伝説の勇者
静寂が訪れていた。
戦場の真っ直中だというのに、俺と目の前の男を包み込む空気は、どこまでも穏やかで、そして静かだった。
アヴォス・ディルヘヴィアはその仮面に手をかけ、ゆっくりと外す。
露わになった顔は、紛れもなくレイ・グランズドリィのものだった。
「どうして、わかったのかな?」
声が響く。いつものレイの声が。
あの仮面の魔法具は、声を変えるためのものだったのだろう。
「レイ・グランズドリィは転生者だ。イエスタ家の魔法継承がうまくいかなかったことから、<
この時点では記憶はないと思っていた。
それでも、転生者にはほぼ間違いなかった。
「俺を知っている転生者だとすれば、誰なのか、ということだが、お前はかつて戦った俺の右腕、シンを演じていた。カノンだということを隠すためにだ。本当は魔法もそれなりのレベルで使えるのだろう。だが、お前がまともに魔法を使えば、その魔族の体でも聖なる力を伴ってしまう。シンを演じるのが、正体を隠すのに都合がよかったというわけだ」
シンは魔法が苦手だった。あいつを演じることで、本来は使えるはずの魔法を隠したのだ。弱いレベルの魔法であれば、ぎりぎり聖なる力を隠すことができたのだろう。
そして唯一、俺より上手の根源魔法では、俺の
「お前はガイラディーテに来てすぐ、射的屋でミサに一つ貝の首飾りを贈った。覚えているか? 『一つ貝のはある?』とお前は店主に尋ねた。だが一つ貝の首飾りは、二つの貝殻を首飾りにしたものだ。首飾りの名を元々知っていなければ、そんな聞き方はしないだろう」
レイはその時点で転生前の記憶があったと予想がつく。
「一つ貝の首飾りの留め具はディルヘイドにはない構造をしている。ミサが外せなかったそれを、お前が簡単に外せたのは構造を初めから知っていたからだろう。だが、シンは飾り物に興味などない。ディルヘイドのものならまだしも、アゼシオンの首飾りの構造など記憶に留めておくとは思えぬ」
もっとも、たまたま見て覚えていた可能性もある。俺とて、シンのすべてを知っているわけではないからな。
だが、意外だったのは確かだ。
「対抗試験が終わった後、お前に尋ねたな。一意剣を使いこなしたなら、なにか思い出したかと」
レイはなにも覚えていないと答えた。
「一意剣にはシンの想いが残っているはずだ。同じ根源を持っているなら、それと同調するはずだった。だが、お前は思い出さなかった。思い出していないのなら、一つ貝の首飾りのことはどこで知った?」
魔族は二千年間、人間と交流がなかった。
母親が精霊病を煩っていたのだから、遠いアゼシオンにまでレイがわざわざ行ったとは考えがたい。
首飾りのことを勇者学院の授業で説明したのは、レイがそれをミサに渡した後だ。それにあの授業にレイは寝坊して出ていないのだ。
「つまり、お前はシンではない。そして、転生前の記憶があるにもかかわらず、記憶がないフリをしていた」
自分は嘘つきだとレイはミサに言ったことがある。
あれはたぶん、このことだったのだろう。
「シンではないなら、いったい誰だ? 一意剣と聖剣の両方を使いこなせる者など、二千年前にも他に心当たりがない。だが、もしも勇者カノンが魔族として転生していたなら、魔剣と聖剣、その二つを使いこなせたとして不思議はない」
レイは勇者カノンだという仮説が立った。
「だが、お前が勇者カノンなら、なぜその正体を明かさないのか。平和になった今、お前がそのことを俺に隠す理由はなかったはずだ」
だから、これまで気がつきもしなかった。
「本来であれば、な。勇者カノンだと打ち明ければ、俺があることに気がつくとお前は考えた。お前の根源が一つしかないということにだ」
さすがにカノンが根源魔法が得意とはいえ、その数ぐらいは見抜けぬ俺ではない。レイの根源の数は確かに一つだった。
「お前がどんな言い訳を用意していようと、残りの六つをどうしたのか、と俺は考えるだろう。そして、七魔皇老を乗っ取っていた根源のことを思い浮かべるはずだ。七魔皇老の内、メルヘイスだけは根源を乗っ取られていなかった」
乗っ取られなかったのではなく、足りなかったと考えればどうか?
