戦車兵のブログ

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元陸上自衛隊の戦車乗員である戦車兵のブログ
北海道在住でマニアックなメカとしての戦車じゃなく、戦車乗りとしての目線から自衛隊や戦史、戦車を見る!!。
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神風特別攻撃隊を攻撃を受けたアメリカ軍人は、「カミカゼクレイジー」「デビルズバード」「バードオブヘル」「ゾンビ」「カッツェンジャマー・キッド(酔っぱらい小僧)」と呼び恐れた。

 

アメリカ側から見た特攻を紹介する。

 

 

特攻が開始される1944年後半のフィリピン戦前の時点では、それまでの太平洋戦域における日米航空戦の戦績により、アメリカ軍の日本軍航空部隊や搭乗員に対する評価は地に落ちており、アメリカ軍公式の評価では「1944年夏までには日本軍は何処においてもアメリカ空軍に太刀打ちできないということが、日本空軍司令官らにも明らかになっていた。彼等の損失は壊滅的であったが、その成し遂げた成果は取るに足らないものであった。」とされていた。

 

 

 

連合軍太平洋方面軍・アメリカ太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ元帥も、日本軍パイロットは未熟で訓練不足と認識しており、それがマリアナ沖海戦の勝因だったと分析し、マリアナ沖海戦でアメリカ軍艦隊を率いた第五艦隊司令レイモンド・スプルーアンス大将も、日本軍パイロットはアメリカ軍パイロットの敵ではなく、アメリカ軍は日本軍航空部隊の攻撃を打ち砕いたと評価していた。

 

ジョージ・ケニー中将

 

ソロモン諸島やニューギニアで日本軍航空隊と戦ってきた、マッカーサー元帥の指揮下の第5空軍司令のジョージ・ケニー中将などは「日本国民のあまりに多くの人々が、水稲稲作者・漁師・車夫といった農民階級で、彼等はあまりにも愚鈍、余りに考え方がのろくて、機械的な知識や適応性に全く欠けている」とし、戦闘機パイロットになる素質を持った日本人はアメリカ人と比較して遥かに少ないと、人種偏見に満ち日本軍を侮った報告をアメリカ陸軍航空隊司令ヘンリー・アーノルド元帥に送っている。

 

 

その後にフィリピン戦で特攻が開始され、アメリカ軍に大きな損害が生じると、ニミッツは「特攻隊パイロットの飛行技術の明白な改善は、日本軍に対する連合軍の海軍作戦の前途に横たわる危機の不吉な前兆を示していた。」と日本軍搭乗員の技術を再評価し、今後の戦況への不安を口にするほどであった。

 

アメリカ海軍第7水陸両用部隊司令ダニエル・バーベイ少将は「日本航空部隊の実力に対して何の疑問もなかった。オルモック湾(フィリピン戦)での特攻による戦果が日本航空部隊の実力に対する疑問を残らず拭い去った」と日本軍航空隊の操縦技術に対するこれまでの低評価に異議を唱え、また「日本軍は自殺機という恐るべき兵器を開発した。日本航空部隊がその消耗に耐えられる限り、アメリカ海軍が日本に近づくにつれて大損害を予期せねばならない。」と今後の戦局を予想し、その予想通り沖縄戦でアメリカ海軍は第二次世界大戦最大の損害を被ることになった。

 

 

またアメリカの諜報機関Office of Strategic Services(略称OSS、CIAの前身)も「日本人には視力障害があるから良いパイロットになれないという意見があるが、これは間違っている。日本人は高高度飛行ができないという意見も正しくない。(中略)日本軍パイロットが優秀な飛行技術を身に着けているということは、特攻パイロットたちが、厚木や鹿屋で受ける訓練形式によって証明されている。」と分析している。

 

 

終戦後に調査したアメリカ軍は「日本が(特攻で)より大きな打撃力で集中的な攻撃を持続し得たなら、我々の戦略計画を撤回若しくは変更させ得たかもしれない」や「日本人によって開発された唯一の、最も効果的な航空兵器は特攻機(自殺航空機)であり、戦争末期数か月に日本全軍航空隊によって、連合軍艦船に対し広範囲に渡って使用された。」という見解を報告している。

 

 

 

1945年7月2日ヘンリー・スティムソン陸軍長官は、日本上陸計画を準備しているが、特攻が激しくなっており、この調子では日本上陸後も抵抗にあい、アメリカに数百万人の被害が出ると話し、天皇制くらい認めて降伏勧告をすべきと大統領に意見した。合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長ウィリアム・リーヒ提督は、無条件降伏に固執せず、被害を大きくするべきではないと意見した。

