「力石徹のモデルになった男」
“極真の龍”と謳われた極真空手・山崎照朝氏(73)を描写した新刊書がこのほど発売されました。
題して「力石徹のモデルになった男~天才空手家・山崎照朝」(東京新聞社刊)-筆者は東京新聞運動部に所属する森合正範記者です。
1947年(昭22)7月31日生まれ。 山梨県出身。極真空手の「第1回オープントーナメント~全日本空手道選手権大会」(1969年9月)を制覇するなど“極真の顔”として重い存在を示していた山崎氏は、引退後の現在、東京中日スポーツ新聞に格闘技コラム「撃戦記」を執筆するなど格闘技評論家として活躍していますが、実は「“力石徹”のモデルだった」ということは、知る人ぞ知る出来事として伝えられていました。
2018年12月に記された自身のコラム「撃戦記」には、こんなことが明かされています。
〈週刊少年マガジン(講談社)で1968年(昭43)に連載が始まったボクシング漫画「あしたのジョー」(梶原一騎原作)が今年50周年を迎えました。(略)68、69年の大学生は全共闘世代。東大紛争から日大全共闘と拡大した。学生は右も左もバリケードの中。梶原一騎原作でブームになったスポ根漫画の「あしたのジョー」は荒れた学生の心を癒やしてくれた〉
ちなみに山崎氏は、山梨県立都留高校2年時の1964年(昭39)冬、ケンカに強くなりたくて極真会館に入門。山梨県の実家から東京・池袋の道場まで片道約3時間を通い抜きます。週刊少年マガジンの「あしたのジョー」にライバルの力石徹が初登場したのが、山崎氏が日大農獣医学部に入学した翌月の5月-。
「撃戦記」での回顧を続けます。
〈極真空手の大山倍達は梶原先生と懇意で、私も梶原先生に声を掛けられた。ある日、梶原先生の事務所に呼ばれ、先生に「山崎よ。ジョーにライバルができたんだ。力石と言うんだ。モデルはおまえだよ」と言われた。(略)先日、連載50年の節目に新聞とテレビから取材を受け、当時を振り返った。解除にメドが立たないバリケード。そして毎日道場で空手に熱中していたあの頃にお会いした梶原先生。「あしたのジョー」は梶原武士道。先生も力石徹の剛直さが好きだったに違いない〉
空手家・山崎照朝の“おとこ道”
私がスポニチ本紙の運動部でボクシング担当を拝命したのは1987年(昭62)でその年の7月、WBC世界ジュニアウエルター級(現スーパーライト級)王者の浜田剛史(現・帝拳代表)がレネ・アルレドンド(メキシコ)とのリマッチに敗れたころでした。
とてもひと筋縄ではいきそうにない各社のボクシング担当記者の中に山崎氏もいて名刺交換の際、極真空手の“龍”ということを知って「この人が…」とびっくりしたものでした。
浜田の王座陥落後に帝拳(本田明彦会長) は、1988年(昭63)3月に当時、全盛の統一世界ヘビー級王者マイク・タイソン(米国)を東京に招へい。各社担当記者の日々、シ烈な取材合戦の中、新聞紙上の戦いとは別に山崎氏とは気の合うところを感じ、親しい記者仲間としての間柄が深まったと思います。
私から見れば、マスコミの現場ではなく、極真空手を背負う重鎮として要職に就いていてもおかしくない、と山崎氏には思いますが、そういうことにはまったく興味を示さない人なのですね。
新刊書の筆者・森合記者も冒頭の「はじめに」でこう書いています。
〈喫茶店に誘われ、いつも話す内容は、試合の進捗状況やボクシング界の現状、試合の感想ばかり。山崎さんは取材の昔話をすることはあっても現役時代の話は一切しなかった〉
本書を読んでいただければ分かりますが、自ら“人一倍”という、こと空手の稽古に関しては、あるいはさまざまな相手との戦いに関しては、凄まじいばかりの“山崎流”が散りばめられていながら「オレは表に出るのが嫌いだ」に徹しているのですね。
つまり、若きころ、空手の稽古のために山梨から東京まで往復7時間弱の道のりを黙々とクリアした、などということは、言うのは簡単でも実際は簡単ではないこと。それを貫き通したことに見られるように、山崎氏はストイックな“武道家゛なのですね。
いろいろな意味で精神論を尊ぶ空手家ゆえに政治的なことが嫌いな人。「武道の精神は社会に生かすために学ぶもの。だから空手で飯を食っていく考えはなかった」と言い切り、山崎氏が漂わせる“極真の龍”像は「謙虚で剛直な武道家」であり、あるいは「肉体を削り、渇きに耐え、孤独な己と闘い」あげく厳しい減量で死に至る力石徹の魂は、山崎氏の内面にもあるような気がしてしまいます。
この書に関して山崎氏は、私に「森合正範(筆者)の思い込みが強い本ですから恥ずかしい。紹介はやめて下さい」というメールを送ってきました。
相変わらずの謙虚さですが、私は、数多くいる山崎ファン、あるいは一般の方々にも一読していただければ…その一読に値する内容に仕上がっている本、と思います。
