MMT(現代貨幣理論)
正しい[理解・検証・議論]のために

対談=森永康平×田中秀臣

貨幣観・雇用政策の検証


MMT 貨幣観の検証

森永 MMTについてよく挙げられる特徴として、変動相場制を採用していてなおかつ通貨主権を持つ国に関しては、自国通貨建てで支出する能力に制約はない、という部分が取り上げられますよね。そういったことを説明するための経済理論だと認識されて、この点をベースに賛否が議論されがちなのですが、実はそれ自体もおかしくて、MMTというのは貨幣の考え方の議論からスタートしているんです。ランダル・レイも本の中で結構なページ数を割いて、そもそも貨幣が何であるかということを説明している。アダム・スミスが賛同したことで経済学の教科書にも出てくるようになった、貨幣の裏付けとしての商品の価値が貨幣を貨幣として流通させる「商品貨幣論」を否定して、全ての人びとが信用する負債が貨幣として流通するという「信用貨幣論」を適用しているんですね。また、MMTの貨幣観をわかりやすく理解するためのツールとして、投資家のウォーレン・モズラーの名刺の逸話があり、本書にも収録しました。

〈「モズラーの名刺」解説〉
 モズラーが自分の子どもたちが家の手伝いをしないため、ある日「手伝いをしたらお父さんの名刺をあげるよ」と子どもたちに言った。そうすると、子どもたちは「そんなものはいらない」と答えて手伝いをしなかった。
 そこでモズラーは、今度は子どもたちに、「月末までに30枚の名刺を持ってこなければ家から追い出す」と伝えたところ、家から追い出されたくない子どもたちは必死に手伝いをして名刺を集め始めた、という話だ。
逸話に出てくるモズラー(お父さん)を国として考え、名刺を貨幣、子どもたちを国民として考えれば、月末に30枚の名刺を納めよという指示が加わることで、何も価値のない名刺(不換紙幣)を子どもたち(国民)が喜んで受け取る理由がわかる。
「国家が自らへの支払手段として、その貨幣を受け取ると約束する」という部分をこの逸話は非常にわかりやすく示している。[中略]つまり、その貨幣が納税の際の支払い手段として使えるかどうかがその、その貨幣が流通するかどうかを決める重要な要素になる。(本書144~146頁より)


 貨幣観に対するもともとの考え方が一般的な経済学で論じられる説と違う、というのが実際のMMTの根本的な特徴だと考えます。

 田中 つまりMMTの貨幣観というのは「租税が貨幣を動かす」ということを示しているんです。一方、この「モズラーの名刺」に似たたとえ話があって、ポール・クルーグマンが一般の人にわかりやすくリフレ政策の趣旨を説明した「子守協同組合」という論説があります。

〈「子守協同組合」解説〉
 子どものいる夫婦が何百人か集まって、「子守協同組合」をつくったのです。これは外出などの用事ができたときに、他の夫婦が子どもの面倒を見るという、子持ちの夫婦による互助組織です。
 各夫婦にはクーポンが配られ、子守りをしてもらうときには、子どもを預かってもらう夫婦が、子どもを預かってくれる夫婦に、そのクーポンを1枚渡すという仕組みです。各夫婦は、外出をしない間に他の子どもの子守りをしてクーポンを貯め、外出するときにそれを使う、という形です。
 ところがこの組合はすぐに行き詰まってしまいました。クーポンを貯めようと考えて外出を控える夫婦が、外出する夫婦をはるかに上回ってしまったのです。子どもを預ける人はごく少数になり、組合の活動は「停滞」しました。(田中秀臣著『デフレ不況』83~84頁)


 この「子守協同組合」の話は長期停滞とクーポン券の量をダイレクトに結びつけた話なんですね。停滞してしまった組合の活動を活性化するために組合はクーポン券をたくさん発行して打開を計るのですが、それでもまだ溜め込む人がいて、子守りを頼めない人が出てくるから、クーポン券の利子付き貸し出し制度を導入したんです。さらにみんなが貸し出し制度を利用しやすくするために、貸し出しの利回りを徐々に下げていく。ただし利回りが0になると溜め込む人向けの対策がそれ以上はできなくなってしまうので、その状況を打開するために持っているクーポンの価値はだんだんと下がってくるとアナウンスするんです。例えば今持っているクーポンは1年後に価値が何%減りますというふうに。そうするとクーポン券を早く使ったほうが得になるのでみんな慌てて使い出して組合内で子守りが円滑にまわるようになる、という話なんですよ。
「モズラーの名刺」のたとえでも、子どもたちに手伝ってもらわないと家事が回らくなるのでまずはモズラーの発行する名刺が前提ですし、「子守協同組合」も組合が発行するクーポン券がないと子守りが回らない。双方とも発行するものありきで、それがないと経済が回らないという状態なので、実はここまでは全く同じ話なんです。
 では、この2つのたとえ話はどこが違うのか。それは「子守協同組合」の方はお父さんのように罰則を与えない、ということ。「子守協同組合」におけるペナルティというのは、クーポン券を使わないことでみんなが困ってしまう、というという状況が発生することです。一方「モズラーの名刺」では子どもたちが手伝わないとお父さんが怒って家から追い出すという罰を与えようとしますよね。簡単に言うと怒る、怒らないという権力関係が「モズラーの名刺」の話に集約してくるんです。
「モズラーの名刺」のたとえ話の規模を、国のような強大な権力を持つ人の手段として使われる貨幣という話に置き換えると、実はインフレ・デフレの問題が希薄になっているということがわかります。名刺の数が10枚であろうが、30枚になろうが、実際にその枚数自体は関係ない。むしろ子どもたちが約束どおりにお手伝いをするか、しないかが重要であって、名刺というここでいう貨幣の名目価値の変動を問題にしていない。実際にモズラーの名刺のケースでは、回収する名刺の枚数自体は意味がないので、お父さんはそれを破いて捨ててるだけです。ところが「子守協同組合」の場合はクーポン券の量の多寡が組合内の子守りの仕事を回していく上で決定的に重要になってくる。というところが大きく違うんですね。
 つまりMMTの貨幣観は、実は昔からある「貨幣国定説」という説を採用していて、貨幣自体の価値を国が定めるという話です。この貨幣観の弱点というのは名目価値と実質価値が上手く分離できていないので、名目価値の変動を説明するためには使えない。いわば名目経済と実体経済の動きをうまくとらえていない。この指摘は、MMT側が言うところの「商品貨幣論」論者のクヌート・ヴィクセルやアーヴィング・フィッシャーらがとっくの昔に論破していました。