 

 

軍や軍高官が戦術としての特攻の手ごわさについて評価する一方で、第一線のアメリカ兵の多くが、自らの西欧的価値観からは信じがたい、他人を殺すために自らも死ぬといった戦術である特攻について「不可解」や「非人間的」や「狂信的」という印象を抱き、日本兵に対する憎しみや偏見を募らせていた。

 

 

特攻ほど日本軍が恐るべき敵であると思い知らせたものはなかったとの指摘もある。

 

第一線の兵士は特攻機に対し、「カミカゼクレイジー」「デビルズバード」「バードオブヘル」「ゾンビ」「カッツェンジャマー・キッド(酔っぱらい小僧)」等思いつく限りの蔑称や禍々しいあだ名を付けていた。

 

 

特攻機との戦闘後には、アメリカ軍艦艇上には特攻機の部品や特攻隊員の遺体の一部が散乱していたが、海軍の水兵は「日本のおみやげ」と称し、機体の部品や特攻隊員の遺品を拾い回った。

 

中には遺体や遺骨の一部を本国に持ち帰る者もいた。

 

軽巡洋艦モントピリアの水兵の1人は、本国の妹が欲しがっているとのことで、特攻隊員の肋骨を持ち帰っている。

 

モントピリアの水兵ジェームズ・J・フェーイーは艦に散乱している特攻隊員の遺体を見て、特攻隊員がアメリカやアメリカ軍艦艇と一緒に自分自身も滅ぼしたがっていると感じ、日本軍を意気阻喪させたり、あきらめさせたりするのは無理で、ヨーロッパ戦線での連合軍空軍によるドイツ本土に対する戦略爆撃なんて、アメリカ海軍が特攻隊相手にやっていることに比べたらたわいのないもので、ドイツも頑張っているが日本ほどではないという思いを抱いている。

 

 

しかし軍隊における自己犠牲の精神はアメリカやドイツといった西欧諸国でも万国共通であり、特攻に近いような行為もしばしば行われていた。

 

その為、特攻隊員を称賛するアメリカ兵もおり、1945年4月11日に戦艦ミズーリに特攻し戦死した石野節雄二飛曹について、ミズーリの艦長であるウィリアム・キャラハン大佐(第三次ソロモン海戦で戦死したダニエル・J・キャラハン少将の弟)は「祖国の為に命を投げうってその使命を敢行した勇敢な男には、名誉ある水葬をもって臨むべきである。死した兵士はもはや敵ではない。翌朝、勇者の葬儀を執り行う」と石野二飛曹を称賛し、異例とも言える敵兵の水葬を行っている。

 

その際わざわざミズーリの水兵が手作りで作った旭日旗で石野二飛曹の遺体を覆い、礼砲まで撃って礼を尽くしている。

 

 

連合軍太平洋方面軍・アメリカ太平洋艦隊司令チェスター・ニミッツ元帥は、レイテ沖海戦での大勝利を第二次世界大戦でのトラファルガーの海戦と評価し、叩きのめされた日本海軍は、まともに戦えなくなったと判断していたが、その勝利ムードに冷や水を浴びせたのが特攻となった。

 

フィリピン戦での特攻での損害を見て「神風特別攻撃隊という攻撃兵力はいまや連合軍の侵攻を粉砕し撃退するために、長い間考え抜いた方法を実際に発見したかのように見え始めた」と特攻が大きな脅威になったと述懐している。

 

また、ニミッツの太平洋艦隊広報はこの後沖縄戦後に至るまで、特攻に関するニュースを全て検閲していた。

 

特攻の成功を絶対に日本軍に知らせまいとするニミッツからの指示であった。

 

逆に大和を撃沈した際は大々的に広報し、戦意高揚のために陸軍記念日の演説で全部隊に放送している。

 

 

沖縄戦でも、沖縄近海で特攻により激増する損害を懸念したニミッツは、日本軍の固い防衛線に苦戦し、中々進軍できない沖縄方面連合軍最高指揮官の第10軍司令官サイモン・B・バックナー・ジュニア中将の作戦に苛立ちを覚え、指揮を混乱させかねないため現場の指揮には一切口を出さないと言う自らの不文律を犯して、作戦指導への介入のために4月23日に沖縄にてバックナーと会談している。

 

 

そこでニミッツはバックナーに「海軍は、毎日1.5隻ずつ艦船を失っている。その為、五日以内に第一線が動かなければ、このいまいましいカミカゼから逃れる為に、他の誰かを司令官に変えて前進させるぞ。」と、異例とも言える更迭を匂わせての早急な進撃を促している。

