かねひさ和哉
2020/8/29
前回のコラムでは、1920-50年代のアメリカにおけるカートゥーンのトレンドを当時の時代背景や映画産業の移り変わりと共に俯瞰した。将来の日本アニメーション界への希望もテーマに内包していた前回に比べて、今回のコラムの内容は幾分か私的な要素が強くなる。今回は数十年間に亘って膨大な作品が生み出されたオールドカートゥーンの中から、筆者が独断と偏見により「これは絶対に見ておくべきだ」と判断した作品を紹介していこうと思う。
現在、日本ではパブリック・ドメイン(著作権の保護期間を過ぎた著作物)となった数多くのオールドカートゥーンがインターネット上で容易に視聴できる。日本で古い『漫画映画』を観るためにはTV放送や上映会で鑑賞するか、もしくはフィルムやビデオテープをアメリカから直輸入するしか方法のなかった時代があったことを考えると、今の日本はカートゥーンファンにとって実に恵まれた環境になったといえる。
その一方で、あまりにも膨大な数のカートゥーンが容易に視聴できるようになったために「どんな作品から見ればいいのかわからない」「この作品のネタが理解できない」と戸惑う初心者も現れるようになったのではないだろうか。
2001年生まれの筆者も、生まれた時には自宅にインターネット回線が備わっており、小学校に入る頃にはYoutubeやニコニコ動画のような動画共有サービスが既に幅広い層から受け入れられていた世代にあたる。もちろんCS放送や格安のDVDによってインターネットを経由せずオールドカートゥーンに触れる機会はあったが、多くの作品は小中学生の頃にインターネット上で視聴した。
1930年代のカートゥーンにインスパイアされたビデオゲーム『CUPHEAD』がヒットしオールドカートゥーン再評価の機運が高まっている今、我々のような若い世代がオールドカートゥーンに触れる機会はますます高まっているように思える。今回のコラムは、そのようなカートゥーン初心者の道しるべとなってほしい。
まず以下紹介する10作のカートゥーンは、あくまでも筆者の個人的な趣向が多分に含まれたセレクトであることを理解していただきたい。筆者は1930年代前半のフライシャー作品を偏愛しているので、結果選定基準にかなりの偏りが発生してしまった。それでもなんとか選定作品には偏りがないよう配慮し、なおかつ「これからカートゥーンを観ていく」人にとっても抵抗なく楽しめる作品を選んだつもりである。
各作品の見所を簡単に解説していこう。
本作はフライシャー・スタジオによる『Talkartoons』シリーズの一篇として公開された。本作の魅力は、なんといってもその無軌道なプロットや粗削りながらも勢いのある作画から生じる途方もない狂気とバイタリティにある。本作をはじめとする1930年代初頭のフライシャー作品における他社のカートゥーンとは一線を画す要素のひとつは、アニメーションの原初的な「見世物性」をそのまま保持していたという点である。1930年代を通じてカートゥーンのリアリズム化を推し進めたディズニーとは異なり、フライシャーは1930年代に入っても絵が動く快感そのものを表現し続けた。この時期のフライシャー作品は音楽と映像のリズムがぴったりシンクロしており、無生物や背景までもが動くスタイルは現代のアニメーション愛好家をも魅了している。ラストのオバケたちが大暴れするシークエンスは圧巻。
クレバーなユーモアで高い評価を得たチャック・ジョーンズの代表作のひとつ。メタな発言やギャグをぎっしりと詰め込み、「アニメーション」という媒体そのものを弄んでしまう監督の手腕に脱帽である。同様の趣向を凝らしたカートゥーンは1910年代より存在していたが(フライシャーの『インク壺の外へ』シリーズはその一例である)、本作ではカートゥーンにおけるメタの系譜が一種の頂点に達したといえるだろう。アニメーションの登場人物にとっては「高次元の存在」であるアニメーターに遊ばれてしまうダフィー・ダックの滑稽さは、メル・ブランクの名演も手伝って最高に輝いている。
奇才ボブ・クランペットによる紛れもない傑作だが、現代社会においては表現とキャラクター設定に大きな問題があり、残念ながら高画質での視聴が困難な作品となっている。「石炭姫と"しち"にんのこびと」というタイトルから明らかなように本作は『白雪姫』の黒人版であり、人種差別的な表現が随所に見られるのである。しかし、本作がカートゥーン史上最もワイルドかつ楽しい作品であることは事実だ。ボブ・クランペットはテックス・アヴェリーの系譜で語られることが多いが、良い意味でヤケクソ感満載の能天気な作風はむしろフライシャー兄弟の後継にあたるといえるだろう。ボブ・クランペットは演出の指示によってスタッフを抑制するといったことはほとんどなく、作品は暴走する作画と音楽と声優の勢いだけで成り立っている。わずか7分で長編アニメーション一本分のような密度の内容をがむしゃらに突っ走ってしまうクランペットの心意気に乾杯!
