第三十六話:死
精神力だけで、僕は立っていた。いつでも動けるような体勢を取ってはいるが、いざという時に本当に動けるのか全く自信がない。
目の前の男は真性の怪物だ。一体どのような手札を隠し持っているのかわかったものではない。
月明かりが照らす更地になった古城跡。風の音だけが聞こえる。
僕一人ならば間違いなく逃げ出していただろう。これまでも何度も死闘を繰り広げてきたが、目の前の怪物はそれらとは違う。
長き年月を生き延びた真性の怪物だ。条件は僕に圧倒的に有利だった。だから、罠に嵌められた。
いつもとは真逆だ。こいつは、僕よりも変異していないはずなのに、僕よりも強い。ボタンの掛け違いが発生していたら、負けていた。
必死に精神を落ち着ける。平静を保つ。
そして――右手に握っていた剣が離れ、地面に突き刺さった。
四方からジェットを串刺しにしていた血の柱が、コントロールを失い霧散する。
だが、ジェットは自由を取り戻してもそれ以上動く事なく、そのまま地面に倒れ伏した。
どうやら、セーブルから得た『
血を失いすぎて、頭がくらくらするし、そもそもこの力は完全ではない。
恐らく、心臓の抜けた身体から奪い取ったので中途半端にしか力を吸収できなかったのだろう。
そんな半端な力を、あの極限状態で発動し、ジェットに致命傷を与える事ができたのはまさしく奇跡のようなものだ。
だが、それでも勝ちは勝ちだった。
ジェットは既に力を失っていた。肉体のそこかしこに穿たれた傷跡は再生する気配もない。
元々変異には莫大な力を消費する。転生で消耗する力はどれほどのものか。
血の力がなければ吸血鬼は再生できない。記憶を保ったままアンデッドになった僕だって、センリがいなければあの森で死んでいた。
仰向けに倒れた虚影の王。その血のように赤い目は僕ではなく、空に浮かぶ月を見ていた。
その色の悪い唇がゆっくりと言葉を放つ。
「ああ、乾く……これが、乾き、これが、痛み、これが、飢え、これが――恐怖」
その声には驚くべき事には一切の後悔がなかった。それほどまでに、転生前の肉体は、不死の肉体は、彼にとって忌まわしいものだったのか。
死肉人として復活した時、僕にはあらゆる欲求がなかった。それでも僕は人間としての精神を持っていた。
だが、あのまま長く生きていたらどうなっていたかはわからない。
外的刺激はきっと人が人として生きるために必須なものなのだろう。
その目が月から、見下ろす僕に移る。
「まさか、我が、同じ死者に、敗北する日が、こようとは――」
趨勢を決したのは、仲間の有無だ。
センリ達が先に戦わねば、きっと僕の力はこの王に届かなかった。
瓦礫の下から感じていたアビコードの終わり。あの部下を残していれば、この王の終わりはこんなものではなかった。
「王とは――孤高」
虚影の王が掠れた声で言う。
「孤高にして……唯一の友は、敵のみ。若き王……死者は、何も残さぬ。だが――――持って行くが、良い」
それは、余りにも生き物とは隔絶した思考だった。その指先が震え、傍らに突き刺さる剣を示す。
寿命を持つ人はいずれ間違いなくやってくる死を想い子に何かを残す。だが、定命のない死者の王に残せる者はない。
だからきっと、死者の王が残す相手は自らを下した者のみなのだ。
その声には恨みはなかった。僕が同じ立場だったら呪詛の一つも吐くだろうに、それこそが恐らく目の前の王が悠久を生きた故の証なのだろう。
夜明けが近い。放置しておけば虚影の王は陽光を浴び、灰となるだろう。
ジェットを生かす道はない。この男は余りにも危険すぎる。
本当の死者のように横たわるジェットを持ち上げる。目と目が合うが、既にジェットの目は僕を見ていない。
「僕は――先に行くぞ」
「悲願は……果たさ、れた。ああ、この悦び……貴様も、いずれ、知る日が来よう」
その瞬間、僕は生前からずっと感じ続けていた死に対する恐怖を確かに忘れた。
首元に躊躇いなく牙を突き立てる。太古の王。僕の親の親のそのまた親が生きた時代よりも更に古きを生きていた王の力が流れ込んでくる。
死にかけのジェットの肉体にはほとんど血が残っていなかった。
だが、その魂に刻まれた力が、呪いが、新たにこの身に刻まれるのを感じる。
そして、虚影の王、ジェット・ヌーマイト・ブラクリオンは最後まで恨み言の一つも言わず、この世から完全に消え去った。
心臓がどくりと脈打つ。今更思い出したように全身に痛みが走る。身体がふらつくが、地面をしっかりと踏みつけ、耐えた。
意識が消えそうだ。強い熱を、飢えを、乾きを感じた。
ジェットは力が枯渇していた。だが、力が枯渇していたのは彼だけではない。
変異には莫大な力を消費する。センリから貰った血はもう残っていない。力を、使いきった。使い切らねば、負けていたのは僕だった。本当に、ぎりぎりだった。
血が――血が、吸いたい。今すぐにでも、新鮮な血液が。
倒れ伏すルフリー達を見る。ルフリー達はボロボロだった。祝福の力は枯渇し、意識もないようだ。
一番まずいのは――センリだった。慌ててセンリの近くに跪く。
予想した以上に酷い状態だ。心臓は動いているが、命が消えかけているのがわかる。生命力が枯渇している。
一刻も早い治療が必要だ。だが、アンデッドである僕に治癒魔法は使えない。
