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天草砥石
砕けば陶器の原料となる天草陶石。実は、そのままで砥石(と・いし)になる。「天草砥石」として、最盛期の50年代は、島内に8業者があって約130人が働き、全国に出荷してきたが、時代の流れから需要は先細りだという。
砥石は、きめの細かさで「荒砥(あら・と)」「中砥(なか・と)」「仕上げ砥」と大別される。天草産は、最も用途の広い中砥。上天草市大矢野町上の砥石製造販売元・澤村製砥所を営む澤村眞一さん(57)に話を聴いた。
大矢野町の砥石製造業は現在4軒。そこで働く人は合わせて10人。年間250トンを全国に発送しており、売上高は年間約6千万円。02年ごろから特に売り上げが減少気味という。
売り上げ減の原因は、澤村さんによると、「ステンレス包丁は研いでも切れ味は変わらない」という消費者の思いこみや、中国産の安い砥石が出回り始めたこと、草刈りや大工などで使う鎌、かんな、のみといった専門用具の機械化などで刃の部分は使い捨て同然になってきた、など。
天草砥石が発掘され始めた時期は、はっきりしないが、約400年前ごろではないか、とする説が有力だ。
大矢野町の町史編纂(へん・さん)委員の川上昭一郎さん(76)は「天草砥石が天草四郎の準備期の資金になっていた」という推論をまとめた。天草文化協会の機関誌「潮騒」19号に「考察 天草四郎の金脈」と題して2ページ余りで掲載されている。
四郎は現在の宇土市付近の出身で、幼少から長崎へ度々遊学したとされる。川上さんの推論の根拠は、一揆を起こさざるを得ないほどの圧政下で、苛斂誅求(か・れん・ちゅう・きゅう)の時代。キリシタン大名・小西行長の側近だった四郎の父甚兵衛でさえ裕福だったとは思えないこと。
行長は大坂・堺の商家の出身。そのためか近隣国と交易に取り組むなど商才にたけていた。その影響もあって甚兵衛は、行長の死後、中国向け輸出の花形だった天草の海産物、砥石などを長崎に船で運ぶことを業としていたと思われる。長崎―宇土間を往復する船に、息子の四郎を便乗させたと考えるのはごく自然だろう。古文書にもそれに類した記述があり、長崎では、いとこの家で世話になったらしい。
ロマンを秘めながら、砥石産業は今、生き残り策を手探りしている。新たな用途として、木目のような模様を生かした表札、滑りにくさを生かして温泉や風呂のタイル、木目を研磨してびょうぶタイプの部屋飾りなど。しかし、「砥石としての用途が、天草砥石を最も生かした使い方」と澤村さんは言う。
天草砥石 大矢野町が85年にまとめた砥石に関する記述によると、豊臣秀吉が朝鮮出兵の折、刀研ぎ用に採用した。天草四郎が大矢野島・宮津に教会を開設した際、長崎から来た外国人宣教師が偶然発見し、その研磨力に気づいた。また、オランダのライデン国立民族学博物館に保存されているシーボルトの収集品で、日本の大工道具の中に「アマクサイシ」と墨書きした砥石があり、大矢野島産の砥石と見られる。
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