題して「力石徹のモデルになった男~天才空手家・山崎照朝」(東京新聞社刊)-筆者は東京新聞運動部に所属する森合正範記者です。
1947年(昭22)7月31日生まれ。 山梨県出身。極真空手の「第1回オープントーナメント~全日本空手道選手権大会」(1969年9月)を制覇するなど“極真の顔”として重い存在を示していた山崎氏は、引退後の現在、東京中日スポーツ新聞に格闘技コラム「撃戦記」を執筆するなど格闘技評論家として活躍していますが、実は「“力石徹”のモデルだった」ということは、知る人ぞ知る出来事として伝えられていました。
2018年12月に記された自身のコラム「撃戦記」には、こんなことが明かされています。
〈週刊少年マガジン(講談社)で1968年(昭43)に連載が始まったボクシング漫画「あしたのジョー」(梶原一騎原作)が今年50周年を迎えました。(略)68、69年の大学生は全共闘世代。東大紛争から日大全共闘と拡大した。学生は右も左もバリケードの中。梶原一騎原作でブームになったスポ根漫画の「あしたのジョー」は荒れた学生の心を癒やしてくれた〉
ちなみに山崎氏は、山梨県立都留高校2年時の1964年(昭39)冬、ケンカに強くなりたくて極真会館に入門。山梨県の実家から東京・池袋の道場まで片道約3時間を通い抜きます。週刊少年マガジンの「あしたのジョー」にライバルの力石徹が初登場したのが、山崎氏が日大農獣医学部に入学した翌月の5月-。
「撃戦記」での回顧を続けます。
〈極真空手の大山倍達は梶原先生と懇意で、私も梶原先生に声を掛けられた。ある日、梶原先生の事務所に呼ばれ、先生に「山崎よ。ジョーにライバルができたんだ。力石と言うんだ。モデルはおまえだよ」と言われた。(略)先日、連載50年の節目に新聞とテレビから取材を受け、当時を振り返った。解除にメドが立たないバリケード。そして毎日道場で空手に熱中していたあの頃にお会いした梶原先生。「あしたのジョー」は梶原武士道。先生も力石徹の剛直さが好きだったに違いない〉
空手家・山崎照朝の“おとこ道”
私がスポニチ本紙の運動部でボクシング担当を拝命したのは1987年(昭62)でその年の7月、WBC世界ジュニアウエルター級(現スーパーライト級)王者の浜田剛史(現・帝拳代表)がレネ・アルレドンド(メキシコ)とのリマッチに敗れたころでした。
とてもひと筋縄ではいきそうにない各社のボクシング担当記者の中に山崎氏もいて名刺交換の際、極真空手の“龍”ということを知って「この人が…」とびっくりしたものでした。
浜田の王座陥落後に帝拳(本田明彦会長) は、1988年(昭63)3月に当時、全盛の統一世界ヘビー級王者マイク・タイソン(米国)を東京に招へい。各社担当記者の日々、シ烈な取材合戦の中、新聞紙上の戦いとは別に山崎氏とは気の合うところを感じ、親しい記者仲間としての間柄が深まったと思います。
私から見れば、マスコミの現場ではなく、極真空手を背負う重鎮として要職に就いていてもおかしくない、と山崎氏には思いますが、そういうことにはまったく興味を示さない人なのですね。
新刊書の筆者・森合記者も冒頭の「はじめに」でこう書いています。
〈喫茶店に誘われ、いつも話す内容は、試合の進捗状況やボクシング界の現状、試合の感想ばかり。山崎さんは取材の昔話をすることはあっても現役時代の話は一切しなかった〉
本書を読んでいただければ分かりますが、自ら“人一倍”という、こと空手の稽古に関しては、あるいはさまざまな相手との戦いに関しては、凄まじいばかりの“山崎流”が散りばめられていながら「オレは表に出るのが嫌いだ」に徹しているのですね。
つまり、若きころ、空手の稽古のために山梨から東京まで往復7時間弱の道のりを黙々とクリアした、などということは、言うのは簡単でも実際は簡単ではないこと。それを貫き通したことに見られるように、山崎氏はストイックな“武道家゛なのですね。
いろいろな意味で精神論を尊ぶ空手家ゆえに政治的なことが嫌いな人。「武道の精神は社会に生かすために学ぶもの。だから空手で飯を食っていく考えはなかった」と言い切り、山崎氏が漂わせる“極真の龍”像は「謙虚で剛直な武道家」であり、あるいは「肉体を削り、渇きに耐え、孤独な己と闘い」あげく厳しい減量で死に至る力石徹の魂は、山崎氏の内面にもあるような気がしてしまいます。
この書に関して山崎氏は、私に「森合正範(筆者)の思い込みが強い本ですから恥ずかしい。紹介はやめて下さい」というメールを送ってきました。
相変わらずの謙虚さですが、私は、数多くいる山崎ファン、あるいは一般の方々にも一読していただければ…その一読に値する内容に仕上がっている本、と思います。
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