序幕・その1
真夏。物語の始まる前の年の夏。八月。学生たちは6週間に及ぶ長い休みを満喫している。これだけ暑ければ勉強になど身が入る道理もない。
それでも『勤勉な学生』は容赦なく照りつける太陽を避けてクーラーの効いた部屋で進学の準備にぬかりはなかった。
会社員たちはお盆に休みはあるがそれでもこの暑い中スーツに身を包み汗だくになりながら携帯電話片手に町を行く。
そんなありふれた町の光景。雨上がりの街を救急車がけたたましいサイレンを鳴らし急行する。むろんこれだけの人間が町にはあふれている。誰かが具合を悪くして救急車の世話になるのも珍しいことではない。ましてや三十度近い気温では気分を悪くしても何も不思議はない。その救急車は練馬区のとある喫茶店の前に停車した。
野次馬たちの見守る中、救急隊員たちは担架に乗せて小柄な人物を搬送する。その後ろから泣きじゃくる中年女性。中年の一言で括るには気の毒になるほど可愛い感じの女性である。この喫茶店の経営者の一人か。フリルのついたエプロンとまるで会わせたような水色のワンピースがかなり似合っている。背中までのロングヘアをピンクのリボンで束ねたその姿はまるで少女のようである。
そしてさらに後ろから小柄な男性が続く。小柄と言えど着やせするタイプ。端正な面持ち。一介の喫茶店マスターのはずだがどこか武道家のようなたたずまいがある。
その男・赤星秀樹に半ズボンの小学生が心配そうに尋ねる。
「ねえ。お父さん。お兄ちゃん大丈夫かなぁ?」
聞かれた秀樹は安心させるためか笑顔で少年に答える。
「大丈夫だ。ちょっとした肺炎だ。症状は軽いから二日三日ですむ。父さんたちはこのまま病院で手続きをするから薫と一緒に留守番を頼むぞ。いいな。忍」
「はーい。お父さん。留守は任せて」
ストレートのロングヘア。ピンクハウスのワンピースの薫はハスキーボイスで答える。
「出ます」
救急隊員に促されてふたりは付き添って乗りこむ。
急行中の救急車内。搬送先を探しつつ退院は患者の状況を聞く。「患者」もかなり小柄である。おまけに髪の毛もやや細めである。それでいて眉は女としては太い。
中性的な顔立ちだがもし化粧をして「女装」をしたら出会った者のほとんどは女と思うだろう。その端正な美形を苦痛でゆがめていた。顔色はかなり悪い。
「私は単なる救急隊員なので診断を下せる立場ではないのですがッ今まで運んだこう言う患者は十中八九は肺炎でした」
「たぶんそうでしょう。かなりがたがた震えていましたし風呂場には濡れた服が脱ぎ散らかされていたので。どうも外でずぶぬれになったようです。もっともひどい匂いがしたので恐らく工事か何かで開いているマンホールから下水に落ちたくらいもあるかも」
「はぁ? あ、あのたいていそう言うときは囲いか何かで注意を促しているはず。それに落ちると言うと」
「そう。コイツはとんでもないドジなんです。学業は常にベストテン。スポーツも万能と言っていい。だが信じられないドジぶりで帳消しにしてしまう。元に今も」
思わず間抜けな声を発した隊員に怒ったように思えたがそれはこの患者に対するものだった。そしてそこにようやく泣き止んだ女性・赤星瑞枝が割って入る。
「この子、熱があってうなされたらしくて、薬をいろいろと飲んじゃったんです。それも解熱剤だけじゃなく下痢止めや睡眠薬。他にもいろいろ」
「患者は薬の誤飲をしたもよう。胃洗浄の準備を願います」
ナビ席の隊員が無線で通報する。どうやら搬送先は近いようだ。
「それもどこにしまってあったのかわれわれも忘れていた10年以上前の古い物をまとめて」
「え?」
心なしか救急車が加速した。
「奥さん。もっと正確に飲んだ薬はわかりませんか」
「わかりませんわ。この子どうしてか薬のビンを投げ捨てちゃったみたいで」
「きっとふらついたついでだろう。まったく。この愚か者め」
救急病院に到着する。はじめに胃洗浄を行ったが何も出てこなかった。全てを吸収していたからだと判断された。
この年月により変質した薬の組み合わせと肺炎。そして本人の体質が加わり悲喜劇は始まった。
序幕・その2
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