名人戦

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名人戦(めいじんせん)とは、その世界の最高権威である名人の座を巡る戦いのことである。

歴史[編集]

名人戦の様子(将棋
名人戦の様子(ファミコン

戦国時代織田信長が当代一の碁打ちである本因坊算砂を「真の名人なり」と称したことが「名人」の起こりである。その後、江戸幕府にて囲碁の家元制が確立され、第一人者は「名人碁所」として、50石20人扶持の俸禄で幕府に召し抱えられた。絶対的権威である名人碁所の座を巡って、時には熾烈な争碁や政略戦も繰り広げられた。将棋においても囲碁と同様に、江戸幕府の庇護の元、その時代の第一人者が「名人」を名乗った。

現代の名人戦[編集]

江戸幕府の崩壊により、いったんは名人位は消滅した。しかし、将棋界囲碁界とも、有志の棋士や関係者達が発起して、世襲制でも推挙制でもない実力制名人のタイトルを設立して、現在に至る。

各界の名人戦
将棋 囲碁 ファミコン
設立年 1937年 1962年 1986年
主催 朝日新聞社
毎日新聞社
朝日新聞社 東宝
協賛 日本将棋連盟 日本棋院
関西棋院
ハドソン
勝負形式 七番勝負 七番勝負 五番勝負
持ち時間 9時間 8時間 2分/5分

名人をとりまくると名誉名人(永世名人)の称号が与えられ、専用の年金が支給される。

女流名人戦[編集]

男女平等男女同権を求める社会の流れ、そして男女雇用機会均等法の制定を受けて、囲碁界・将棋界では女流名人戦が創設された。しかし謝依旻等によりタイトルが独占されているため、ほとんどの女流棋士たちは恩恵を受けられていない。また女流名人戦は通常の名人戦より賞金が低いため、賞金稼ぎフェミニストたちから人権問題だとして批判されている。

2019年にスポンサーの産経新聞が撤退することによる女流名人戦 (囲碁) の打切りが発表され、女性のみならず多くの男性ファンたちが絶望することとなった。

アマチュア名人戦[編集]

名人戦への出場資格のない哀れなアマチュアたちのために、アマチュア名人戦も用意されている。まず各都道府県ごとのアマチュア名人を決め、その中からバトルロワイヤル形式で真のアマチュア名人が決められる。晴れてアマチュア名人になれた者は真の名人への挑戦権を手に入れるが、多くの挑戦者たちが返り討ちにあっている。

海外の名人戦[編集]

日本文化の海外普及に伴い、中国韓国も名人戦を導入している。大会のレベルや賞金はお察し下さい

チェスの名人戦[編集]

チェスには名人という概念がない(そもそも漢字がない)のだが、代わりに Grand Master, International Master, Idol Master 等の称号をかけた熱戦が用意されている。しかしマスターベーションと聞き間違えることが多いため、最近はネオナチたちが創設したSS (=SuperStar) 等が使われている。

有名な逸話[編集]

羽生の「50年に一度の大逆転」
2008年将棋名人戦七番勝負第3局、挑戦者の羽生は敗勢の中も粘り強く指し続ける。そして122手目で飛び出した△4二角が、7五歩打ちを強要して森内の入玉の進路を狭めると同時に7七飛車の成りこみを防ぐ好手。その後も形勢の差を詰め、終盤では王手銀取りとなる森内の▲9八銀の大失着を誘い、「50年に一度の大逆転」を成し得た。
井山、最年少で名人を獲得
井山裕太は今では国民栄誉賞受賞者として知られているが、実は2009年張栩を撃破して当時最年少で名人を獲得しているということは意外と知られていない、というか忘却されている。
の二手打ち
1987年囲碁名人戦七番勝負第3局、二日目の夕食休憩に入ると、林は食事もとらずに自室にこもり、夢遊病者のように歩き廻っていたという。極度の集中か疲労が限界を超えたのか、対局が再開されると相手の手番にもかかわらず、林は189手目を打ち下ろしてしまった。打たれた加藤もすぐには二手打ちに気付かなかったという。史上稀に見る、名人戦における反則負けである。

毛利のラザロ失敗
1986年ファミコン名人戦五番勝負最終局。序盤、高橋はイージーなキャラであるメルスを逃してしまい、空中物の出現パターンを遅らせてしまう。毛利優勢で試合は進むが、これは高橋の高度な作戦であった。空中物の出現パターンが早かった毛利は、トラップゾーンに重なってラザロ8万点を失敗したのだ。これが響いて毛利は高橋に勝利数では上回ったものの、総得点では敗れた。
渡辺、初の名人獲得
2020年、竜王11期の渡辺明がやっと名人を獲得した。これで誰も達成していない8大タイトルの生涯グランドスラムに大きく前進することとなったが、同じ時期に藤井聡太報道が過熱しすぎて、渡辺の快挙がほぼ報じられないという事態が発生した。普段なら対局室が記者で埋め尽くされるはずが、この日はめずらしく対局室内の Social Distance が保たれていた。スポンサーたちは藤井聡太の順位戦A級昇格を待ち望むばかりである。こうして歴史上最も注目度の低い名人戦が幕を閉じたのであった。
芝野、10代で名人を獲得
井山が20歳で名人を獲得したのに対して芝野は19歳で名人を獲得したのだが、たったこれだけの実績で芝野は日本テレビと共演を果たすことになる。20代の名人と10代の名人では民放からの扱いが変わることを如実に示すエピソードである。