第6話『乾杯』Part2 Part1に戻る
十六年前。五月二十日。とある産院。ここに赤星瑞枝は入院していた。
「瑞枝」
男の声に呼んでいた女性週刊誌から顔を上げた瑞枝の目に小柄な男の姿が目にはいる。
「あなた。そんなところでどうしたの?」
のんびりとおっとりと語りかけるが、さすがに妊婦揃いのこの部屋には赤星秀樹も入りづらい。
それでも『夫が妻を見舞うのになんの遠慮がある』と照れながらも入ってきた。
「どうだ? 様子は」
ベッドの脇にある椅子に腰掛けもしないで尋ねる。
「元気よ。私も。赤ちゃんも」
さすがに女性。微笑が自然に出てくる。
「そうか。それはいい」
「今日も中から蹴ったの。きっと元気な女の子ね」
朗らかに話す瑞枝に一瞬絶句する秀樹。苦笑しつつ指摘する。
「…瑞枝…そう言う場合は男の子と言うのが相場じゃないか?」
「あら。だって世の中にはいろんな人がいるのよ。男の子みたいに元気な女の子がいたって不思議じゃないわ」
無邪気に話す妻にちょっとため息をつく夫。
「…お前は本当に女の子が欲しいんだな」
「だって可愛いじゃない。私ね…いつか娘が大きくなってお嫁に行く時に手紙を読んでもらって、一緒に泣くのが夢なの」
「俺は息子とキャッチボールがしたいよ。酒も酌み交わしたいがお前がまったくだめだから、その血を引いたら下戸かもな」
「女の子はお酒飲めなくてもいいじゃない。私ね。もう赤ちゃんグッズも女の子用でたくさん買ったのよ」
傍らにおいてあるのがそれらしいがピンクの洪水である。
「気…気が早いな…」
さすがに気後れする。
『お呼び出しします。赤星秀樹様。赤星秀樹様。お電話が入っております。ナースセンターまでお越しください』
彼は珍しく舌打ちをする。
「…仕事…だな…」
「……危ないことをしないでね」
「わかっているよ。じゃあな。また来る」
彼は颯爽と立ち去る。
「ああ…間違いない。奴は潜伏している。オレが…そんな。これはオレの仕事…すまん。確かに今はあいつにはオレが必要。まかせるよ。今度おごらせてくれ。じゃ」
ナースセンターで電話を受けると彼は礼を言って病院を出ようとする。
そこにちょうど身重な女性がやってきた。女性は秀樹に気がつくと会釈する。
「こんにちは。ご主人」
「こんにちは。及川さんの奥さん」
秀樹もその端整なマスクで笑顔を作る。
「どうですか? 奥さまは」
「ええ。昨夜陣痛が起きて運び込んだものの結局もう少し先らしく」
「そうですか。私は夏の盛りになりそうです」
「今日は検診ですか?」
「ハイ。でもだめですね。普段は患者さんを世話しておきながら、自分が世話される段階になると慌てちゃって。なんだか患者さんの気持ちが理解できた気がしますわ」
「ご主人は?」
「相変わらず飛びまわってて」
「そうですか。お隣同士。何かあったら遠慮なく言ってください」
「おじさま。それって」
「うむ。七瀬くんのお母さんだ。自分の努めている病院だと同僚に入らぬ心配かけるからと別の産院を選んだらしい。その生真面目さが君にも受け継がれているな」
もちろん秀樹はナースセンターでの電話の話はしていない。喫茶店のマスターである彼が何をしているのか…
「君は八月に生まれてね。瑞樹が男の子で君が女の子なものだから瑞枝のやつ。お嫁さんにとはしゃいじゃってな」
「じゃあんたら…文字通り赤ん坊のころからの付き合いだったのか…そりゃ年季が入ってるわ…生半可な幼なじみじゃねーな…」
呆れ半分で真理が言う。神妙な表情で十郎太が続く。
「七瀬殿が生まれたことでご両人の歴史が…時は動き出す」
五月二十六日未明。無事に男児を出産。執着と言っていいほど女の子を望んでいただけにがっかりするかと思われたが、初産と言うこともあってか五体満足に生まれてきただけで十分だったようだ。
「サルだな…まるで」
