目黒ジムの藤本勲会長が死去 キックボクシングの時代を築いた名伯楽をしのぶ【山崎照朝コラム】
2020年5月8日 17時56分
キックボクシングの老舗で日本最古の目黒ジムの藤本勲会長が5日、肝臓がんのため死去した。78歳だった。3年前から間質性肺炎で入退院を繰り返し、医者や家族から休養を勧められていたが、昨年から症状が悪化。今年1月30日にはジムも閉鎖していた。
妻の和子さん(73)は「頑固で医者の言うことも聞かずに…。残念で悔しいですが、自宅で深夜3時20分に眠るように逝きました」と語った。
弟子の石井宏樹(41)は「(昨年)12月8日の新日本キックボクシングの主催興行の時もかなり体調が悪く、リングに上がってのあいさつが苦しそうでした」と振り返った。その前日に入院する予定だったが、医者の制止を振り切っての出席。どうやら体調悪化は覚悟していたようだ。
私は藤本氏の5歳年下。所属団体は違ったが同じ空手出身でキックのリングに立っていたため気になる先輩だった。ジム閉鎖を知った2月上旬、気になって電話をした。入退院を繰り返しているという割には声に張りがあり、闘病生活を送る仲間を気遣うほどだったのに。
藤本氏は山口県出身。山口水産高校卒業後、一度は地元の海運会社に就職するが、その後別の職を得て上京。空手は剛柔流の山口剛玄氏に師事し、3段を取得した。
キックボクシングはボクシングプロモーターの野口修氏が1966年に考案したスポーツ。タイの国技ムエタイに「投げ」と「頭突き」を加えて独自のルールをつくった。真空飛びひざ蹴りを必殺技にした沢村忠はここから飛び出した大スターである。その沢村は日大芸術学部の空手部出身で、流派は剛柔流。共通の知人の紹介で藤本氏もキックボクシング界に入ることになる。
沢村ほどの派手さはなかったが、180センチを越える長身からのひざ蹴りは威力抜群でKOを連発。1967年2月に日本ヘビー級初代王者、69年6月には東洋ミドル級王者に。引退は1970年12月4日。通算戦績は51戦40勝(32KO)11敗。その後は目黒ジムのトレーナーを経て会長に就任した。
最高の思い出は間違いなく2011年10月だっただろう。“悲願のムエタイ打倒”に燃え、敵地に乗り込んで石井宏樹をラジャナムナン・スタジアム認定スーパーライト級王座決定戦に挑ませた。試合はアビサック・KTジムに5回3―0の判定勝ち。日本人4人目の王者に就かせ、その後の初防衛も成功させた。
石井は「何度挑戦してもラジャのベルトを巻けなかった時に『また挑戦しよう。ラジャは俺の夢だから』と諦めないでずっとサポートしてくれた。自分がブレずに最高峰のベルトに向かって突き進めたのは藤本会長のおかげです。会長本当にありがとう」とSNSに感謝をつづっている。
柔道五輪金メダリストの吉田秀彦がプロ格闘家を目指した時、蹴りをチェックするためにジムを訪れたこともある。和子夫人は「ジムを閉鎖してから今までが一番充実していて幸せでした。孫とも遊べてたし、毎日家にいてくれましたから」と言う。それだけ仕事にうちこんだ人生だったということだろう。
新日本キックボクシング協会ではフェザー級王者小野寺力ら11人のチャンピオンを輩出した名伯楽。格闘技界に残した功績は大きい。合掌。(格闘技評論家=第1回オープントーナメント全日本空手道選手権王者)
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