「バブみ」について学ぼうと乳母の歴史に手を出した。
行き着いた先は臓器売買の現場。
乳母の本質は金で命を買うことである。
代理出産と階級
この前、代理出産が話題になっていた。
VERYに掲載された対談において、「代理出産という選択肢が増えることは、働く女性にとって素晴らしい」と、肯定的に語られた。それに対して代理出産の問題、負荷が低所得者の女性に押し付けられるという点が抜け落ちていると、批判が噴出したのだ。
代理出産の現状は女性の生殖機能の商品化である。利用側の意図はどうであれ、結果としては「金持ちが困窮した若い女性を搾取する形」となりがちだ。代理母は労働力だけでなく、自らの健康も金と引き換えに差し出さなくてはならない。そのため2010年代後半から、代理出産を人身売買の枠組みの中で改めて問い直される動きが生じていると、上記ツイートに貼られた論文に書かれている。
このような代理出産に関連する話を読んでいると、乳母を思い出す。
俺が乳母に育てられたという話ではない。代理出産の問題は、ヴィクトリア朝イギリスにおける乳母に通じるものがある、と思ったのだ。どちらも女性特有の身体機能を巡って、高所得者が低所得者を搾取する構造となっている。リアルの乳母は、「バブみ」という言葉からは程遠い。
乳を与える存在
乳母は二つのタイプに分けられる。授乳するか、しないか、だ。
日本語で「乳母」と言った場合、子どもを養育するのみで、授乳しない人のことも指す*1。これは英語でも同じで、 授乳の有無に関わらず子どもを育てる職のことを "nurse" と呼ぶ*2。
英語の場合はこの二つを区別する呼び名がある。授乳する者は "wet nurse" と呼ばれ、しない者は "dry nurse" と呼ばれる。つまり『プリコネ』のコッコロはその振る舞いから自他共に認める「ママ」であるが*3、あれはドライなママである*4。
しかし本記事で取り上げるのは「ウェット」の方だ。このブログの読者は「おっぱい」が好きなので*5。
理想は母乳育児
本記事の主な舞台は先に述べたとおり、ヴィクトリア朝のイギリスである。ところで西洋の乳母については、以前の記事で少し触れたことがある。
これではヨーロッパにおける、古代から近代かけての乳房観の変化について書いた。本記事は時代的に続きとなる。前の記事を読んでいない人は多いと思うので、乳母を中心におさらいを書いておこう。
かつて上流階級の女性の役割は、子どもを育てることではなかった。子どもを産むことである。ルネサンス期において、授乳期間中は乳汁に影響を与えるから性行為を控えるべきだとされ*6、しかも母乳が作られると受精が難しくなると考えられていた*7。
また、美的観点からも授乳は疎まれた。乳房は大きさよりも形が重要とされ、形が整っているものこそが美しく、垂れた乳は醜いとなる。乳房には筋肉が無いため、一度下垂してしまうと筋トレしようが元には戻らない。ゆえにクーパー靭帯に余計な負荷がかからないよう、授乳というストレス要因は避けるべきだった*8。
以上の理由から上流階級の女性は授乳すべきではなく、乳母に任せるべきという風潮となった。ルネサンス期の乳母は預け入れ制度が基本である。田舎に住む乳母の家へ、乳幼児を1年半から2年ほど預けるのだ。そこで乳母は我が子と預かった子を育てる。
この風潮に反対したのが医師や聖職者などである。母親が子どもに授乳するのが自然の摂理であり、神の意志である。自らの手で育てずに、どうして我が子を愛せるようになるのか、と。神はともかくとして、これはそれなりに正しいと言える。
乳児の成長に合わせて母乳の成分は変化する。初乳の重要性についてはよく知られている通りで、出産後3〜5日の間は常乳と異なる成分となっており、新生児を感染から守るのに重要だ。*9。常乳になった後も成分変化は続く。ミネラルやタンパク質は分娩後100日程度は減少傾向となる一方で、乳糖は増加する傾向にある。
成長に合わせた乳汁を提供できるという点で、母親自らが授乳する意味はある。
