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エルヴィス・プレスリーと西城秀樹を結び付けたのは、ロックンロールという新しい音楽だった~第3回

ロックンロールが大人の社会に反抗するティーンエイジャーの音楽になったのは、白人のエルヴィスが黒人のものとされていた「レイス・ミュージック」を歌ったということが大きく関係している。

アメリカにおける音楽業界では1950年代まで、レコードのジャンルは「白人向けのポップス」と「白人向けのカントリー&ウェスタン」、そして黒人に向けた「レイス・ミュージック」の3種類に分類されていた。

黒人によるレコードはジャズでもブルースでも、リズム&ブルースもふくめて、まとめて「レイス・ミュージック」だった。
レイスとは「人種」という意味だったが、そこには当時の人種差別という現実が反映されていた。

その頃の白人たちの常識からすると、黒人のリズム・アンド・ブルースは、白人が聴くような音楽ではなかった。

しかしそんなジャンルの区分など、エルヴィスの前には存在しないも同然だった。
気に入った歌を好きなように唄うのがエルヴィスのやり方で、それが認められていったのだ。

そのあたりの感覚は洋楽や邦楽にこだわらず、気に入った歌を次々にライブで取り上げて、精力的に唄っていった西城秀樹とも共通している。



メンフィスでサン・レコードを経営していたサム・フィリップスは、アラバマ州で農園を経営する家に生まれたが、下男のアンクル・サイラス・ペインという盲目の黒人から、いつもブルースを聴いて育った。

そして放送局でアナウンサーとして働き始めて1950年に独立すると、メンフィスに小さなレコーディング・スタジオを開いた。

サムはエルヴィスの歌声を聴いて、それまでにない新しい可能性を感じて、21歳のギタリストだったスコティ・ムーアと、ベーシストのビル・ブラックエルヴィスとの3人で、サウンドづくりに取り組ませた。

というのも以前から、黒人のような声を持つ白人がいたら、成功する可能性が高いと思っていたからだ。

しかし何か月も試行錯誤したものの、エルヴィスのプロジェクトはうまくいかず、7月5日もカントリー風の2曲をデモープに録音したが、手ごたえがつかめないまま休憩することになった。
スコティがそこで起こった奇跡を、詳細に振りかえっている 。

私たちは、すわってコークを飲み、サムは調整室にいて、私たちは世間話をしていました。エルヴィスが自分のギターをとりあげ、ギターを叩きながら『ザッツ・オール・ライト、ママ』をうたいはじめたのです。スタジオの中をとびまわりながら、ばかみたいに体を動かして、エルヴィスはうたいました。ビルがベースを弾きはじめ、私もギターで加わって、とにかくやかましくさわいでいたような感じでした。調整室のドアが開いていて、曲が半ばあたりまで進行したときにサムが調整室から走って出てきて、いったいなにをやっているのだ、と訊くので、さあ、なんですかね、と私たちがこたえると、サムは、いまやっているその感じを逃がさないようにしてもういちどやってくれ、テープにとろう、と言ったのです。私たちは、そのときやっていたことを、私たちにできる範囲内でなるべく忠実に、くりかえしてみました。

(ジェリー・ホプキンズ著「ELVIS」片岡義男訳 角川書店 1971)
『ザッツ・オール・ライト』は、エルヴィスの歌い方に影響を与えた黒人カントリー・ブルース歌手、アーサー・”ビッグボーイ”・クルーダップによって作られた楽曲で、1940年代にレコードになったもののヒットしなかった。
それがギターを叩いたエルヴィスによって、新しい命を吹き込まれたのである。

テープには黒人のものでもなく白人のものでもない、新しいサウンドがしっかり記録されていた。

そのことはサムはもちろん、バンドの面々にもはっきり伝わってきた。

そこで同じようなやり方でB面を作ろうと、3晩か4晩かけて「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」を仕上げたという。
こうしてサン・レコードから1954年8月に発売される最初のレコードが出来上がった。

この時に告知する目的で地元のラジオ局に出演したエルヴィスは、白人のDJから「ハイスクールはどこを出たか」と訊かれた。

エルヴィスは素直に「ヒュームズだ」と、白人が通う母校の名を答えている。

ラジオを聞いていた人たちのなかには、エルヴィスは黒人だと思い込んでいる人たちが多いようだったので、ハイスクールの名前は、エルヴィスの口から言わせておきたかったのだ。

