牧村 達弥 Tatsuya Makimura

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牧村 達弥 Tatsuya Makimuraさんのツイート

もちろん/ わたしの音楽や思想を不愉快に思っている人びとはよろこんでいます、/ さしあたりわたしを厄介払いする可能性がよけいに現れるので。/ わたしにとって芸術上の成功などどうでもよいのです。そのことはあなたもご存知です。しかしわたしは侮辱を甘受できません!
つまり決して偶然的なものではありません。そうではなくてまったく計画的です。その結果わたしは、最初、この国でふつうに行われているように、軽んじられた後、そのうえ今度は/ 政治的謀略によって遠回りをしなければならないのです。
あなたは、/ それを気の毒な個別のケースと呼ぶでしょう、たとえわたしが/ ユダヤ人排斥運動の成り行きによって傷を負ったとしても。〈中略〉それは個別のケースなんかではありません。
わたしをわたしの当然の影響圏から追い出す、そういう可能性をつくろうとする策略にどうして加わり、そうした世界観とのたたかいをどうしてやめることができるのですか、その目標とは/
しかしわたしがそれを聞けば、/ 誰でも無条件にわたしの抵抗にさらされるのです。(改行)カンディンスキーのような人がどうして容認できるのですか、/ わたしが侮辱されるのを。/
これを読んでいるのは書いた私だ いや書かれた私と書くべきか 私は私という代名詞にしか宿っていない のではないかと不安になるが 脈拍は取りあえず正常だ
障害者やその家族が不安なく落ち着いて生活できる国になってほしいと願っています。障害者が安心して暮らせる社会こそが、健常者も幸せな社会だと思います。
この裁判では犯人の量刑を決めるだけでなく、社会全体でもこのような悲しい事件が2度とおこらない世の中にするにはどうしたらいいか議論して考えて頂きたいと思います。
話しを聞いた時にとても違和感を持ちました。とても「甲さん」「乙さん」と呼ばれることには納得いきませんでした。ちゃんと美帆という名前があるのに。どこに出しても恥ずかしくない自慢の娘でした。家の娘は甲でも乙でもなく美帆です。
美帆は一生懸命生きていました。その証を残したいと思います。恐い人が他にもいるといけないので住所や姓は出せませんが、美帆の名を覚えていてほしいです。どうして今、名前を公表したかというと裁判の時に「甲さん」「乙さん」と呼ばれるのは嫌だったからです。
言葉はありませんでしたが、人の心をつかむのが上手で何気にすーっと人の横に近づいていって、前から知り合いのように接していました。皆が美帆にやさしく接してくれたので人が大好きでした。人にくっついていると安心しているようでした。
美帆はこうして私がいなくなっても寮でこんなふうに生きていくんだなと思っていました。人と仲よくなるのが上手で、人に頼ることも上手でしたので職員さんたちに見守られながら生きていくのだと思っていました。
自分の部屋にもどる時も「またね」と手を振ると自分の腰のあたりでバイバイと手を振ってくれていました。泣きもせず、後おいもせず、部屋にもどっていく後ろ姿を見ているとずいぶん大人になったなと思っていました。
月1くらいで会いにいき、コンビニでおやつと飲み物を買い、一緒にお庭で食べるのですが、食べおわると部屋にもどることがわかっていて、食べている間中、「歌をうたって」のお願いをされ、よくアンパンマンの“勇気りんりん”と、ちびまる子ちゃんのうた、犬のおまわりさん等、うたっていました。
2年くらいは続いていましたがそれ以降は、自分は寮で生活するということがわかってきたようで、リュックをしょって泣かずに帰っていくようになりました。親としては、淋しい気持ちもありましたが、お姉さんになったなあといつも思っていました。