さらに愛情についても根拠がある。吸乳刺激を受けると、オキシトシン分泌神経の活動が刺激され、オキシトシンが血中に放出される。乳腺の筋上皮細胞にはオキシトシン受容体があり、これがトリガーとなって乳汁が射出される。オキシトシン血中だけでなく脳内にも分泌され、母性行動を取らせる役目も持つ。むしろオキシトシンの効果はこっちの方が有名だろう。なにせオキシトシンは「愛情ホルモン」や「幸せホルモン」などと呼ばれるくらいだ。それが吸乳刺激によって分泌されるのだから、授乳と愛情を結びつけるのは間違いとは言えない。
科学的根拠はさておき、医者・聖職者・道徳的権威者・科学者たちは母乳育児を推奨した。オランダの場合はこれがプロテスタント運動と結びついたが、イギリスにおいては国力だった。人間の健康は国家の健康である。国力を高めるため、極めて高い乳幼児死亡率を下げなくてはいけない。18世紀後半、乳房は二つに分けられた。一つは家族と社会の再建に繋がる母親の乳房。もう一つは汚染され崩壊した乳母の乳房である。
しかし乳母は消えなかった。出ないものは出ないのである。
人工哺育は難しい
母乳育児の有用性が高々に叫ばれても、乳母のメリット (高い出産頻度・スタイルの維持) が失われたわけではない。そして何より、母乳育児をしたくても母乳が出ない場合や*10、そもそも母親が死去した場合*11はどうしたらいいのか。
19世紀半ばにおいて、まだ粉ミルクは実験的段階だった*12。当時の人工ミルクと言えるものは、小麦粉やパンなどを水や牛乳で溶いたものだった。しかし乳児はデンプン質をうまく消化できない。下痢をして栄養不足で死ぬことが多々あった。
では家畜の乳はどうだろうか。伝説によれば、ローマの建設者ロムルスとレムスは狼の乳を吸って育ったという。
18世紀後半の医師達が勧めたのはこれだった。もちろん狼ではなく家畜の乳である。特に組成が人乳と近いことからロバの乳を勧める医者が多かった*13。
しかし品質の観点で問題がある。成分以前に清潔さや新鮮さの問題があった。都市部で飼われてた家畜は劣悪な環境であり、農村部から届く乳は劣化する。さらに販売されている乳は、水で薄められたり、石灰が混ぜられていることさえあった。もし都市部で安全な家畜の乳を得たいなら自分で飼うしかない。
そこで最も飼いやすい動物に目がつけられた。ヒトである。
乳母を管理する
ヒトならば、その乳の組成は人乳と同じである。しかも都市部で飼いやすいし、不要になったら簡単に手放せる。やはり子どもに乳を与えるのなら乳母しかない。だが、その形態は以前とは違っていた。
前述したとおり、以前の乳母は田舎に住み、そこに子どもを預けるのが一般的だった。それはあまりにも無責任というものである。乳は血液から作られるため、乳母の気質は乳を通じて子どもに伝染する*14。乳母は目の届くところに置いて管理するべきなのだ。こうして乳母は住み込みとなった。
まず面接で、乳母の健康と気質を確認する。健康でしっかりした体格か、病気を持っていないか、清潔感。乳汁の質と量。精神の安定性。乳母の子どもの健康も問われた。自分の子さえ育てられない者に、どうして我が子を任せられるだろうか。
厳格な審査にパスした乳母は、雇い主の家に招かれる。乳母の待遇は良かった。栄養のある食事が与えられ、高価な衣服が支給される。食事は質の良い乳を作るため、衣服は雇用主の立場を示すためであった。我が家にみすぼらしい下層の女がいてはならないのだ。
乳母には衣食住と金が十分に与えられた。しかし与えられなかったものがある。それは自由だ。自由にした結果、性行為をして乳質が悪化しては困る*15。下層民と触れ合うのもよろしくない。家の品位が落ちる。給金はそこらの使用人によりも払っているのだから、それくらいの不自由は当然だ。なので雇用主によっては、雇用期間中は乳母に乳母の家族と会うことを禁じる者もいた。
なら乳母の子どもはどうなるのか。
奪われた乳