初めての子どもに接した秀樹の第一声がこれだ。
「まぁひどい。あなたと私の子よ」
「ははははっ。すまんすまん。もちろんだ。さて…名前はどうするかな」
「私ね。もう決めていたの」
「随分と手回しがいいな。で? どんな名前だ」
「瑞樹ちゃん。あなたと私の名前から一文字ずつあげるの」
「そりゃあいいが…『瑞樹』なんて女の子みたいな名前だな」
「そうでもないわよ。男の子っぽい名前かなと思っていもの」
(さては女の名前しか考えてなかったな…だが…悪くない)
「よし。決めた。お前の名前は赤星瑞樹だ」
秀樹は赤ん坊を抱き上げて熱っぽく語る。が…
「…なぁ…ところで肌着は男の子の物にしないか?」
実は女の子用のピンクの肌着をそのまま着けていたのだ。
「あら? 買っちゃったんだからもったいないわよ。どうせ2年も使わないのですもの」
「いや…その間にすりこみ現象で変な癖がついたりしたらまずいぞ。子供のオカマなんてことになった日には…」
この時は次男坊が本当にそうなるとは思いもしない秀樹だった。
「万事が万事。その調子だったな。私が仕事で目が届かないのをこれ幸いと、二つくらいまではなにも判らない幼児にスカートを履かせるし…」
「…なるほど…制服が初めてだったわけじゃないのだな…」
「でも瑞樹さんのお父様。喫茶店のお仕事はどうなさってましたの?」
「あ…ああ…色々とね…そう…色々とだ」
姫子が怪訝な表情で尋ねるが露骨なまでの態度で話題をそらしに掛かる。
(聞いちゃいけないことかも…)
なんて榊原が考えていたらいきなり七瀬が素っ頓狂な声をあげた。大人びた彼女には珍しい行為だ。
「あーっ。小さいころ遊んだ覚えのある『女の子』って…あれ…もしかして瑞樹だったのかしら?」
「あり得る。だがしかし薫の方かもな。あいつはむしろ自分からスカートを履きたがったし…」
「どうしてぇ? 男の子なんでしょ? そうは見えないけど」
「瑞枝の奴…次こそ女の子と執念燃やしていたからな。だからそう決めて掛かって胎教の時点で女の子を前提にしていたし。ちなみに瑞樹の女物は全て薫に使われた。さすがに忍の時は私が新品の男の子用を買ったがな」
ここで彼は中途半端に残っていたビールを一気に飲み干す。
「薫は例外中の例外だ。いくら女として育てられても体は男だ。瑞樹も元が女っぽい顔つきだったから何の違和感もなかったがそれでも四つくらいになればさすがに自我も芽生えてくる。女の格好をいやがり出してな。そのころから殊更『男らしさ』に拘るようになったが悪い意味での部分が伸びて…粗暴な所がな」
「なるほど。あのぶっきらぼうはその産物か」
真理が自分のことを棚に上げて手を打った。
瑞樹。七瀬。ともに5歳。薫4歳。寒い時期だったのでみんな長いズボンを履かされていた。
ただ瑞樹と七瀬は同じデニム地のもの。薫は真っ赤なものである。もちろん、確信犯である。
瑞樹にも履かせようと試みたもののとことん嫌がりさすがに断念した。
この辺りでは諦めていたがそのぶん素直に女の子ものを受け入れる薫に集中した瑞枝である。
このころの瑞樹は丸顔だった。現在でも女の子になると割と丸いがそれがそのまま4歳児になるとこんな感じか。男の子にしてはさらさら気味の髪は女性用シャンプーを使われるせいかもしれない。
一方の七瀬は当時はがりがりだった。それでいて小さい女の子は割と早く大きくなる。おかげで瑞樹が女の子。七瀬が男の子と間違われる事も多かった。
この日もそんな展開だった。商店街に入るとすぐにパン屋があった。ちょうど客足が途絶えたので店の前に散る落ち葉を店主が掃いていた。
「こんにちは。パン屋さん」
瑞枝が独特の柔らかい声質で優しく挨拶する。店主は瑞枝に気がつくと急に緊張したように固まる。
「ど…どーも。奥さん。しあわせパン屋さんの日玉です」