 

結局この時ニミッツはサイパンの戦いでの「スミスVSスミス」事件での陸海軍海兵隊3軍対立の二の舞いを恐れて強権は発動しなかったが、この後も陸軍の進撃速度は上がらず、予定の3倍の90日にも及んだ沖縄戦で海軍が特攻で受けた損害は莫大なものとなった。

 

しかし、沖縄戦末期の6月上旬ごろには、日本軍の本土決戦準備による戦力温存もあって、特攻による損害も減少し「神風特攻の脅威を自信をもってはね返すとこまで来ていた」と胸を張っていたが、その要因として「カミカゼの方では、最後の突入から戻ってきてその体験を報告するパイロットがいなくなったために、改善の基礎となるデータを発展させることができなかった。」と分析していた

 

 

沖縄戦が終わると「我が海軍が(沖縄戦で)被った損害は、大戦中のどの海戦よりもはるかに大きかった。沈没30隻、損傷300隻以上、9000人以上が死亡、行方不明または負傷した。この損害は主に日本の航空攻撃とくに特攻攻撃によるものであった。」と沖縄戦での特攻を総括している。

 

 

フィリピンと沖縄で特攻に多数の艦船を奪われたニミッツらアメリカ海軍指導部は、日本本土への侵攻作戦において、多数の特攻を受け、莫大な損失を出すことを恐れ悲観的な予測に傾いていた。

 

ニミッツは海軍作戦部長キングに「日本を侵攻する場合は、われわれは甚大な被害を受け入れる覚悟をしなければなりません。食料状態が悪く、ろくに補給も受けていない日本軍はわれわれの圧倒的な空と陸からの行動でうちのめされましたが、その成功も、敵の通信経路が短く、敵の物資がより豊富な日本本土で直面する抵抗を推しはかるただひとつの基準としては使えないでしょう」という報告書を提出している。

 

 

アメリカ軍全体でも、日本本土決戦になっていた場合の想定として「オリンピック作戦(九州上陸作戦)に対抗して、九州防衛のための特攻機が準備され、これより規模の小さい準備がジッパー作戦に対抗してシンガポール防衛のためになされた。これらの特攻機の使用により、上陸作戦時の連合軍艦隊が、連合軍が計画した多様な効果的対策に関わらず大きな損害を受けたであろうことは疑問の余地はない。」と特攻により大損害を被るという予測をしていた。

 

 

 

 

しかし、ダウンフォール作戦は開始されることなく、日本のポツダム宣言の受諾により戦争は終結し、太平洋戦争後に母校アメリカ海軍大学で講演したニミッツは「日本との戦争において起きたほとんどのことは、この教室(War Gaming Department)において多くの学生らにより想定されており驚くことはなかったが、唯一大戦末期のカミカゼだけが予測できなかった」と述べている。

 

 

海軍以外でもダグラス・マッカーサー元帥は、フィリピン戦で特攻の猛威を目のあたりにすると「カミカゼが本格的に姿を現した。この恐るべき出現は、連合軍の海軍指揮官たちをかなりの不安に陥れ、連合国海軍の艦艇が至るところで撃破された。空母群はカミカゼの脅威に対抗して、搭載機を自らを守る為に使わねばならなくなったので、レイテの地上部隊を掩護する事には手が回らなくなってしまった」と指摘している。

 

 

 

 

その後の沖縄戦では、「大部分が特攻機から成る日本軍の攻撃で、アメリカ側は艦船の沈没36隻、破壊368隻、飛行機の喪失800機の損害を出した。これらの数字は、南太平洋艦隊がメルボルンから東京までの間に出したアメリカ側の損害の総計を超えている」と沖縄戦での特攻による大損害を回顧しているが、そのマッカーサー自身もフィリピンのリンガエン湾で、軽巡洋艦ボイシ座乗中に 特殊潜航艇の雷撃と特攻機の攻撃を受けている。

 

 

雷撃はボイシの巧みな操艦で回避し、特攻機は接近中に対空砲火で撃墜され難を逃れたが、当のマッカーサーは雷撃回避の際は甲板上に仁王立ちし戦闘を眺め、特攻機撃墜時は艦内の喧噪を他所に、居室で眠っていた。

 

マッカーサー配下の第七艦隊の兵士らは、それまでの特攻の猛攻で恐怖が頂点に達していたのに、その指揮官のマッカーサーの剛胆ぶりに担当軍医のエグバーグ医師は驚かされている。

 

 

 

