菅義偉氏の父 本人の名前付けたブランドイチゴで大成功した
「最強の官房長官」とも称される菅義偉氏。安倍晋三首相の憲法改正への思いが祖父の岸信介に繋がることはよく知られているが、菅氏にはそうした血筋へのこだわりなど見えてこない。だが、政治家としての彼には、否応なく父親の影が見え隠れする。国際情報誌SAPIOでの連載「総理の影 菅義偉の正体」でノンフィクション作家の森功氏が迫る。(敬称略)
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「お父さんが東京にお見えになるときは、私が運転手として案内していましたから、よく知っていますよ。官房長官とは違い、早口でよく話される方です。ただ、かなり秋田の訛りが強いので、私には何をおっしゃっているのか、さっぱりわかりませんでした」
そう振り返るのは、横浜市議会議員の遊佐大輔(三四)である。二〇一一年四月の市議選に当選するまで菅義偉の秘書を務めてきた。遊佐は、豪放磊落な菅の実父、和三郎(わさぶろう)のことが強く印象に残っているという。
菅はその父和三郎と母タツの長男として、一九四八(昭和二十三)年十二月六日、秋田県雄勝郡秋ノ宮村に生まれた。故郷は五五年四月、雄勝郡内の秋ノ宮村、院内町、横堀町が合併して雄勝町となり、さらに二〇〇五(平成一七年)年四月に湯沢市に編入された。湯沢は小野小町の出生地で、人気のブランド米「あきたこまち」の産地としても知られる。新潟の魚沼市と同じく、雪深い米どころだ。
終戦から三年経たいわゆる団塊の世代の菅自身も、農家の長男として育った。が、実家は米づくりをしていたわけではない。
菅の父和三郎は、終戦から間もなく、「これからは米だけでは食っていけない」といい、いちごの栽培を始めた。地元のこまち農業協同組合に対抗し、いちご生産集出荷組合を創設。もっぱら地元の「秋ノ宮いちご」の生産に熱を入れた。
湯沢は全国的に知られるいちごの産地ではなかったが、豪雪地帯の寒冷地ゆえ、出荷を遅らせた。これが大成功する。本人の名前から付けた「ニューワサ」というブランドで秋ノ宮いちごを売り出した。一〇年六月二十八日に九十二歳で鬼籍に入るまで、和三郎はいちご組合の組合長として、独自の生産、出荷・販売ルートを築く。この間、時折上京し、東京や千葉、神奈川を訪ねた。国会議員となった息子の秘書に運転手を頼んだのは観光のためだけではなく、出荷・販売ルートをつくる挨拶回りだったのである。
「おっかない親父でしたよ、官房長官のお父さんは。とにかく声の大きなお父さんというイメージがありますね」
そう懐かしむのは、湯沢市議会議長の由利昌司だ。由利は小学校時代から高校まで菅と同じ学校に通った幼馴染である。
「和三郎さんは、『稲作農業だけでは、生活が豊かにならない。もっと高収入の作物に切り替えないといけない』というのが口癖でした。それがいちごだったんです。甘いだけでは駄目で、日持ちがよくないといけない、と改良を重ねてつくったのが『ワサ』というブランド品種でした。それを自ら東京や大阪の卸売市場に持ち込んで営業に行ったもんです。
ベテランの東京の市場関係者なら、たいてい今でも『ワサ』というと和三郎さんがつくったいちごだと覚えています。私が議員になって築地の卸売市場に市場調査に行ったときなどは、専務さんが応対してくれてね。そのときも和三郎さんの話題が出て、相当有名なんだな、と感心しました。まだ湯沢と合併する前の雄勝町の頃でしたけど」
息子の義偉は、そんな発想豊かな父親の背中を見て育った。苦労人というイメージがあるが、菅の実家はすこぶる裕福とはいえないまでも、貧農ではない。由利が続ける。
「まあ貧しくはなかったでしょうね。当時、冒険王という月刊の漫画雑誌があって、義偉君の家にはそれが毎月配達されていました。冒険王を買ってもらえる子供なんて、一学年に二~三人いるかどうか。当時はそんな時代でした。
義偉君の家は小学校から直線で百メートルほどしか離れていませんでしたので、漫画を読みたい友だちが家の前で並んで待っていたのを覚えています。本が届くと、義偉君は友だちに封を開けさせて、先に読ませていました。たぶん自分自身は、夜に読んでいたのでしょうね」
※SAPIO2015年8月号