1930年代のディズニーが「リアリズムの戯画化」の観点から見ていかに急成長したかを物語る名作である。本作の情景描写は単体で観ても驚嘆ものだが、本作を含んだ短編シリーズ『シリー・シンフォニー』を公開年度順に観ていくと、本作の真の恐ろしさがわかる。わずか10年足らずで、ディズニーが演出・作画の双方において、また音楽演出の面においても目覚ましい発展を遂げたことがわかるだろう。PANやTUを多用した叙情溢れる風車小屋の描写とスピーディーなカット割りが行われる激しい嵐のシークエンスのコントラストは、もはやカートゥーンが「漫画」ではなく「映画」になったことを物語っている。
本作は、当時アメリカで絶大な人気を誇っていたジャズミュージシャンのキャブ・キャロウェイが出演しているフライシャー作品のひとつである。本作以前に公開されたキャブ出演作として『Minnie the Moocher』『Snow-White』の二作があり、そちらをより高く評価するアニメーション愛好家が多いようだ。本作は前二作よりもドラマ性が薄く、現代でいうところのミュージックビデオ的な立ち位置にあるといえるだろう。しかしフライシャー作品の醍醐味は「ジャズとアニメーションのシンクロ」にあると信じてやまない筆者は、その魅力が最も表出した本作をベストに挙げる。本作は最初から最後までノリの良いジャズがバックに流れ、キャラクターは皆スウィングし続けるのである。心浮き立つスウィングジャズを目と耳でたっぷりと感じて元気になろう。
テックス・アヴェリーはワーナーやMGMで数多くの傑作を残したが、どれか一つを選べと言われて筆者がベストに選ぶのは、恐らく『Northwest Hounded Police』だろう。テックス・アヴェリーは過激なギャグ、狂気に満ちたユーモアをテンポよく一本の作品としてまとめ上げる天才だった。ギャグの質もスピードも、1940-50年代を通じてアヴェリーに敵う監督はいなかったといえるだろう。本作はそんなアヴェリーの集大成ともいえる傑作だ。ギャグ自体はそれまでの作品で既に使われたものも少なくないが(そもそも本作が『Dumb Hounded(つかまるのはごめん)』のリメイク作である)、本作では彼が積み上げてきたギャグが最も良い形で表現されている。狼がフィルムの外に飛び出してしまったり狼が映画館で観る映画にドルーピーが出演したり…といったギャグは、『Duck Amuck』とはまた違ったメタのセンスを感じさせる。MGMに移籍してからのアヴェリーは、キャラクターに激しいリアクションを取らせることで笑いを生み出していた。上掲画像を見ればわかるように、本作ではそんなアヴェリーの顔芸ギャグが一種の極致に達した。ギャグの精度が高すぎて、もはや悪夢の域にまで達しているのである。
『Northwest Hounded Police』と並んで筆者が「アヴェリーといえばコレ!」と認識している作品が、『Red Hot Riding Hood』だ。本作はアヴェリーの最高傑作というよりも、アヴェリーのアイコン的な意味合いが強い。童話を都会風にアレンジしてしまう洒落っ気、ピンナップガールの風貌をした赤ずきんのエロティシズム、ハイテンションで暴れ回る狼とおばあさんの狂気、全てがアヴェリー作品の基本的な要素である。アヴェリーは狂気と暴力の作家だが、それを都会的なセンスでスマートにまとめ上げるところに才能があったのではないだろうか。
『Comicalamities』は、恐らく今回挙げた作品の中では最も知名度が低いと思われる。1920年代を通じて最も人気のあるカートゥーンキャラクターだったFelix the Catが主演の本作は、クリエイターであるオットー・メスマーの卓越した創造力が遺憾なく発揮されている点において特筆すべきだろう。まだ確固たるパーソナリティを獲得するキャラクターが少なかった1920年代において、Felixはしっかりとした「感情」「性格」を持っていた。本作においてFelixは「アニメーター」という存在を認識しており、自身が"描かれた"存在であることも認識している。しかし彼は『カモにされたカモ』のダフィーのようにアニメーターに弄ばれるわけではない。アニメーターを上手く利用して、自分に有利な状況を作り出していくのである。そのキャラクターの「自主性」にある新鮮な楽しさは、現代においても衰えていない。
『Rooty Toot Toot』は今回唯一選定したUPA作品だ。UPA特有のスタイリッシュな色彩と平面的な画面構成がとにかくクールなのである。恋愛のもつれから生じた殺人事件をテーマにした本作では、リミテッド・アニメーションが本来持っていた魅力を存分に味わうことができる。劇伴音楽も軽妙洒脱で実に聴きごたえがある。
『Bimbo's Initiation』は、『Swing You Sinners!』『Northwest Hounded Police』と同じく悪夢的趣向が強い作品である。同時期の他のフライシャー作品に比べるとジャズ要素は控えめだが(それでも逃避行シーンでジャズスタンダードのタイガー・ラグが流れる)、その分不条理かつキッチュなフライシャーの世界観をまるごと享受できる。なぜビン坊が秘密結社に追われなければならないのか、なぜビン坊は拷問を受けなければならないのか、そんな疑問は彼がベティに惚れてしまえば全てがどうでもよくなるのだ。全てが投げやりのまま終わるオチは、この時期のフライシャー作品の定番である。こうした支離滅裂な構成も、プロットの整合性を一切考慮せず、ただアニメーションの純粋な快感を追い求めた結果なのだろう。我々はそこに、現代のアニメーションにはない新鮮なアナーキズムを見出すのである。