フランスの作家・政治家のアンドレ・マルローは次のように述べて、特攻隊員の精神を高く賞賛した ― 「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。それは世界のどんな国でも真似できない神風特別攻撃隊である。彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかった。祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ」。

 

またマルローは内閣閣僚として日本を訪れた際、昭和天皇との会談で、特攻隊について触れ、その精神への感動を伝えている。

 

 

フランスのジャーナリストのベルナール・ミローは著書『神風』の中で、「散華した若者達の命は…無益であった。しかしこれら日本の英雄達はこの世界の純粋性の偉大さというものについて教訓を与えてくれた」と述べ評価している。

 

且つ「西洋文明においてあらかじめ熟慮された計画的な死と言うものは決して思いもつかぬことであり、我々の生活信条、道徳、思想と言ったものと全く正反対のものであって西欧人にとって受け入れがたいものである」とも述べている。

 

 

一方で、フランス文学者、歴史学者で東京大学客員教授のモーリス・パンゲは主著『自死の日本史』第12章において特にアメリカ人や西洋人一般にみられた嘲笑や中傷を否定し、『きけ わだつみのこえ』を基に特攻隊員が軍閥の言いなりではなく「正しいものにはたとえ敵であっても、誤りにはたとえ味方であっても反対する」という崇高な念に殉じたと彼らに称賛の意を示している。

 

 

2001年に発生したアメリカ同時多発テロ事件において、欧米のマスコミの中には世界貿易センタービルに突入するハイジャックされた航空機を「カミカゼ」、「パールハーバーと同じだまし討ち」と表現するものもあった。

 

これは「生還を考えない体当たり戦法」から、「カミカゼ(=旧日本軍の特攻隊)のようだ」と報道されたものである。

 

実際、「(強者に一矢報いるための)自殺行為同然の突撃」を代名する表現として「KAMIKAZE」の語が用いられることは多い。

 

 

これに対し日本国内では、「特攻はあくまでも敵兵と軍事標的のみが目的。民間人を標的とする「卑劣なテロ」とは違う」という反論も生じた。

 

しかし、日本国外では「有志による自爆攻撃=カミカゼ」という意識がなお根強く、またミサイル駆逐艦コールへの自爆攻撃等、武装組織が正規軍へなんらかの武力抵抗を行った場合の評価、そして武装組織とテロ組織の「線引き」自体が曖昧で、国際的な議論、再評価を巻き起こすには至っていない(戦時国際法では武装勢力(含むテロ組織)は正規軍に準じる存在と位置づけられ、戦闘員の身分は基本的に保証されているが、「テロとの戦い」が「戦時」に該当するか、戦時国際法が適用されるかどうか自体が曖昧である)。

 

 

 

 

また正規軍の民間人に対する武力行使は戦時国際法で厳格に禁止され、罰則対象になっているが、この条項自体が事実上空文化している(代表的なところではアメリカ軍の原爆投下や無差別絨毯爆撃、イラク戦争の掃討作戦、イスラエル軍の入植地攻撃、ロシアのアフガン、チェチェン侵攻など)ため、この辺りもテロ行為と特攻の線引きを難しくしている。

 

 

さらには当の武装勢力(含むテロ組織)のタミル・イーラム解放のトラやハマスでも、なぜ自爆テロを行なうのかとの問いには「カミカゼ」の答えが返って来ることがある。

 

テロと神風特攻隊と一緒にされるのは断じて違うことを世界に知って欲しいことではあるね。

 

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暑い・・・・なんでこんなに暑いんだ・・・。

 

もう暦の上では秋だというのに・・・・。

 

予定していたことがなんにもできなくなっている。

 

今日は朝から街へ出る予定で準備万端でいたのに・・・・。

 

行けなかった、暑いからではないがいろんな用事が出来て・・・。

 

しかも暑いのではかどらない。

 

 

そうこうしていたら安倍首相の辞意の表明。

 

例題の内閣総理大臣の最長在任記録を更新したばかりだったが激務の総理大臣だからね体調不良ならしょうがない。

 

私も人のことは言えないもの・・・・。

 

安倍首相はよく頑張ったと思います。

 

ただ後任が思い浮かばない。

 

支那や韓国に媚びない嫌がられるような人物でなくては困る。

 

民主党政権時代のように媚中、媚韓の正拳じゃロクなことがないからね。

 

 

 

気合の入った人物がなってほしいね。

 

支那や韓国、北朝鮮、ロシアの反日国や国内の反日左翼に負けない人物。

 

アメリカなどの欧米にも引けを取らない人物。

 

いないな・・・・いる?

