防災の日に考える 切れ目造る霞堤の知恵

2020年9月1日 07時30分
 九州が豪雨災害に襲われていた七月初め、ダムや堤防による「強靱(きょうじん)化」に頼らず、田んぼの遊水機能の活用や開発抑制など流域全体で治水を目指す「流域治水」への転換が、国から公表されました。
 その中に「霞堤(かすみてい)の保全」の項目があります。「あえて水をあふれさせて大水害を防ぐ」という霞堤。早くから霞堤を整備した愛知県東部の一級河川・豊川(とよがわ)=写真、本社ヘリ「まなづる」から=を訪ね、防災のあり方を考えました。
 酷暑だった日曜日の昼下がり。豊橋市役所に近い豊川の左岸堤防上の道路を、上流へ歩きました。
 「霞堤はどの辺ですか」。出会った男性に尋ねました。「霞堤?」という反応に「堤防がなくなっている所です」と問い直すと、「ああ。ここから五分ぐらい歩いてごらん」と教えてくれました。

◆堤防がなくなっている

 数分後、道路は行き止まりに。その先数百メートルにわたって堤防はなく、代わりにアシの群生が水中から伸びています。堤防はその先から上流へ“復活”していました。川の水は「差し口」と呼ばれる切れ目から堤外に流れ込み、その外には遊水地の役割を果たす田畑が広がっていました。
 (1)本流の堤防を一部切って不連続に(2)流水を外に出し上流へ鋭角に誘導する堤防を築く(3)水は遊水地にたまる(4)水量が減れば自然に本流に戻る−。上から見ると、木の幹から斜め上に枝が伸びているようにも見えます。遊水地は土地利用に規制を掛け、住宅地にならないようにします。「特定の場所から水を流して、住宅地など他地域を守る」という機能です。
 全長七十七キロの豊川の上流域は山地。降水が短時間で一気に川の流量を増やす半面、下流域は標高差が緩慢な豊橋平野を蛇行し、古くから洪水が絶えませんでした。『生きている霞堤』(藤田佳久著)には、豊川では十七世紀終盤の江戸時代の元禄期に霞堤の原初形態が造られていたとあります。
 その後、霞堤は次々に造られ、昭和中期には九カ所(右岸五、左岸四)ありました。霞堤から流れ込む水には上流部の腐葉土が含まれ、耕作に好影響があるともされていました。
 しかし「他地域を守るために自分の田畑が水につかるのは不公平だ」との声は強く、一九六五年、国は水害低減のために豊川放水路(六・六キロ)を掘って豊川下流に接続させました。本川の流量は減り、右岸の霞堤五カ所は閉鎖されました。今残るのは左岸の四カ所です。今も、三〜四年に一度ほど霞堤から川の外部に浸水し、他の地域は水害を免れています。

◆現代にはそぐわない?

 霞堤は、社会の仕組みが「上意下達」だった時代に発想されました。ルーツは、戦国武将・武田信玄による甲州の治水事業「信玄堤」とも伝わります。民主主義が確立し、土地利用も多様化した現代に、必ずしも適合しないとも指摘されます。
 昨年十月の台風19号による大雨で、長野県千曲市では、千曲川の霞堤から流れ出た大量の水で住宅など千六百棟が浸水する被害が出ました。「想定を超えた流量で住宅地まで浸水した」といい、同市は市内五カ所の霞堤のうち、被害の大きかった二カ所を今月中に応急閉鎖することにしました。
 河口付近にある領主のお城(吉田城)を守る意味もあった豊川の霞堤も、見直しの段階に入りました。国土交通省は、今残っている霞堤をやめて、切れ目前後の堤防と比べ、二・五〜三メートル低い小堤(しょうてい)でつなぐことにして、地元との交渉に入っています。
 同省中部地方整備局は、平成で最大の洪水(二〇一一年九月)でもあふれないように小堤の高さを設計。これで、堤外の浸水は十年に一度ほどに減るとみています。
 それ以上の水位になれば、小堤部からの溢水(いっすい)が予想され氾濫の場所があらかじめ想定できます。霞堤だった部分から水があふれるリスクは小さくなり、大水害による広範な被害も低減できる−。小堤は「あふれる場所を固定させる」という霞堤の精神を保全する工法と言えるかもしれません。

◆備えへのきっかけの日に

 きょう九月一日は、六十年前に制定された「防災の日」。今年は七月豪雨、八月酷暑ときて、コロナ禍の中、これから台風シーズンです。さらに、発生の予測が難しい地震も。身近な地域のハザードマップを確かめ、避難の経路や防災グッズを点検するなどして、恒常化・凶暴化する災害への備えを万全にする日にしたいものです。

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