前章では、筆者が独断と偏見で選定したカートゥーン10作の簡単な紹介を行った。紹介した作品の中で気になった作品が一つでも見つかれば幸いである。琴線に触れた作品を作ったスタジオ(もしくは監督)の、他の作品を漁ってみることで新たな発見が訪れるかもしれない。こうした過程を経ていくうちに、もっとカートゥーンについて知りたい、世間一般ではどんな作品が「名作」とされているんだろう、といった疑問に出会うかもしれない。
こうした疑問を解決するには、世界各国で出版されているカートゥーンをはじめとするアニメーションの評論本・研究本が役に立つ。
アメリカでは、アニメーション史研究家のジェリー・ベックが1994年に『The 50 Greatest Cartoons: As Selected by 1,000 Animation Professionals』(Turner Publishing Company)を編纂している。1000人のアニメーション業界で働く人々への調査に基づいて編纂されたこの本では、(選考がワーナー・ブラザース作品、特にチャック・ジョーンズ監督作に偏っているきらいはあるが)アメリカのカートゥーン史に残る傑作50作品が選出されている。選出された作品はいずれもカートゥーン史において非常に重要な作品ばかりなので、まずはこの本で紹介された50作を見ておくと良いだろう。同書のタイトルをインターネット上で検索すると、選出された50作のタイトルも知ることができる。
アメリカのカートゥーン史を大まかに理解するためには、レナード・マルティンによる『Of Mice and Magic: A History of American Animated Cartoons』は必読といえるだろう。アメリカにおけるアニメーション産業の誕生から1970年代に至るまでのカートゥーン史が一望できる。レナードが文中で高評価している作品群の中には今なお視聴困難な作品も含まれているが、これを読むともはやカートゥーンの初心者ではなくなるのではないだろうか。権藤俊司の監訳により『マウス・アンド・マジック: アメリカアニメーション全史』(楽工社、2010年)というタイトルで日本語版も出版されているので、ぜひ読んでいただきたい。現在絶版で入手困難だが、図書館で借りて読むことができる。
日本では、森卓也『定本アニメーションのギャグ世界』(アスペクト、2009年)がカートゥーン初心者向けの入門書といえる。1978年に奇想天外社から出版された単行本を底本としているので、現代の目線で見ると少し時代がかった本ではあるが、『トムとジェリー』の全作解説が挿入されていたり、森によって選定された短編カートゥーン40作が紹介されていたりと、初心者にとってのガイドブックになる要素は大きい。他にも、伴野孝司と望月信夫の共著『世界アニメーション映画史』(ぱるぷ、1986年)などが参考になる。
各スタジオの詳細な事象について知りたければ洋書に手を出すしかほぼ方法がなく、初心者や英語に堪能でない者にとってはやや敷居が高い(筆者も英語はあまり得意ではない)。しかしディズニーに関しては日本でも様々な本が出ており、中でもフランク・トーマスとオーリー・ジョンストンによって執筆された『ディズニーアニメーション 生命を吹き込む魔法 The Illusion of Life』(徳間書店、2002年)が基礎文献といえるだろう。残念ながらこちらも現在入手困難となっているが、図書館で借りて読むことができる。
こうして「ビギナーズ」向けの記事を書いていると(筆者自身まだカートゥーンに目覚めて10年ほどしか経っていないわけだが)、カートゥーン初心者向けのガイドブックになり得る存在の少なさを改めて痛感する。筆者も小学生の頃はWikipediaの『アニメーションの歴史』や『アメリカン・アニメーションの黄金時代』といった記事から得たうろ覚えの知識をなんとか活用して頭の中で自分なりのアニメ史を作って、Youtubeで作品を見漁っていたものである。
上映会で作品を鑑賞し、海外から文献を取り寄せて情報を収集した世代の熱意は我々の世代からすると信じられないほどに濃いが、濃度が高い分ファンの「人口」は今以上に少なかったはずだ。恐らくこれからはカジュアルにカートゥーンを受容するライトなファンが増えていくように思う。Twitterを見ていると、冒頭で述べた『CUPHEAD』やディズニーキャラクターのファンを経由して、ライトな日本人のカートゥーンファンが増える風潮が既に現れている。こうした層に少しでもカートゥーンのさらなる面白さを訴求していきたいというのが、最近の筆者の思いである。
2001年、大阪府生まれ。現役大学生アニメーション研究家/ライター。幼少期に動画サイト等で1930-40年代のアメリカ製アニメーションに触れ、古いアニメーションに興味を抱く。2018年より開設したブログ「クラシックカートゥーンつれづれ草」にてオールドアニメーションの評論活動を始める。以降活動の場を広げ、研究発表やイベントの主催などを行う。