完全に上ずっている。確かに美人の上に優しいのでめろめろになるのも判るがすでに二人の子持ちである。
「子供達におやつをあげたいのでそのまんぼうパンを三つください」
「はい。ただいま用意します」
店主は頼まれたものをそのまま子供達に手渡そうとする。
「はい。お嬢ちゃん達」
「ありがとう」
鼻にかかった声ながら天使の笑顔で薫は受け取る。だが瑞樹はふくれっつらで
「おれはおとこだ」
ろくに回らない口で反論する。
店主は瑞枝の子供を見たのは初めてだったので、顔の印象で女の子と思いこんでしまった。
そしてそれを責められるものでもない瑞樹の顔立ちだった。
「ええっ!? 本当かい…ごめんね。あんまり可愛いからおじさん女の子かと思ったよ」
ばつが悪くなりごまかすためにか七瀬に向き直りパンを手渡す。
「はい。ボクにも」
「……わたし…おんな…」
瑞樹がおかっぱ頭だったのに対し七瀬はショートカットだった。また商店街に元気いっぱいで入ってきたのも七瀬のほうだった。店主は言葉に詰まる。
「七瀬。いつも言うでしょう。女の子はもっとお淑やかにしてないといけないのよ。だから男の子に間違われるのよ。そんなんじゃ誰もお嫁さんにしてくれないわよ」
「やだ」
「だったらもっと女の子らしくしなさい」
「わかった」
素直に聞き届けた七瀬だが次に出てきた質問は幼児ならではの脈絡のないものだった。
「ねぇ…お母さん。あたしもおおきくなったらおっぱい大きくなるの?」
本当に脈絡はないが『女の子の自覚』の現れと受け取った母親は優しく答える。
「なるわよ。女の子は大きくなったら誰でもお嫁さんになるまでにはおっぱいが大きくなるわよ。そうだ。小学校に行くようになったらお料理を教えてあげるわ」
「まぁー。良かったわね。七瀬ちゃん」
「うん」
元気いっぱいに答えた七瀬はまたまたすっ飛んだことを言い出す。
「ねえお母さん。瑞樹ちゃんも大きくなったらお嫁さんになるの?」
「うふふふ。瑞樹ちゃんは男の子だからお婿さん。おっぱいも大きくならないわよ」
「……なんて会話をした覚えがあるけど…まさかみずきの胸があんな大きくなるなんて夢にも思わなかったわ…」
「そりゃおれのビッグ・ショットでも予知できないな…」
「でも七瀬ちゃん。すごいなぁ。そんなちっちゃいころからお嫁さんになるためにがんばってたんだぁ。だからお料理が上手なんだね。すごいなぁ。尊敬するなぁ」
目をきらきらと光らせて綾那が本当に尊敬したように言う。苦笑しつつ七瀬は正す。
「そんな大げさなもんじゃないわよ。綾那ちゃん。ほら。たいてい小さな女の子は『大きくなったらお嫁さんになる』と言うじゃない。でも良く考えると意味なんてまるでわからないで言ってるわね。今にして思えば」
瑞樹と七瀬。ともに小学三年生。
このころになると七瀬はふくよかになってきてだいぶ女らしくなってきた。ただしちょっと太目の範疇にはなっていたが。
逆に瑞樹は細くなってきたが顔は丸いので髪型もあり女の子にまだ間違われる。
だが性格はまさに悪ガキ。この日も瑞樹と七瀬は『レッズ』の店先でケンカしていた。
「瑞樹っ。謝りなさいよっ」
「やーだよー。めくられて嫌ならスカートなんて履くなよ。デブ七瀬」
「なんですってぇ。チビがり瑞樹。ぶつわよ」
小学生男児に麻疹のように流行る『スカートめくり』。それが喧嘩の原因だった。
そしてこのころにはすでに互いに兄弟姉妹のようになっていた。
だから自然と瑞樹と七瀬はたがいを呼び捨てにする間柄になっていった。薫も七瀬と姉妹のように付き合っていた。
「ベー。やれるもんならやってみなー」
「言ったわねぇ」
逆上した七瀬は全体重をのせ手首を効かせたビンタを見舞う。
そのパワーゆえに後に昇華して『スタッカート』と名づけられたがこの時点では未熟。
