少し現実が見えたらしい
カーネル管財人の手配により転がるようにやってきたのはアルビオンの父であるアルトルート・トラーノだ。
「アルビオン!お前はなんて事を仕出かしたんだ!」
「父さん!」
「三日前だぞ!何を考えてる?!」
アルトルートの叫びは尤もだった。
誰だってそう思う。何故三日前なのか。
それに、婚約を解消したいならもっと穏便にする手段は幾らでもあったはずだ。
「だって仕方ないじゃないか。ミレーユに子どもが出来たんだから」
「こ、子ども……」
「ああ。俺達の愛の結晶が彼女のお腹の中にいるんだ」
うっとりと愛情深くミレーユを見つめるアルビオンとは対照的に、アルトルートは頭を抱えた。
「そういう事みたいなのでアルトおじさん、手続きを始めてもいいでしょうか?」
「ルビーちゃん……」
縋るようにアルトルートが見つめてくるけれど、ルビーとしては速やかに縁を切りたい所存だ。
「トラーノさん、ご家族のお話し合いはまた家に帰ってお願い致します」
そう言って早くテーブルに着くように促したのは、ルビーの兄、カンザナイト家の長男ダリヤである。
ダリヤという女性のような名前が相応しい煌びやかな容姿をした長兄は、恐らく十人中十人が見惚れる程に端正な顔立ちをしている。長い睫に綺麗な琥珀色の瞳。キラキラと光る赤みを帯びた金髪が風になびくだけでうっとりと万人が見惚れる程の美形であった。物腰も優雅で口調も柔らかく、貴族よりも貴族らしいと言われている兄は、子爵令嬢と恋愛結婚しており、現在は二児の父親だ。だというのに、未だに恋文や見合い話がくるほどの美形であった。
しかし、長兄は優雅な顔や物腰に反するように、商売人としては非常にやり手だ。王都の商会は既に父から任されており、支店もここ数年で着々と増やしている。次兄のエルグランドが海外の買い付けに出るようになってからは貿易商としても頭角を現しているらしく、一部の商売人からは敵に回してはいけないと言われていた。
そんな兄が急遽降って湧いた婚約破棄の話し合いに来ていた。どうやら話を聞いた父が結婚式列席者や関係者に根回しを始めたようで、代理として顔を見せたようだった。
ここに来てからの機嫌は最悪で、綺麗な顔の眉間には小さな皺がいくつも寄っていた。美形は怒っていても非常に美しいが、その分怖さが増す。見慣れたルビーでさえ、ちょっと怖いと思ってしまった。
「では話し合いを始めましょう」
全員が着席したのを皮切りに、交渉人として派遣されてきたサルバトーレが両家の出した書類を確認する。
「まず、今回の婚約破棄に掛かる費用ですが、申し出をしたトラーノさんが負担する事になります。この婚約においてカンザナイト家が既に支払った金額ですが…」
まずは結婚式と披露パーティーに掛かった費用。
招待客への贈り物やパーティーで出す食事の手配で、既にかなりの金額を前払い済みだった。王都でも指折りの商会であるカンザナイト家として粗末な物は出せないと、かなり気合を入れて手配した。結果、はっきり言って一般の庶民では負担出来ない額になっている。
そして何より高額になったのが、ウェディングドレスとロイヤルコルバットの茶器セットだ。
「これらの結婚祝いはそのままプレゼントとしてお持ちになればいいのでは……?」
金額を聞いたアルトルートはそう反論するが、それは聞けない相談である。
「聞けば、ウェディングドレスはミレーユさんが既に試着した後との事ですし、何よりお二人が三日後の結婚式で使いたいとの事なので買い取りをお願いします。私は、人が袖を通したウェディングドレスなど着たくありません」
「袖を通した?ミレーユちゃん……」
「ご、ごめんなさい…、凄く綺麗だったからつい……」
長年繊維問屋を営んでいるアルトルートだからこそ、オーダーメイドにおける決まりごとはよく分かっているはずだ。
しかも、今までは庶民向けの店しか展開してなかったトラーノ商会は、今回ルビーが発注したウェディングドレスを皮切りに、貴族向けのオーダーメイド店をオープンする予定だったのだ。
というのも、今回の結婚披露パーティーには貴族もそれなりに招待されているからだ。
ルビー達の祖父は準男爵を叙爵しており、下位の貴族とはそれなりの付き合いがあった。また、空間魔法を保持している関係で、カンザナイト家の全員が王都にある魔法学院に通っていた。その折に出来た貴族の友人達は身分関係なく付き合える人達であり、結婚式も参列してくれる事になっている。