 森永 もともと「貨幣国定説」を提唱したのはゲオルク・フリードリヒ・クナップですよね。

 田中 その19世紀のドイツの経済学者が初めに「貨幣国定説」を提唱したのですが、メジャーにはなれなかったんですね。クナップの翻訳は大正時代に出てますが、日本のMMT支持者のほとんどは原書で読んだことはないでしょう。実は、大正時代にクナップの貨幣論やフィッシャーらの見解などを利用して、貨幣・物価論争が起きています。福田徳三、河上肇、左右田喜一郎らが主要プレイヤーです。ちなみにその論争に関連して、ドイツ語で専門論文を20年以上前に書いたことがあります。クナップの議論の限界はそのときの勉強で確認していました。その理由は前述の通り、名目価値の変動と実体経済との関係を説明できないから。でも「貨幣国定説」の立場で言えばそのことは本質的な議論ではないんですよ。例えば、とある権力者がリンゴを1個を買うための税を徴収しようとします。その際に、リンゴ1個の値段が1万円と表示されようが、1億円と表示されようが、権力者にしてみればその時にリンゴ1個を買うために必要な税が納められるだけで十分なんです。だから権力者にとってリンゴ1個に対する名目価値は問題にしていないということです。ところが「子守協同組合」のたとえ話をしたクルーグマンら主流派の経済学者からすると、名目価値の変動こそが現実の経済を検証する上で極めて重要な点だと考えています。
 だから「貨幣国定説」を下敷きにしているMMTにとっても名目価値の変動はクルーシャルではない。でも僕からするとMMTのその貨幣観は100年前に後塵を拝した問題をそのまま抱えているな、と思うわけです。


MMT 雇用政策の検証

 森永 今の田中先生の話とも関連しますが、MMTが主張する貨幣制度には貨幣の名目価値とリンクさせるロジックがないんですよ。ではどうやって貨幣に価値をもたせるかというと、「ジョブ・ギャランティー・プログラム(JGP・就業保証プログラム)」という、政府が完全雇用を目指すために取るべき方法論があって、「独自の通貨を発行できる政府の支出能力は無制限であるため、一定賃金での雇用を無制限に供給する」という内容のMMTにおける中核的な政策提言なんです。このJGPを通じて労働者の最低賃金を設定し、この賃金をアンカーとして貨幣価値にリンクさせることによって、MMTにおける貨幣観が実体経済においても成立するようになるのです。
 ただし、MMTが事実を淡々と説明しているなかで、唯一このJGPは「べき論」で話が進んでいる、異質な論旨でもあるというところは押さえておかなければいけないでしょうね。それゆえにMMTを議論する上ではJGPを切り離して話をしたほうがいい、という人たちもいるんですよ。でも、前述のとおりMMTにおける貨幣価値を成立させるための唯一のアンカーがJGPなので、それを分けて考えろ、というのは実際には不可能な話なんですね。逆にそこに対する代替案を考えないと、MMTにおける貨幣の価値がわからなくなってしまう。まさに田中先生の指摘そのままになってしまうわけで。
 そして僕がMMTを全面的に支持しきれないというか、本当にうまくいくのかと疑問に思っているのが、まさにこのJGPの部分なんです。現実社会でJGPと思える制度を採用した事例はいくつか存在しますが、それは今回の新型コロナショックのような、ある意味特別なシチュエーション下においてで、かつ時限的に実施されたケースしかない。では、いざJGPを通常の雇用政策として導入した場合に、この制度がきちんと稼働するのかと問われてしまうと、成功すると断言できるほどのバックテストできるデータが揃っていない現状では疑義を挟まざるをえないわけです。
 なので、僕がMMTを完全に支持しきれていないのはこのJGP運用にあたっての検証が完全に済んでいないからで、ここが証明されないままではMMTにおける貨幣の価値設定があやふやなままなので、JGP込みのMMTは支持しづらくなるなあ、というふうにも感じています。