写真を見せて「寮に帰るよ」と声かけすると、一応車に乗り、寮の駐車場に着くものの車からは出てきません。「帰らない」と強く態度で表していました。パニックを起こして大変だったけれど、うれしい気持ちもありました。
外では大人のお姉さん風でしたが、家では甘ったれの末娘でした。児童寮に入っていた時、一時帰宅すると最初のうちは「帰らない、家にいる」と帰るのを拒否していました。
自閉症の人は社会性がないといいますが、娘はきちんと外と家の区別をしていて、大きな音が苦手でしたが、学校ではお姉さん顔をしてがんばっていたようでした。
電車が好きで電車の絵本を持ってきては指さして「名前を言って」という要求をしていました。よく指さしていたのは、特急スペーシアと京浜東北線でした。ジブリのビデオを見るのも好きでした。特にお気に入りは魔女の宅急便と天空の城ラピュタ、他のビデオも並べて順番に見ていました。
アンパンマン、トーマス、ミッフィー、ピング-等のキャラクターが大好きでした。音楽も好きでよく“いきものがかり”を聞いていました。特に“じょいふる”が好きでポッキーのCMで流れるとリビングの決まった場所で、ノリノリで踊っていたのが今でも目に浮かびます。
本当に笑顔が素敵でかわいくてしかたがない自慢の娘でした。アンパンマン、トーマス、ミッフィー、ピング-等のキャラクターが大好きでした。音楽も好きでよく“いきものがかり”を聞いていました。
3年経った今も、娘に会いたくて会いたくて仕方なく、あの笑顔がもう一度見たい。時間が経っても気持ちは全く変わりません。世間の人には何をどうして欲しいと言うことはないけれど、娘が一生懸命に生きたことを覚えていてもらいたいと思っています。
私が7月が来るのがつらいように、3月が来るのがつらいと聞き、私だけではないのだと思えました。娘がたくさんの人に出会わせてくれ、その人たちに支えられてきました。
娘を亡くしてから、悲しくて悲しくて辛い日々を過ごしてきたけれど、そんな中で、日航ジャンボ機墜落事故の遺族や、東日本大震災の遺族との出会いがありました。。
何より、嘘偽りのない笑顔に助けられてきました。そんな思いで育ててきた娘を「不幸をつくる」と勝手に決めて奪われたことに、やり場のない思いを抱えています。全然、不幸なんかじゃなかったのです。娘が私のもとにうまれてくれて本当に幸せでした。
娘は成長するにつれ、落ち着いて過ごせるようになり、多くのいい先生や友達に恵まれました。障害ゆえに本当に大変な時もありましたが、その分、何かできたときの嬉しさは倍増し、信じて待つことの大切さも教えてもらいました。
津久井やまゆり園には、事件の4か月ほど前に入所しました。何か所か見学した中で、やまゆり園の方だけが「今度は娘さんを連れてきてくださいね」と言ってくれ、本人を尊重してくれるように感じて決めました。
専門家の本を読み、講演に通い、少しでも娘のことをわかりたいと向き合ってきました。ほかの親御さんたちと、障害のある子やその親の気持ちを知ってほしいと、学校や地域で語ったこともありました。娘が、私の人生のすべてでした。
幼い頃、音に敏感で、雨が降っても、外出しても激しく泣き続けました。まだ障害が分かる前で、周囲からは「育て方が悪い」と厳しい目を向けられ、自分を責め、親として自信をなくすこともありました。3歳半で自閉症と診断されたあとは、とにかく勉強しました。
バニラ味のアイスが好きだったので、ソフトクリームの上だけ食べていた姿が懐かしく、街で売っているのを見かけると思わず買ってしまいます。もう、一緒に食べられないのが本当に残念です。
本当に笑顔が素敵で、かわいくてしかたがない自慢の娘でした。ミッフィーや機関車トーマスがお気に入りで、歌も大好きでした。言葉はなくても、表情豊かに意思を伝えてくれました。活発で、ジェットコースターも「キャー」と言いながら、ニコニコと乗っていたのを思い出します。

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