乳母が授乳できるのは、乳母が出産したからである。つまり多くの乳母には乳幼児がいる。この乳幼児たちにも乳は必要である。
かつては特に問題とならなかった。乳母は自分の家で乳母業を行っていたので、我が子にも授乳することができたからだ。しかし乳母が雇い主の家に住み込むようになると話は変わる。
雇い主にとって必要なのは乳母の出す乳である。乳母の子はその乳を飲みこそするが、量を増やしたり質を高めたりはしない*16。つまり邪魔なだけである。したがって乳母を住み込ませる際、子どもの同伴は許可されなかったと言っていい。乳母の子は乳を奪われたのである。
乳母に家族がいる場合は、残された家族が世話をすることになる。先に述べた通り、牛乳に小麦粉を溶いたようなものを与えるしかない。この時点で死亡率は高まるが、もっと危ないのはシングルマザーの乳母の子である。
頼れる家族がいない場合、乳母は子どもをベビー・ファームと呼ばれる個人経営の託児所に預けた。しかし託児所とは名ばかりで、管理は杜撰であることも多い。乳児の管理を預かった幼児に任せることもあれば、薄めた牛乳を冷たいまま乳児に与えることもある。とりあえず預かって放置が基本。そのためベビー・ファームに預けられた子どもの死亡率は非常に高かった*17。
結局のところ、起きていたのは臓器売買だったと言えるかもしれない。貧困層が金と引き換えに命を危機に晒し、代わりに富裕層が一人助かる。普通の臓器売買と異なるのは、臓器を売ったことでリスクを背負うのは本人ではなく、その子どもということだ。
終わりに
このようにヴィクトリア朝イギリスの乳母という制度には問題があった。これは現代の価値観だから問題に見えるのではない。当時の価値観でも問題であった。しかし乳母の雇用は続いた。貧困層が金のために乳母をやらざるを得なかったのと同時に、富裕層も我が子のために乳母を必要としていたからである。
結局の所、乳母が消えた*18のは道徳ではなく、技術の発達によってだった。安全な母乳代替物と人工哺乳器具が登場したことで、乳母を雇うインセンティブが消失したのである。おそらく代理出産も似たようなことになるだろう。
だからといって、搾取構造の代理出産を批判することを無駄とは思わない。現在の手法に問題があると認識するからこそ、解決策が生まれるためである。
参考書籍
この記事を書くのに参考にした本。一冊を除いて過去記事で紹介済。
『乳母の文化史』
- 作者:元子, 中田
- 発売日: 2019/01/30
- メディア: 単行本
おっぱいの本18冊目。この本が今回記事を書くきっかけとなった。
19世紀イギリスでの乳母について解説した本で、他の時代・地域については、ほとんど言及は無い。狭い範囲を深堀りするタイプ。育児書から新聞の求人広告、さらには文学作品と、様々な角度から乳母について考察していく。
『乳房論』
- 作者:マリリン ヤーロム
- メディア: 文庫
人の乳房に関する話をバランスよくまとめた本。後に出版された様々な乳房本で引用されるだけあって、神話における乳房から乳癌、さらには豊胸手術と、対象となる話は幅広い。まさしく乳房学の入門書。
『おっぱいの科学』
- 作者:フローレンス ウィリアムズ
- メディア: 単行本
女性のジャーナリストによる乳房の本。乳がんや母乳の汚染といった、乳房にまつわる自身の不安を調べていく形で書かれている。人体の仕組みと現代的な生活によるミスマッチは、乳房でも起きている。
『乳房の科学』
乳房文化研究会によるデータで乳房を語る本。乳房の「獲得」「活用」「喪失」について書かれており、人生における乳房の主なイベントを網羅している。娘がいる人に向いた、実用性の高い本。
『哺乳類誕生 乳の獲得と進化の謎』
- 作者:酒井 仙吉
- 発売日: 2015/01/21
- メディア: 新書
哺乳類がいかにして乳を獲得したか、という本。有性生殖の解説から始まり、生物の進化の仕組みをゲノムの倍加までふくめてきっちりやる。そこから時代を順に進めていき、残りページ数が半分を切ったところでようやく哺乳類にたどり着く。おっぱいへの道はかくも遠い。生物学的な意味で乳を一から学びたい人にお勧めの本。