「七魔皇老は六人がアヴォス・ディルヘヴィアの配下の根源と融合した。勇者カノンの残りの根源は六つ。ちょうど数がぴったり合ってしまう。偶然というには出来すぎだ」
否定しようともせず、黙って聞いているレイに、俺は言った。
「だから、お前は自分が勇者カノンだと打ち明けるわけにはいかなかった。自分がアヴォス・ディルヘヴィアだと俺に悟られる恐れがあったからだ」
無論、それでも不測の事態はいくつもあったのだろう。
母親の精霊病や、魔剣大会での一件がそうだ。
それについては正直いくつか疑問が残るが、今この場で訊くことではあるまい。
「大凡予想はついているがな、カノン。二千年前になにがあった?」
まっすぐ彼に問いかける。
これまでよりもずっと大人びた表情で、レイは微笑んだ。
「君がエレオノールに聞いた通りだよ、アノス。ジェルガ先生やガイラディーテ魔王討伐軍は、勇者学院を設立し、転生した君を滅ぼす準備をしていた。僕は必死に反対したけれど、彼らは聞こうともしなかった。君があの日言った通り、魔王アノスを倒しても世界は平和になんかならなかった。せっかく争いが終わったのに、二千年後にまた戦う準備を始めたんだ」
どちらかがどちらかを根絶やしにするまで、争いは続く。
俺がかつて彼に言った言葉だ。
「僕はジェルガ先生の賛同者に殺された。そのまま朽ちていくフリをして、すぐに蘇ったけれど、先生の計画はもう止められそうもなかった。彼らの命を奪わない限り……」
できなかったのだろう。
人間に振るう剣を、勇者カノンは持っていなかった。
「二千年前、人間は過ちを犯した。命を捨て、世界に平和をもたらした魔王アノスを、完全に消滅させようという計画を立てた。そんな理不尽な話はない。僕はどうにかして彼らの過ちを正さなければならなかった」
「そのために……?」
レイはこくりとうなずく。
「架空の魔王、アヴォス・ディルヘヴィアを作りあげた。人間が復讐するための偽物の魔王を」
「どうやって魔族たちから俺の名を奪った」
「話し合ったよ。ときには戦ったこともあった。だけど、魔族は人間よりも物わかりがよかった。というより、君が彼らに慕われていたんだろうね。僕の言葉を、最終的にはみんな信じてくれた。そして、アノス・ヴォルディゴードを忘れることにした」
自発的に俺のことを忘れた、か。
「霊神人剣は君を滅ぼすための聖剣だ。定められた宿命すら、断ち切ることができる。二千年後、君が暴虐の魔王として転生する宿命を僕は断ち切った」
「それで俺の名が変わったか?」
「……宿命を断ち切ってどうなるかは、神のみぞ知るといったところだけど、みんなの想いが通じたのか、一つ目の賭けには勝ったみたいだ」
うまく俺の名を書き換えられたのだろう。
だからこそ、アイヴィスたちの記憶を<
霊神人剣が俺の暴虐の魔王としての宿命を断ちきり、歴史さえも書き換えた。
「シン・レグリアを始めとする君の腹心たちは、さすがに君の名を忘れはしなかったけどね。彼らは転生したり、またディルヘイドからは離れていった。大戦の前は、君と対立していたっていう強大な魔族も、君が帰ってきて、すべてが終わるまでは大人しくしていると約束してくれたよ」
なるほど。
それで二千年前の魔族たちは、俺の前に姿を現さないというわけか。
アヴォス・ディルヘヴィアの仕業ではなく、自発的にそうしていたというわけだ。
人間のくせに、こうも魔族に取り入るとは。相変わらず大したものだな。
「……やがて、壁の向こうで勇者学院は、暴虐の魔王の名前が変わったことを知った。彼らはアノス・ヴォルディゴードが名前を変えて、自分たちの企みから逃れようとしていると判断した。もちろん、それは僕の狙い通りだったよ」
人間の寿命は短い。そうして、年月が経つにつれ、勇者学院でアノス・ヴォルディゴードの名前は消え、アヴォス・ディルヘヴィアの名だけが残っていったのだろう。
本来であれば、そうそううまく行くとも限らぬが、宿命を断ち切った聖剣が幸運をもたらした、といったところか。
「僕は六つの根源を七魔皇老と融合させた。もちろん、記憶を消すのもなにもかも、彼らの同意の上だったよ。二千年後、君が七魔皇老と接触すれば、融合に気がつくかもしれない。彼らは君に嘘をつけないからこそ、自ら記憶を消してくれと願った」
人間の企みから、俺を守るために、七魔皇老たちはあえてそうしたというわけか。
