感染症流行シミュレーション


潜在的なパンデミックの驚異とシミュレーションによる介入政策評価

突然変移や遺伝子再集合により継続的に発生する新型インフルエンザ・ウィルスが安定したヒト-ヒト間感染力を獲得すると、世界的流行すなわちパンデミックが起こりうる。2009年には発生したA(H1N1)新型ブタ・インフルエンザの流行はそのような例のひとつである。幸いなことに2009年のパンデミックは季節性インフルエンザ程度の毒性しか持たなかったが、A(H5N1)型やA(H7N9)型には致死性の高いウィルス株が存在し、これらがヒト-ヒト間感染力を獲得することによる潜在的な驚異は大きい。

このような将来起こりうるインフルエンザの大規模流行に対して事前に有効な対策をたてておくことが重要であり、シミュレーションはその立案のための有効な手段である。我々は、特に人の行動を精密に記述できるエージェント・シミュレーションの手法に注目している。エージェント・ベースのを感染症シミュレーションでは、住民が社会的役割毎に与えられる行動パターンに従って行動することで、仮想都市内のそれぞれの場所で一時的に形成される小集団内でインフルエンザが確率的に伝染させる。

マルチエージェント・シミュレーション

ある集団内での感染症の広がりをシミュレーションするモデルとして、KermackとMcKendrickが1927年に発表した、SEIRモデルが広く使われている。対象の集団を感受性集団(S:Susceptible)、感染者(E:Exposed)、発症者(I:Infectious)、回復者(R:Recover)の4者に分け、それぞれの人数についての常微分方程式を与える。このモデルは集団の構成員が一様に混じり合うことを仮定している。これは、都市における他者の接触のあり方とは大きく異なる。社会的属性ごとに行動にはある程度パターンが存在し、接触が可能な相手は限られている。さらに、例えばある地区でのいくつかの学校で学級閉鎖を行うなどの個別的な介入の効果を記述するのは困難である。






SEIRモデル エージェントモデル


そこで、計算機上にモデル都市を住人と学校や会社などの集まりとして構成し、人の移動は社会的役割毎に与えられる行動パターンに従うとするシミュレーションを行い、結果として実現される局所的な集団内で感染の伝搬を確率的にシミュレーションすることを考える。これは、一般にマルチエージェント・シミュレーションと呼ばれる手法である。個別的な介入政策もシミュレーション内で容易に実施できる。ただし、一般に計算コストが高いのが難点である。そこで、OpenMPによる共有メモリ型の並列計算によりシミュレーションの高速化を図り、百万人の仮想都市での半年間のシミュレーションを2時間で完了するシミュレータを開発した。実装の詳細は、文献を参照されたい。

ワクチンによる集団免疫の向上と優先的接種者の選定

新型インフルエンザが当該都市に上陸する前に備蓄できるワクチンの総量はきわめて限られている。そのため、全住人に予め接種しておくことは不可能であり、接種対象に優先順位を付けざるを得ない。順位付けを評価するひとつの指標として、集団免疫の最大化が考えられる。非ワクチン接種者の罹患率を最小化しようというのである。予備的な結果によると、学生と会社員に接種すると罹患率を1/4まで低下出来る。このことは、学生や会社員はウィルスに対して強者の立場にある。従来の政策では、一般に弱者を優先する接種計画が組まれてきた。そのため、学生や会社員を優先する提案は受け入れにくいと思われるかもしれない。しかし、我々のシミュレーション結果は 、弱者優先策よりも強者優先策を取った方が高齢者死亡率が小さくなることを示しており、弱者を犠牲にすることなく集団免疫を高めることができると考えられる。 シミュレーション結果の詳細は、論文を参照されたい。