 

腰が引けたようなのは勘弁して欲しいね、それと海外へ行って見劣りするような首相はね・・・・。

 

 

それにしても暑い、何度も何度もシャワーを浴びた。

 

水風呂でもいいのだけれど暑いシャワーに入って出たら物凄く涼しいので暑いシャワーに入っている。

 

もう9月になるっていうのにこんなに暑いのは辛い。

 

防暑グッズなんてとっくに売ってないしね。

 

でもこんなに暑い日が続くのに急に寒くなりそうな気もする。

 

きっとこんなに暑い日もあと少しに違いない・・・・・。


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「航空自衛隊は、多種多様なミッションに着実に対応し、あらゆる事態に備えている。 今もこの瞬間も、日本のどこかで訓練が行われ、任務が着実に遂行されている。 全ての航空自衛官の思いはひとつ、平和に満ちた空を守るために。」

 

 

 

航空自衛隊(Japan Air Self-Defense Force、略称: JASDF)は、日本の行政機関のひとつ。

 

自衛隊のうちの航空部門にあたる防衛省の特別の機関の総称である。

 

日本語略称は、空自

 

 

諸外国からは、Japanese Air Force(日本空軍の意)に相当する語で表現されることがある。

 

 

航空幕僚監部並びに統合幕僚長および航空幕僚長の監督を受ける部隊および機関からなる。

 

各部隊および各機関は防衛省の特別の機関である。

 

主として空において行動し、主権国家たる日本の平和と独立を守り、直接侵略及び間接侵略の脅威から日本を防衛することを任務とする。

 

その最上級者は最上級機関である航空幕僚監部を統括する航空幕僚長。

 

世界有数の装備を保有し、協力関係にある諸外国軍とも海外演習等で交流があることから、諸外国からは日本の空軍とみなされている。

 

 

2020年(令和2年)3月31日現在の主要装備は戦闘機がF-35A 17機、F-15J 201機(F-15運用国ではアメリカに次いで第2位の保有数である)、F-2 91機、F-4 26機、合計335機、7基地で12飛行隊を有している。

 

偵察機がRQ-4 3機。早期警戒機がE-2 14機、E-767 4機、合計18機。

 

空中給油機がKC-767 4機、KC-130H 2機、合計6機。

 

 

輸送機がC-1 11機、C-2 11機、C-130 14機、合計36機。

 

ヘリコプターがCH-47J 15機、UH-60J 40機、合計55機余を保有している。

 

 

その他、電子戦機がEC-1(電子戦訓練機)1機、YS-11EB(電子情報収集機)4機、YS-11EA(電子戦訓練機)2機、合計7機余。

 

 

領空の警戒監視や防空・航空脅威の排除に重点が置かれた装備体系であるため、航空機や弾道ミサイル等に対する迎撃能力は高いレベルにある。

 

しかしゲリラコマンドによる攻撃や弾道ミサイルに対する基地の抗堪性の低さも問題視されている。

 

基地の数は約73。6基地に120基のパトリオットを配備している。

 

 

予算は1兆2,409億円で、人件・糧食費が3,791億円、一般物件費が1,558億円、歳出化経費が5,086億円。新規後年度負担額5,247億円である。

 

人員は、定員46,923人(現員42,828人 充足率91.3%)である。

 

キャッチフレーズは「Key to Defense, Ready Anytime」。

 

 

在日米軍の再編に伴い、航空総隊司令部及び作戦情報隊、防空指揮群は2012年(平成24年)3月21日付をもって東京都府中市の府中基地から横田飛行場に移転を完了した。

 

 

2017年(平成29年)8月には航空自衛隊内部にスペースデブリや衛星攻撃兵器の監視など宇宙空間における任務を担当する宇宙部隊を創設すると発表した。

 

 

令和2年1月に複数メディアで政府が航空自衛隊を「航空宇宙自衛隊」に改称を検討していると報じられた。

 

令和5年度までの改称を目指し、現在自衛隊法などの法改正の調整を実施している。

 

 

 

航空自衛隊は第二次世界大戦後、日本の軍備が再建される中で、陸上自衛隊・海上自衛隊のように前身組織(保安隊・警備隊)を持たず、アメリカ軍の協力によって新設されている。

 

 

空自の設立は旧陸軍航空部隊関係者(三好康之、原田貞憲、谷川一男、秋山紋次郎、田中耕二、浦茂など)の新空軍研究から始まった。

 

独立国となる以上軍備が必要であり、軍備の中には独立空軍を入れなければならないというものであった。

 