 田中 昔、僕がミンスキーについての論文を読んでいるときに感じていたのは、完全雇用を実現するツールが弱いな、ということ。その点についてはやはりトービンのほうがしっかりと整理していて、貨幣的な現象と雇用、実質GDPの動きをフォーマルに連動させているんです。わかりやすく言うとインフレと失業の関係の議論なのですが、ミンスキーにはその観点が不足していて、マクロ経済学的にいうと致命的な弱点なんです。このマクロ経済学の軸となる論点に対して、いま森永さんが詳細に説明されたJGPという仕組みを使って解決を図ろうとしたのがミンスキーの弟子のランダル・レイで、彼なりに雇用と貨幣を連動させるためのアイデアだったわけですね。今回の新型コロナの中でもランダル・レイは、主流派経済学が議論しているヘリコプターマネーのようなものはインフレ誘導を引き起こす政策である、と明確に否定していて、JGPを政策提案の根幹においていますね。つまりランダル・レイにとってJGPはMMT議論を進める上で極めて重要なポイントで、これこそが師匠のミンスキーが抱えた弱点を克服することができるMMTの核心である、と主張したいのではないでしょうか。
 先程の「モズラーの名刺」のたとえ話でMMTの貨幣観の解説をしましたが、雇用との関係に引きつけてもう少し掘り下げてみます。「モズラーの名刺」における雇用は家の手伝いを指しますよね。それと名刺の枚数、つまり名目の価値が全く連動していないと述べましたが、これを経済全体の話に置き換えると、インフレと雇用の関係が切れてしまっているとも言えます。この関係性が分離してしまうと実際の経済を考察する上では重大な欠陥になるからこそ、ランダル・レイはJGPのようなものを「入れなければならない」と、森永さんが言うとおり「べき論」で補おうとするわけです。でもそれはあくまで「べき論」でしかなく、この貨幣観を軸に据えて議論する以上は規範的にはともかく、ポジティブには連動しない話題のままですよね。彼らが批判する主流派経済学の場合は、総需要と総供給AD―ASのアンバランスによってGDPとインフレが連動する。そしてフィリップス曲線という形でインフレ率と失業率とが結びつくんです。フィリップス曲線はマクロ経済学を論じる上でかかすことができない議論で、過去にもミルトン・フリードマンとトービンが短期・長期フィリップス曲線の問題を長年議論していたほどです。現在でも熱い政策議論の焦点です。ところがそういったマクロ経済学のベーシックな議論をMMTは残念ながら「べき論」で処理してしまっている。「べき論」の中でしか雇用とインフレの連動が存在しないから、僕からすると経済政策議論には全く使えないという結論になるんです。
 むしろMMTが否定している、彼らがいうところの「商品貨幣論」の議論の方が手強い相手です。「商品貨幣論」を批判する人はMMT論者に限らず多いのですが、「商品貨幣論」は要するに経済を効率的に回していくという話で、基準を効率性においているんです。一方でMMT的な貨幣論のベースは、「お父さんに怒られるのが怖い」という考え方に帰結しますが、仮にモズラー家の子どもたちがお父さんに怒られるのが怖いからといって家を出ていかれたら、家の仕事が回らなくなり、最終的に困るのはお父さんですよね。それだけでこの議論は終わってしまう。ところが効率性というものは地球上で生活する限り、常に直面します。なぜなら自分の欲望に対して資源は限られていて、この両者を上手に折り合わなければいけないからです。効率性の問題は家を出ていこうが、国を離れて北極・南極に行こうがどこにでも存在する。雇用についても同じで、失業というのは社会が労働資源を効率的に使うことができなくなっている状態ですから、この問題は効率性をもって解決するしかない。こういった地球上で生きるための必須要件をバックに据えているのが「商品貨幣論」なんです。MMTはこの効率性の問題を考慮していないからこそ、多方面の経済学者から批判されている、ともいえるんです。よりプロフェッショナルにいえば、MMTには権力関係が中心を占めています。需要供給の市場メカニズムは基本的に不在と考えていいでしょう。実証というよりは規範的で、MMTが依拠する「現実」は解釈学的な境地でしかありません。
 だからといってあまり批判ばかりしていても森永さんの本のPRにならないので(笑)。MMTの核心であるJGP、就業保証プログラムの「趣旨」は評価できる部分なんですよ。あくまで「べき論」の範囲においてですが。つまり国は完全雇用を達成しなければならない、という点です。特に今のような危機的な環境においてはなおさらこの趣旨が重要になってくる。以前、僕もリーマンショックのときには公的雇用をある程度活用したほうがいいと考えていました。たとえば任期付きの自衛官、あるいは公的機関の相談窓口要員を増やすなど、経済危機のときにこそ若い人を中心にした公的雇用を増やす政策を検討すべきだと発言したことがありました。このような公的雇用を推奨する就業保証プログラムの「趣旨」は尊重してもいいかな、とも思うんですね。