(ジェリー・ホプキンズ著「ELVIS」片岡義男訳 角川書店 1971)
ラジオが流れてから数日後、5000枚の初回プレス分のレコードがサン・レコードに届いて、メンフィス当たりではローカル・ヒットになった。



1955年に白人のグループがロックンロールのレコードをヒットさせたのは、映画『暴力教室』の主題歌に使われたからだった。

ビルヘイリーとコメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は、映画が公開されたことで全世界にまで飛び火していったのだ。

それを日本でいち早く受けとめたのが、後に西城秀樹の代表曲となった「若き獅子たち」や、今なお名曲と称えられる「ブルースカイブルー」を書いた作詞家、若き日の阿久悠である。

生まれ育った淡路島から上京して明治大学に入学したその年、阿久悠は映画館で『暴力教室』の主題歌を聴いて、「腰が抜けるような思いになった」と述べていた。

それまで、音楽とか歌とかは流れるようなものだと思っていたのが、叩くという種類のものがあることを知った。歌の中身は大したことはない。
  〽今夜はみんなで 時計のまわりで 踊って明かそうよ……
程度のことである。しかし、若年寄りの粋人気取りをひっぱたく効果は十分にあった。ロックンロールの第一号である。
 これがあったから、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」の登場は、すんなり受け入れることが出来た。
(阿久悠著『愛すべき名歌たちー私的歌謡曲史―』岩波新書 1999)
このとき文部省(現・文部科学省)は中高生たちに、映画を鑑賞させないようにと、いう通達を出していた。
こうした大人たちの過剰な反応によって、ロックンロールは日本でも不良と反抗を意味するようになっていく。



アメリカでは戦後に生まれたベビーブーマーの世代が、みんなで夢中になれるヒーローを必要としていたという。
そこに登場したのがレコードを聴いただけでは、黒人にしか思えない歌声のエルヴィスだった。

ロックンロールとはなにかという本質を日本に紹介した翻訳家で、現在も作家として活躍する片岡義男がこう述べている。

すぐれたロックンロールをレコードで耳にした瞬間の衝撃は、確実にオリジナルだった。
オリジナルとしての複製を無数にちかくばらまいていくアメリカ文明のひとつの顔がここにあり、45回転レコードというオリジナルはラジオをとおして人の耳にとどく場合も多く、レコードは「物」であるという考え方はできなくなり、音波としてのロックンロールは、心で知覚したとたんに、肉体と精神の両方にまたがる全体験となり、ときとしてそれは宗教的な天啓にまでたかめられた。
聴いた人にとってレコードがオリジナルだったということは、それを唄った歌手がヒーローに祭り上げられることにつながる。
しかしレコードは楽器の音や声のリバーヴが、電気的な助けをかりてかなり強調されている。

だから生身のライブでは、聴衆のそれぞれが、レコードによってつくりあげた音のイメージに負けないようにと、歌手はすさまじいパフォーマンスで観客を圧倒しなければならなかった。

それが出来たのはロックンロールのレジェンドになった黒人のリトル・リチャードと、白人のエルヴィスの二人だった。

そのおかげで一大センセーションを巻き起こし、良識ある社会の秩序を乱す異端児ではないかと、大人から警戒されてしまう。

しかし、レコードを聴いたティーンエイジャーたちは、歌声やサウンドに反応して、本気で声援を送り始めたのである。



ロックンロールのコンサートでは年若い男女や少年少女たちが、思い思いに身体を動かして声援を上げて熱狂するのが特徴だった。
それもまた大人たちからは、決まりがなくて無秩序だとして、否定的に受けとめられた。

だが溌溂とした若者たちは、大人の言うことを真に受けなくなっていくのである。

なお日本では都内に増えていたジャズ喫茶で、ロカビリーと名付けられてたロックンロールは、深く静かに広まっていった。
そして1958年2月の「日劇ウェスタンカーニバル」で人気が沸騰し、ロカビリー・ブームが一気に社会現象にまで押し上げられた。

西城秀樹はまだ4,5歳の頃からロカビリー出身だった水原弘のロッカバラード「黒い花びら」を唄っていたという。

そしてプロになってからはリトル・リチャードの「グッド・ゴーリー、ミス・モーリー」や、エルヴィスの「ハートブレイク・ホテル」「ラブ・ミ―・テンダー」などをカヴァーするようになっていく。

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