人里に――【デセンド】に…………運ばなくては。ここに放置すれば、間違いなく死ぬだろう。
血だ。血が――足りない。思考の奥で燻る炎が僕を飲み込もうとしているのを感じた。
それは恐らく、本能だ。かつて、僕が最初にセンリと森を旅していた時に感じていた欲求を数十倍にしたような血の魔物の本能。
真性の吸血鬼としての強烈な本能はきっと、以前の経験がなければ耐えきれないものだった。
ロードの声はもうしない。手を伸ばすと、ふと傍らに転がるルフリーが目を見開いた。
その目は焦点が合っていなかった。意識が朦朧としているのだ。
センリ程ではないが、ルフリー達のダメージも、短時間で回復できるようなものではない。
祝福のシールドも切れている。殺そうと思えば、いつでも殺せる。
ルフリーが声をあげる。
「センリの……血を、吸う、つもりか……怪物」
「…………」
言いたいことだけ言って、ルフリーの意識が落ちる。僕は視線を逸した。
思考だ。必要なのは、考える事だ。かつての確執のような無駄な事に意識を割く余裕はない。
篭もった熱が脳裏を焼いていた。身体は動くが、吸血鬼の力は既に使えない。
センリの血を吸うわけにはいかない。吸血とは力の吸収だ。死にかけのセンリから血を吸ったら、間違いなく殺してしまう。
放置することもできない。センリが死ぬ。
だが――夜明けが近い。感覚で天敵がすぐ目の前まで迫っているのがわかった。
今の僕ではかつて耐えられた日の出の光にも耐えられまい。
朦朧としてくる頭を必死に回転させる。
【デセンド】までは距離がある。おまけに周囲は平野だ。よしんば夜明け前になんとかたどり着けたとしても、身を隠す場所はない。
おまけにあの街は吸血鬼対策を万全にしている。負傷者を運んできたからといって、助けてくれるなどありえない。
刹那が悠久のように感じられた。
長く迷っている時間はない。
いや――迷いなどない。だが、覚悟が必要だった。
孤高の王は僕に全てを託し、永久の眠りについた。
だが、仮に死後の世界があるとして、自分を倒したはずの僕がすぐに同じ場所にやってきたらあの王は果たして何を想うだろうか?
§ § §
昔を思い出す。病床に伏し、痛みに耐え指の一本も動かせなかったあの頃を。
身体が重かった。背負ったセンリの身体――普段ならば片手で抱き上げられるはずのセンリの身体が重石のように感じる。
ぽたぽたと僕の肉体から、残り少ない血が地面を濡らす。
吸血鬼の怪力は死の力によるものだ。かつて読んだ書籍によると死の力は祝福と違って目減りしないはずだが、この重さはどういう事だろうか?
そんなくだらない事を考えながら、身体をただ前に動かした。
指先の感覚が、手足を動かす感覚が、少しずつ消えていく。背負ったぬくもりも、吸血衝動ももう感じない。感じている余裕などない。
そしてもちろん、死の恐怖も、もうない。
生かす。センリを助ける。かつて自身の生存に対して向いていた妄執は既に方向を変えていた。
平野には魔物がいるはずだが幸いな事に近寄っては来なかった。
野生動物は本能的にアンデッドを避ける。怪物で本当によかったと思う。
夜明けはこうしている間も着々と近づいていた。もう戻る事も、隠れる事も考えない。
転倒したら起き上がれないかもしれない。一歩一歩をしっかりと踏みしめ、前に進む。
不死者として復活して随分経ったような気がした。少なくとも経験の濃度については生前に体験したものの比ではない。
色々なものを見た。幾つもの激戦をくぐり抜けた。つらい事もあった。
だが、走馬灯のように脳裏を過る光景はセンリとの思い出ばかりだ。
いい思い出だった。最高の時間だった。僕はセンリがいるからこそ、人類の敵とならずに済んだのだ。
骨が、肉が、軋む。まだ太陽は出ていないが、空気は既に朝のものだ。身体が灰になろうとしている。
「!? ど、どうした!? 大丈夫か!?」
――そして、僕はなんとかぎりぎりで【デセンド】に辿り着いた。
深い堀、流れる水に囲まれた、吸血鬼を忌み嫌う都市。申し訳程度に銀をあしらった衛兵達が、ぼろぼろの僕達を見つけて駆け寄ってくる。
良かった。これでセンリは助かる。まだセンリの命は消えていない。彼女はまだ死んではいけない。
身体を支えられる、背中からセンリが離れる。最後までセンリは意識を取り戻さなかった。
視界に闇が差す。吸血鬼の目はあらゆる闇を見通すはずなのに、何も見えない。
何故か僕は、その闇に、恐怖ではなく深い親しみを感じた。
「お、おいッ!? 何があった!?」
身体が揺すられる。だが、既にもう遅い。
肉体の感覚が消える。耳も直に聞こえなくなるだろう。痛みはない。
もしかしたら、ジェットが最後に感じていたのもこれだったのだろうか。
僕は動かない喉を無理やり動かした。
「あ、と、ふたり、しろ――」
これが本当の終わりだと言うのならば、消失だと言うのならば、不死者というのも悪くはないだろう。孤独を感じないのはセンリを助けられた事に対する安堵だろうか。
陽光が来る。身体が消える。灰になる。
だが、大切な人は助けられた。
完全に意識が消える前に、僕は顔の筋肉を動かし、笑みを浮かべた。
次話で四章エピローグです。
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