「残り一つの根源。つまり僕は、何度も転生を繰り返し、少しずつ魔族の血が濃い体を手に入れていった。純血の魔族になれたのは、今の僕が初めてだけどね」
勇者カノンが、俺の血を完全に引く魔族に転生していようとはな。
俺とて殆ど人間の体なのだから、可能性はあったわけか。
自分の血を引かない体に、生前の力すべてを引き継ぐのは、さすがに俺よりも根源魔法に長けているだけのことはある。
「そして、この戦争が二千年に及ぶお前の計画の総仕上げというわけだ」
レイはうなずく。
「人間の憎悪は消えない。暴虐の魔王か、人間か、どちらかが滅ぶまで、この争いは続く。いくら君が慈悲深くても、降りかかる火の粉は払うしかない。それでも、僕にはもう二度と、君の命を奪うことはできない……」
エレオノールの予想は間違っていた。
人間に殺されたというのに、彼はどこまでも気高く、勇者だった。
「だから、討たれるというのか。暴虐の魔王として、人間に」
レイはうなずく。
「それで止まるか?」
「<
レイの真剣な眼差しが俺を射抜く。
それは確かに、かつてのカノンを彷彿させた。
「決して望んだ道じゃなかったけど、それでも僕は勇者だ。僕を勇者と呼ぶ人がいる限り、僕は人々の過ちを償う。かつての勇者たちの過ちを償う。二千年前、君は命をかけてこの平和を作った。素晴らしい、本当に素晴らしい世界になったよ。僕たちが生きていたあの時代には、考えられないほど。世界はみるみるよくなっていった」
俺とは違い、変わっていく世界を二千年間、レイは転生を繰り返しながら、見てきたのだろう。
「魔王アノス」
二千年前のように、レイは言った。
「人間は愚かだった。それでも、俺はまだ人間を信じている。人間の素晴らしさを、俺は最期にお前に見せたい。お前が望んだ本当の平和を」
「勇者カノン」
二千年前のように、俺は言った。
「お前がそこまでする理由などあるまい。お前は十分に戦ってきた。これ以上、つまらぬ人間のために我が身を犠牲にするつもりか」
レイは首をゆっくりと振った。
そうして言ったのだ。
「あの日の約束を僕は今も覚えている。これは君が守った、君が作った、君が追い求めてきた平和だ。こんな形になったのは不本意だけど、それでも今度は君の友として戦わせてほしい」
それがどういう意味なのか、今更問うまでもない。
「長き時間をかけ、お前は壮大な準備をしてきた。迷いもあっただろう。不安もあっただろう。それでもすべてを乗り越え、覚悟を決めてきた。お前の二千年分の想い、今ここでそれを聞いたばかりの俺の言葉で揺らぐほど、安いものではあるまい」
やめろ、とは言わぬ。
言葉で止めようというのは、レイの意志を軽く見すぎているだろう。
「これは、一つ貝の首飾りではなく、ミシェンスの首飾りだったというわけだ」
勇者学院で俺が説明したことが頭をよぎる。
二千年前、大戦の初期では、戦地に赴いた人間の殆どは生きて帰ることができなかった。そのため、恋人たちは同じ時代に生まれ変わり、今度こそ結ばれるようにとミシェンスの首飾りに願いを込めた。
ミシェンス貝というガイラディーテの湖に生息する貝の殻を二つに分け、首飾りを二つ作った。片方を恋人に贈り、もう片方を自分がつけ、彼らは戦いに臨んだ。
ミシェンス貝は聖なる水を飲み生きており、神の使いとも言われている。
二つに分けた貝殻が、死んだ後の二人の根源を導き、巡り合わせてくれる、と当時の人間たちは信じていた。
勇者カノンは、レイは、決して伝えるわけにはいかぬ想いを、その首飾りに託し、愛する者に別れを告げてきたのだ。
「この首飾り、返してほしくば、力尽くで奪ってみよ」
「そう言うと思ったよ」
レイは、仮面を腰に提げた。
そして、その場に魔法陣を描く。
神々しい光が溢れ出て、それは剣を象った。
魔王城に置いてあった霊神人剣が、この場に召喚されたのだ。
俺が言葉では動かぬことを、この男もまたよくわかっている。
「行かせてもらう。君を守るために」
霊神人剣を構えて、勇者は言った。
俺は両腕を広げ、奴の前に立ち塞がった。
この男と戦うのは、いったい何度目になるかわからぬ。
それでも、こんな気持ちで戦うのは初めてだ。
「行かせはせぬ。お前を守るために」
そして明らかになる真相。
まだ疑問が残る点はいくつかあると思いますが、そちらは後々明かされます。