茶を入れ、小鳥にエサをやった。養子があとから起き出して来た時、深沢はすでに死亡していた。73歳。告別式には「楢山節」を弾き語った深沢の声が流された。
リンク
中央公論新社 「中央公論」
http://www.chuko.co.jp/koron/
大日本愛国党青年隊
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/6551/
≪参考文献≫
青木書店 「天皇とマスコミ」 松浦総三 学習研究社 「歴史群像シリーズ81 戦後事件史 あの時何が起きたのか」
警察文化協会 「戦後事件史 警察時事年間特集号」
勁草書房 「戦後の右翼勢力」 堀幸雄 研究社 「講座・コミュニケーション5 事件と報道」 編集委員・江藤文夫 鶴見俊輔 山本明 講談社 「昭和 二万日の全記録 第12巻 安保と高度成長」
講談社 「戦後欲望史 黄金の六○年代篇」 赤塚行雄
講談社 「歴史エンタテインメント 昭和戦後史 中 経済繁栄と国際化」 古川隆久
高文研 「出版ジャーナリズム小史」 日本ジャーナリスト会議・出版支部編 弘文堂 「日本のテロリスト 暗殺とクーデターの歴史」 室伏哲郎
国書刊行会 「報道は真実か」 土屋道雄
国書刊行会 「現代100人・死のメッセージ」 水瓜博子
彩流社 「戦中生まれの叛乱譜 山口二矢から森恒夫」 田中清松
社会思想社 「20世紀にっぽん殺人事典」 福田洋 白川書院 「現代ジャーナリズム事件誌」 松浦総三
新人物往来社 「別冊歴史読本 戦後事件史データファイル」
新人物往来社 「別冊歴史読本 天皇・皇室・事件史データファイル」
新評社 「別冊新評 深沢七郎の世界」
新風舎 「激動昭和史 現場検証 戦後事件ファイル22」 合田一道
青年書館 「戦後殺人事件 謎の真相記」 社会問題研究会 第一法規出版 「戦後政治裁判史録3」 田中二郎 佐藤功、野村二郎・編
宝島社 「別冊宝島 昭和・平成 日本テロ事件史」
宝島社 「別冊宝島 戦後ジャーナリズム事件史」
立花書房 「極左暴力団・右翼101問」 警備研究会 田畑書店 「『風流夢譚』事件以後 編集者の自分史」 中村智子
東京法経学院出版 「明治・大正・昭和・平成 事件犯罪大事典」 事件・犯罪研究会・編 双葉社 「右翼事典 -民族派の全貌-」 社会問題研究会・編
毎日新聞社 「シリーズ20世紀の記憶 60年安保・三池闘争 石原裕次郎の時代 1957-1960」
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