大ぶりした所をすばしっこい瑞樹にかわされる…が、当の瑞樹が後ろの街路樹に頭をぶつける始末。このころにはドジぶりをいかんなく発揮していた。
「いってぇーっっっ」
頭を抑えてしゃがみこむ瑞樹。しかしまだ七瀬の怒りは収まらない。つかつかと歩みより
「そんなにパンツが見たければじっくり見ろーっっっっっ」
瑞樹を空高く蹴り上げる。これが後に『アレグロ』と名づけられる技の原型。瑞樹は落下してまだ悪態をつく。
「何しやがる。バカ七瀬」
「バカは貴様だ」
いつのまにか(気配もさせずに)店内から外に出ていたマスターの秀樹が問答無用で息子の頭を拳骨で殴る。
「なにすんだよ!? とうちゃん」
頭を抑えて抗議する瑞樹。
「それはこっちのセリフだ。馬鹿者。男の拳は婦女子を守るためにあると何度教えればわかるのだ」
容赦なく決めつける。時代遅れ…時代錯誤のスパルタといえる。それでも瑞樹は反論する。
「とうちゃん。おれじゃないよ。七瀬が先にぶったんだよ」
「ぶたれるからにはそれなりのことをしでかしたのだろう。甘いぞ瑞樹。貴様はいつもそうだ。目先のことにとらわれて大事なものを見失う。明鏡止水の心を忘れたか」
「そんなむずかしいことわからないよ」
「わからずやめ」
充分に加減はしてあるが平手を見舞う。やられっぱなしでない気の強さはすでに顕著に表れていたが逆にこのやり取りで鍛えられたのかもしれない。
「やったな」
立ち上がり突っかかって行く瑞樹だが大人と子供では威力もリーチも及ばない。
だから腕の3倍の力である足の力を使うようになって行く。
しかし一発ではかわされるしまたその一撃で倒す威力もない。だから連発することを思いついた。 これがやがて『スタークラッシュ』『コスモスエンド』へとなって行くがここではまだ思いつきの技。掠りもしない。
「わははははははは。どうした? 貴様の力はそこまでか」
発奮させ成長を促すと言うより本気にしか見えない秀樹の哄笑。
「くそっ。チクショオッ」
本気のどつきあいが親子の過激なコミュニケーションを形成して行く。その様子をすでに怒りが消し飛んだ七瀬が心配そうに見ていた。
しかし、勝てるはずもない。瑞樹はふてくされて川原でボーっとしていた。
「……瑞樹……」
見上げると心配そうな表情の七瀬がいた。意地か照れか。ぷいっと横を向いてしまう瑞樹。
「なんだよ。負けたから『いい気味だ』って笑いにきたのかよ」
いつもなら『なによ』とくらい帰ってくるが前々違う反応だった。
「ごめんね…私が蹴っ飛ばしたりしたからおじさんとケンカになって…ごめんね…本当にごめんね…」
バンドエイドを手にしたまま七瀬の両目から大粒の涙が零れ落ちる。突っかかってきたならまだしも泣かれては…瑞樹は大慌てで言い繕う。
「バ…バカ…泣くなよ。お前のせいじゃないよ。子供相手に本気のオヤジが悪いんだ」
「だって…だって…」
くしゃくしゃになってしゃくりあげる七瀬。元々は気の優しい女の子である。自分が原因で親子げんかになったと己を責めていた。
どうしていいかわからなくなった瑞樹は照れ隠しもあって七瀬の持ってきたバンドエイドをひったくる。
自分で傷口に当てようとしたが手を滑らせ遥か下まで落としてしまった。
「あ…………」
それが逆の七瀬の心を和ませた。くすっと笑ったので安心する。
「ちぇっ。拾ってこよっと」
「待って。瑞樹」
「ん?」
七瀬が瑞樹の腕をつかむ。そして見る見るうちに擦り傷が治って行く。
「え…なに? なんだ?」
「お友達が治してくれるの。私が出てきてほしいとおもうと来てくれるの」
これが後に『ダンシングクィーン』と名づけられるマリオネットである。すでに発現はしていた。
しかしその理由がいつも突っ張ってキズだらけの瑞樹をいたわる気持ちから生まれていたのだ。
『痛いの痛いの。飛んで行け』