『私は貝になりたい』(ドラマは1958年、翌年映画化)や『さらばラバウル』(1954)の脚本を書いた橋本忍は、1918年(大正7)生まれ。『私は貝になりたい』の原作とされる文章を書いた加藤哲太郎は1917年(大正6)。『さらばラバウル』(1954)の三國連太郎は1923年(大正12)。『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』のプロデューサーで後に東映社長になった岡田茂1924年(大正13)。この作品の脚本家舟橋和郎1919年(大正8)。
『戦争と平和』『暁の脱走』『さらばラバウル』『潜水艦イ-57降伏せず』(1959)などこの時代に数多くの戦争映画に主演した池部良は、橋本忍と同じ1918年(大正7)生まれである。池部は戦争中に招集された元陸軍中尉だった。中国戦線から南方へと転戦する途中で輸送船を撃沈され、10時間も泳いだ末に救助。つづいてはインドネシア島で米軍の猛攻撃を受けてジャングルの中で抗戦し、最後はオーストラリア軍の捕虜となって終戦を迎えるという壮絶な軍隊経験をもっていた。
『さらばラバウル』は、本多猪四郎と円谷英二のタッグが『ゴジラ』に先駆けて制作した作品である。
「さらばラバウルよ また来るまでは しばしわかれの涙がにじむ 恋し懐かし あの島見れば 椰子の木陰に十字星」
大ヒットしたこの戦時歌謡を下敷きにした物語で、公開時の宣伝ポスターには「南十字星燦めくラバウルの大空に 燃える清純の恋と灼熱の恋!」「海の大空に散った最後の戦闘機」とロマンチックな惹句がつけられている。しかし観てみると恋愛はどちらかといえば副次的な要素で、メインは日米の戦闘機乗りたちの空戦を描いた骨太なストーリーになっている。