昏睡状態に陥る人もいれば、意識があっても吐き気や嘔吐を催す人、腎不全や視覚障害になる人もいた。彼らの視界は、受信状態の悪いテレビ画面のようになり、やがて完全に視力を失った——。
2月下旬、イラン各地の病院にこうした患者がぽつぽつと現れ始めた。首都テヘランにあるログマン・ハキム病院の臨床中毒学者ホセイン・ハッサニアン=モハダム氏は、この症状を以前にも見たことがあった。メタノール中毒である。新型コロナウイルスがイラン全土で猛威を振るうなか、この第2の病は、3月中旬までには国中にまん延した。
理由は「度数の高いアルコールを飲めば、体内のウイルスが死滅する」というデマが広まったことだ。家族を守ろうと、普段は酒を飲まない人たちでさえ、飲料用アルコールの代表的成分であるエタノールを探し始めた。すぐさまエタノールの供給は逼迫し、手っ取り早く金を稼ぎたい悪徳業者によって、イランはメタノールを混ぜた毒の酒であふれ返った。
イラン国内では、メタノール中毒により2月23日から5月2日までの間に5876人が入院し、800人以上が死亡した。患者数、死者数ともに過去最大規模である。ハッサニアン=モハダム氏によれば、患者のなかには幼い子どもまでいたという。親が心配のあまり、感染予防になればと与えたアルコールにメタノールが混入していたのだ。
イランだけではない。国境なき医師団(MSF)が集計したデータによれば、2020年に入ってからすでに世界で7000例近くのメタノール中毒が発生した。死者は1607人に上り、年間の死者数としては過去最多ペースとなっている。
それでも明らかになっているのは氷山の一角に過ぎないと、ノルウェー、オスロ大学病院の医師で、メタノール中毒の世界的第一人者でもあるクヌート・エリック・ホブダ氏は言う。「メタノール中毒は著しく認知度が低い問題で、診断に至る例はごくわずかなのです」
メタノールは、工業溶剤に使われており、非常に安価で、性質はエタノールとよく似ている。そのため悪徳業者は、より高価なアルコールをメタノールで薄めることがよくある。この問題は、規制が緩い国や、闇市場で酒が流通している国で特に多い。コロナ禍による混乱に乗じて、混ぜ物をした安酒と手指消毒液があふれた結果、メタノール中毒が急増した。
「市販のアルコールの多くにメタノールが混入していました」とハッサニアン=モハダム氏はイランの状況を説明する。「安いアルコールを求める人が、それほど多かったのです」
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