戦中と異なりすでに航空戦力はジェット機の時代であり、それにはアメリカ空軍(旧アメリカ陸軍航空軍)の多大な協力が必要であったが、三好が連絡を取り協力を得ている。

 

なお当初、旧海軍航空部隊関係者は新海軍再建に傾倒していたが、後に旧陸軍航空部隊関係者と合流し1952年7月末から合同研究が始まっている(海軍にも新海軍再建における海空一体化論に基づく研究成果を持っていた)。

 

 

防衛庁発足に伴い、旧内務省出身で保安庁官房長だった上村健太郎が防衛庁次長を断って初代航空幕僚長に着任した。

 

主要ポストには旧陸海軍の長老の売り込みや庁内推薦など交錯し、海軍は戦前の艦隊派と条約派の対立を引きずっていたが、主要ポストは陸海同数に決まった。

 

 

 

発展過程で影響力を及ぼした者として、空自の育ての親と言われる源田実元海軍大佐(第3代航空幕僚長)の存在があり、自ら航空機に乗って指導し、また、ブルーインパルスの創設も行っている。

 

その他、牟田弘國元陸軍中佐(第6代空幕長・第4代統幕議長)、大室孟元陸軍少佐(第7代空幕長)、石川貫之元陸軍少佐(第10代空幕長)、竹田五郎元陸軍大尉(第14代空幕長・第12代統幕議長)、山田良市元海軍大尉(第15代空幕長)など陸海軍から多くの実力者が発展に貢献した。

 

なお、航空幕僚長就任者を旧軍の出身別に分けると、陸軍11名・海軍5名と陸軍出身者が過半数を占め、かつ、空自出身者初の統合幕僚会議議長(第4代)は牟田弘國元陸軍中佐(第6代空幕長)であり、また、第16代統合幕僚会議議長森繁弘(第17代航空幕僚長)は、自衛隊最後の旧軍出身者(士官候補生たる陸軍兵長、陸士60期修業)であった。

 

 

空自は小隊、班といったショップの独立性(組織の性格上、個人の能力・判断・権限といったものが大きい)が強く、現場指揮官のカリスマ性で末端の隊員を牽引する部分が大きい。

 

また、組織内の全体的な統一よりも、各基地、各小隊ごとが独自の基準をもって勤務することが多い。

 

文化的には階級章や礼式・号令、徒手体操などは陸自を範としているため似通った点も数多くある。

 

 

戦闘機、防空システム、地対空誘導弾パトリオットなど、世界的に見ても最先端兵器を装備することから、陸海空各自衛隊のなかでもっとも政治的制限を加えられてきた経緯がある。

 

そのため戦闘機からは精密爆撃のための装備、空中給油装置をあえて取り外していた時期もあった。

 

しかし、米空軍との連携能力の整備に関しては発足以来着々と進められており、日米間での共同作戦を可能とする暗号装置、秘話装置、戦術データ・リンク、敵味方識別装置などの配備、隊員間の語学教育は年々充実の度合いを深めている。

 

また、より緊密に戦術的連携を深めるため、近年では毎年1回グァム島においての日米共同演習「コープノース」が実施されている。

 

 

航空救難については、独自に航空救難団を組織しているため、後からできた海自救難部隊とは、担当区域が重複しないように配備され、緊急時には空自中央救難調整所(RCC)を通じて海自は空自横田基地に所在する航空救難情報中枢(RIC)において救難連絡員が空自救難部隊と活動の調整を行う。

 

 

平時においては日本領空へ領空侵犯する、もしくは可能性のある経空脅威の排除が使命である。

 

このため領空の外側に防空識別圏(ADIZ)を設定し、日本各所に28ヶ所のレーダーサイトを設置して、状況に応じて早期警戒機、早期警戒管制機による警戒態勢を敷いている。

 

防空識別圏に侵入する国籍不明機に対しては、まず緊急周波数である121.5MHz及び243MHzで航空無線機により無線警告を発し、さらに戦闘機によるスクランブル発進を実施する。

 

スクランブル発進については、2006年4月7日のロシア軍機に対する百里基地のF-15J発進によって創設以来20,000回を記録した。

 

スクランブル発進で確認した目標は、統合幕僚監部が毎日公表している。

 

 

有事においては、陸上自衛隊や海上自衛隊への支援として、対艦攻撃、対地攻撃、航空輸送を実施する。

 

専守防衛の理念から、要撃(防空)戦闘に特化した傾向にある。

 

F-15Jや早期警戒管制機、パトリオットミサイル(自衛隊では原音に近い「ペトリオット」)などを備えている。

 