関連する記事
本文中にも貼ったが、合わせて読むべきなのでもう一度貼っておく。
*1:さらに言えば乳母と呼ばれるからといって女性であるとも限らない。権力者の乳母になれば、権力に近づくことができる。また、子ども養育すること自体は男性にもできる。そのため日本の宮廷には男性の乳母がいた。この職種について鎌倉時代前半期には「乳母」と記されることが多かったが、他に「乳母夫」や「乳夫」「乳父」などと記されることもあった。それが鎌倉時代後半期には「乳父」という表記が多くなる。やはり男女ともに「乳母」なのは分かりにくかったのだろう。以上の内容は秋山喜代子の指摘として『乳房はだれのものか (AA)』から。
*2:もちろん看護師を指す言葉でもある。
*3:『プリコネR』コッコロはいつからママになったのか──コッコロ役の声優・伊藤美来さんから見た”真面目なガイド役”から”ママ化”するまでの経緯とは
*4:薄い本によってはウェットかもしれないが。
*6:母乳は子宮の血液が乳房に向かう過程で乳汁に変化すると考えられていた。その理屈から授乳期間中の性行為は乳汁の分泌の妨げや、乳を凝固させるなどと言われており、ゆえに性行為は避けるべきとなった。もちろんこれは間違いである。乳汁は胸部にある乳腺で作られるが、これは汗を出すアポクリン腺が変化したものだ。乳腺細胞は一種類・同じ細胞で乳汁の成分、乳タンパク質・乳脂肪・乳糖を血液から作り出す。こと乳の成分に関して子宮の出る幕はない。
*7:これは科学的に正しい。吸乳刺激によって血中プロラクチン濃度が上昇すると、生殖機能が抑制される。また吸乳刺激は卵胞を発育させるゴナドトロピンの分泌も抑制させるため、排卵が起きず、無月経となるためだ。
*8:加齢により乳腺が減って脂肪が増えても、乳房が柔らかくなって重力に負けやすくなる。なので形が整っているというのは、若さのシグナルになっている。だから形が重要となったのだろう。
*9:胎内は無菌であるため、新生児は細菌やウィルスに対する抵抗性を持っていない。出産後3〜5日の間に分泌される初乳には、免疫グロブリンが多く含まれ、これによって新生児は抵抗性を獲得するのだ。必要な抗体は住む場所によって異なる。母親と子は同じ場所で過ごすため、母親の持つ抗体を受け取る意義は大きい。
*10:厚生労働省が行った平成27年度 乳幼児栄養調査結果によると、授乳について困ったことについて「母乳が出ない」が11.2%、「母乳が不足ぎみ」が20.4%である。平成27年度 乳幼児栄養調査結果の概要 |厚生労働省
*11:日本産婦人科医会の報告によれば、現代の20~25歳の妊産婦死亡率は10万人あたり2.5人だ。これが30代後半では2.8倍、40歳以降では4.7倍に上昇する。妊産婦死亡報告事業 - 日本産婦人科医会
*12:1867年、スイスのアンリ・ネスレが粉ミルクを売り出す。この成功がネスレを今の地位に押し上げた。比較的ムラの少ない粉ミルクを大量生産できたのはこの頃からだ。
*13:ちなみに犬の乳は人乳とかけ離れている。ロムルスとレムスは乳糖が不足していたことだろう。
*14:そんなことは無い。
*15:先にも書いたとおり、乳は子宮で作られていると思われていたので。
*16:生産される乳量は消費量によって増減する仕組みがあるので、乳を吸う子どもが増えれば「生産量そのもの」は増えることはありえる。ただし子ども一人あたりの量は増えないだろう。ちなみにヒトの場合、乳房の大小と泌乳能力は無関係である。
*17:ハーヴィー医学協会の名誉初期局長ジョン・ブレンダン・カーゲンヴェンの調査によると、ベビー・ファームに預けられた子供の死亡率は75~90%であったという。
*18:現在は別の形で乳母が存在するので、正確には住み込み式で乳母の子を犠牲にするタイプの乳母が消えた、と言うべきだが。