だからこそ、この結婚式を貴族向けのオーダーメイドの宣伝として利用する予定となっていた。
だが結果はこの通り。
オーダーメイドであるウェディングドレスを試着と称してお針子が袖を通してしまった。
バレなければ問題はないだろう。
だが、知ってしまったからにはそういう訳にはいかない。
「それに、俺が贈ったコルバットもルビーが使う前に彼女が使っている。未使用ならまだしも、贈られた本人より先に使うなんて余りにも失礼な話だ」
「どうして勝手に使ったりしたんだ……」
「カップボードに置いてあったからアルビオンが買ってくれたんだと思って…」
「父さん、彼女を責めないでくれ。使っていいと言ったのは俺なんだ」
自分が用意したものでないならルビーの物であるのは明白だ。それを勝手に許可する時点で、アルビオンにはそれが高価な物であるという認識はなかったのだろう。
「交渉人の経験則から言わせて頂ければ、購入額で払うのが宜しいかと思いますよ。もちろん交渉は可能ですが、カンザナイト家の心情を考えれば購入額であればむしろ安い方でしょう」
どちらも金を出せば手に入るという物ではない。ゴネれば、更に付加価値を上乗せされる危険があると言外に含んでいた。
「それからアルビオンさんからご要望頂いていたこの屋敷の賃貸契約ですが…」
「父からは絶対に貸すなと言付かっております」
誰が娘を無下にした男に屋敷を貸すか!と叫んでいたそうである。
息子の無謀な要求を初めて知ったアルトルートは、目を見開いて固まっていた。
「それでは、こちらが先ほど屋敷内にて確認した搬出物の目録です。内容に問題がなければ今日中の引き上げをお願いします」
カーネル管財人が差し出した書類には、二人によって持ち込まれた家具や魔具がビッシリと書き込まれていた。呆れたことに洋服まで持ち込んでおり、二人は数日ここに寝泊りしていたことも判明していた。
「カンザナイト家としては、屋敷の清掃費を要求いたします」
キッチン、浴室、寝室が使用済みだった為、是が非でも掃除させるつもりだ。
目の据わったカンザナイト家の面々の顔を見て、アルトルートは素直に頷いた。
今日中に使用人を呼び寄せて引き取ると約束した。息子の不始末に声もなくうなだれている。
「では次に、この婚約解消において発生する費用と慰謝料のお話をしていきましょう」
交渉人のサルバトーレがそう切り出した瞬間、アルビオンが慌てた様子で反論する。
「慰謝料って、俺とルビーは円満な婚約解消でいいじゃないか!」
どこら辺が円満なのか小一時間問いたいが、今はそんな戯言に付き合っている場合ではない。
アルビオンが先ほど書いた書面がある限り、誰がどう見ても非はアルビオンにあるのだ。
慌てるアルビオンを無視し、兄のダリヤが淡々と話を進めていく。
「既に到着している招待客の滞在費用。そして、結婚式中止によるお詫び行脚に掛かる費用。更に、結婚式三日前という時期の婚約不履行によるルビーの精神的苦痛。当家としてはキッチリと払って頂きたい」
お詫び用に急遽用意した高級ワインなどの費用や、招待客のホテルの宿泊費など、明細を事細かく提示する。
「異論があれば、弁護人を立てることをお薦めいたします」
交渉人であるサルバトーレはそう言ったが、反論する余地もないほど詳細な請求項目に、トラーノ家の二人は青い顔で俯いた。
唯一軽減を願うならばルビーに関する慰謝料だが、とても言い出せる雰囲気ではない。
馬鹿でも分かるように書かれた、今後ルビーが受けざるを得ない婚姻などに関する不利益は明白で、さすがのアルビオンも何も言えなかった。
まさかここまでの大事になるとは思っていなかったのだ。
ただ、花嫁を入れ替えるだけ。
子どもが出来たと説明すれば、ルビーは大人しく身を引いてくれると思っていたからだ。
費用に関しても、彼女の家が出す物についてそこまで深く考えてもいなかった。
彼女の家が費用を出すなら好きにすればいいと思っていた。だから、それらがまさかここまで高価な物だとは思いもしなかったのだ。
「……どうしてこんな事に……」
ただ、好きな女性と結婚したかっただけなのに……
そう小さく呟いたアルビオンだったが、それはルビーも同じだ。
けれどアルビオンはその事に気付かなかった。
いや、ルビーの気持ちを考えようとしなかった。
だからこそ今、こうなっているのだ。