 

また、航空機の稼働率や搭乗員の練度(年間200時間以上と言われている)も高いとされる。

 

日米安全保障条約に基づきアメリカ空軍と強固な協力関係にあり、米空軍と共同使用の横田基地には航空自衛隊航空総隊司令部が、在日米軍司令部や第5空軍司令部、日米共同統合作戦調整センターなどとともに設置され、三沢基地も共同で使用しているほか、毎年日米合同演習を行っている。

 

 

スクランブル発進回数の推移。

 

2010年度以降、中国機に対する緊急発進が急増している。

 

ロシアは軍用機によるわが国周回飛行をたびたび実施しており。

 

2008年には、中国の31機とロシアの193機に対するスクランブルがあった。

 

 2018年、これは中国の航空機638機とロシアの航空機343機に増加した。

 


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札幌は暑い・・・・参った・・・・朝から通院だったが暑い・・・・。

 

薬の効き目がだんだん短くなってしまい、ついつい苦しくなると服用してしまって次の診察まで薬が少なくなってしまったのだ。

 

しかたなく病院へ・・・・・物凄い混んでる。

 

待合室の椅子は一つも空いてない。

 

予約していないのでどのくらい待たされるのか・・・・・。

 

 

帰宅してどっと疲れて眠った。

 

変な夢を見た。

 

戦車を隠れて狙う歩兵が・・・・・手には無反動砲を手にしている。

 

 

やばい、やばいぞ。

 

偽装して戦車からは完璧に見えない。

 

戦車の音が聞こえる。

 

照準する歩兵。

 

戦車を目の前を通過させて背後を撃つ気だ。

 

 

戦車・・・・士魂って砲塔にマーキングしている。

 

 

 

「戦車ーーーっ!!後ろーーー後ろだーーー!!!」と叫んだところで目が覚めた。

 

「志村、うしろーー!!」ってくらい叫んだね。

 

外ではうるさい道路工事をしている。

 

あの戦車撃たれたのだろうか・・・・車長が一瞬振り返ったような気がしたが・・・・戦車のエンジン音で私の叫び声なんて聞こえる訳もなく・・・・って夢だし・・・。

 

あの戦車どうなったかな・・・・戦車長見覚えあるんだよね・・・。

 

それにしても工事がうるさい窓を閉める訳にもゆかないし何時までやっているのだか・・・・。

 


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戦争に負けるということがどういうことになるのか、そして軍隊の無い国は他国にどんな目に遭わせられるのかこの事件を通して知って貰いたい。

 

そして忘れないでもらいたい。

 

昭和20年8月15日で戦争が終わったのではないことを、ソ連軍の火事場泥棒的侵攻が満州で樺太で千島列島で行われたことを・・・。

 

 

昭和20年(1945年)8月27日、 第二次世界大戦終結後、ソ連軍は満州の在留邦人を襲った敦化事件が起きた日。

 

敦化事件とは1945年8月27日に満洲国吉林省敦化(現吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)でソ連軍によって連日に渡り集団強姦され続けていた日満パルプ製造(王子製紙子会社)敦化工場の女性社員や家族が集団自決した事件。

 

日満パルプ事件とも呼称される。

 

 

事件の現場となった日満パルプ製造敦化工場は、1934年に王子製紙が敦化県城南門外牡丹江左岸(敦化郊外5キロ)に設立した工場である。

 

 

工場に隣接して設置された社宅地は、高さ4.5mの煉瓦壁でおおわれた2万坪の敷地内に壮麗な造りの社宅と福利厚生のためのクラブなどが設けられており、日本人職員とその家族260人が暮らしていた。

 

また、敦化市内には2,000人の関東軍守備隊の駐屯地があり、終戦当時には敦化北部の山地に築城しソ連軍の侵攻を食い止めようと備えていた。

 

 

1945年8月9日未明に突如としてソビエト連邦が満洲国に侵攻し、敦化に近い東部国境付近では関東軍・満洲国軍がソ連軍と交戦していたが、工場や敦化市内では満人や朝鮮人の態度も変わることなく治安が保たれたままであった。

 

8月15日に敗戦を迎えた後も工場の満人や朝鮮人従業員は変わることはなかったが、敦化市内では満人や朝鮮人の一部による略奪・放火・日本人女性への暴行が行われるようになった。

 

 

8月17日、敦化郊外で陣地を築いていた敦化守備隊は工場に資材を取りに来て初めて終戦を知った。

 

8月19日、ソ連軍が敦化市内に進駐してきたため、敦化守備隊は降伏し武装解除された。

 

 

 

8月22日、ソ連軍は日満パルプ製造敦化工場に進駐した。

 

ソ連軍は社宅に侵入すると1時間以内に社宅の一角を引き渡すよう要求した。

 

ソ連兵はすぐにホテル・レストランを兼ねた壮麗な造りのクラブに惹きつけられていった。

 

ソ連兵はクラブ従業員の女性2人を引きずり出すとジープで社宅から連れ去った。

 

数時間後に拉致された女性がぼろぼろになって社宅に帰ってきたが、もう一人の若い娘は強姦された後に牡丹江に流され行方不明となった。

 

 

8月25日、ソ連軍は男性全員を集合させると10キロほど離れたところにある飛行場の近くの湿地に連行し、婦女子は独身寮に集められた。

 

170人ほどの婦女子は15,6人ずつに分けられ監禁されることとなった。

 

 

夜になると、ソ連兵300人あまりが独身寮に移ってくるとともに、短機関銃を乱射する頻度が夜が更けるにつれて増えていった。

 

女性たちは夜が明けることを祈りながら一晩中恐怖と戦っていた。

 

 

 

8月26日夜明け、酒に酔ったソ連兵たちは短機関銃を空に乱射しながら女性たちが監禁されている各部屋に乱入すると、女性たちの顎をつかみ顔を確認しながら、気に入った女性たちを連れて行こうとした。

 

女性たちは金品を渡したり、許しを懇願したが聞き入れられず、次々に引きずり出されていった。

 

各部屋からは女性たちの悲痛な叫びがあふれたが、ソ連兵は構うことなく短機関銃を乱射し続けていた。

 

 

このため、女性たちは頭を丸坊主にしたり、顔に墨を塗るなどしたが、ソ連兵による強姦は朝になっても収まることはなく、部屋に乱入すると女性たちの胸部をまさぐるなどして気に入った女性たちを何度も連行していった。

 

社宅と塀を隔てた工場に残されていた男性社員たちは、社宅の異変を察知するとソ連兵の監視をかいくぐり塀を乗り越え社宅に潜入したが、厳重な警戒が敷かれている独身寮には近づくことができなかった。

 

ソ連兵たちは狼藉を続けるうちに女性たちの部屋の廊下に監視兵を置くようになったため、御不浄や食事もままならないようになった。

 

女性たちは自身のおかれている状況や絶え間ない銃声から、すでに男性社員たちは皆殺しにあったのではないかと考えるようになった。

 

ソ連兵による女性たちへの昼夜に渡る暴行は8月27日の深夜になっても収まることはなかった。

 

このため、28人の婦女子が集められていた部屋では自決をするべきか議論がなされるようになった。

 

議論中にもソ連兵の乱入があり、隣室からも女性たちの悲鳴や「殺して下さい」などの叫び声が聞こえてきたため、自決することに議論が決した。

 

隠し持っていた青酸カリが配られ全員が自決を図り、23人が死亡、5人が死に切れずに生き残った。

 

他の部屋ではソ連兵に引きずり出されるときに剃刀で自殺を図った女性もいた。

 

 

8月27日早朝、ソ連兵が集団自決を発見し、将校に報告されると各部屋にはソ連兵の見張りが付けられ、女性たちは外を見ることを禁じられ、遺体はどこかへ運び去られた。

 

責任を問われることを恐れたソ連軍将校によって、これ以上の暴行は中止されることとなった。

 

 

その日のうちに女性たちは男性社員が野宿させられている飛行場のそばの湿地に連行された。

 

その後、8月末までは湿地や飛行場で待機させられ、シベリアに連行される日本軍部隊から密かに食料や毛布などを分けてもらうなどしていたが、牡丹江対岸の熊本県開拓団の小学校に遷されると、毎日のようにソ連軍による略奪が行われ、女性を裸にしてまであらゆるものを奪い去っていった。

 

一切のものを奪われたため、男性社員たちは街に出て材木運びなどの労働に出て僅かな賃金を稼ぐことで命をつなぐこととなった。

 

また、ソ連へ戦利品として工場設備から列車の線路にいたる全てのものを持ち去るための解体作業を昼夜に渡って行わされた。

 

その後、敦化市内の旧軍人会館に移転させられたが、冬が訪れると飢えと寒さと発疹チフスのために87人が死亡した。

 

日本がもし侵略に遭ったらこんな悲しい事件があっちこっちで日常茶飯事で起きるであろう。

 

そんな日がこないために日本を守るため平時からの努力と備えが必要だ。