第三十五話:虚影の王⑩
まるで生まれ変わったかのような気分だった。
先程まで魂を蝕んでいた痛みは既になく、夜の全てが僕の味方になったかのような、強い万能感が全身を駆け巡っている。
ロード・ホロスの術式は完璧だった。どうやら逃避行の間に蓄えた力はとうの昔に変異に至るだけの量になっていたらしい。
キーワードにより枷が外れた肉体は瞬く間に変異し、ずっと僕を苛んでいたセーブルの呪いを飲み込んだ。
そして、痛みさえなければ、動くのに支障はない。
目の前に王がいた。闇を思わせる漆黒の髪。がっしりした肉体は金属の鎧に覆われ、右手に太い金属の槍を握っている。
虚影の王。
転生前の力を受け継いでいるのか、死の気配はほとんど感じられないが、匂いから同胞だという事がわかる。
だが――位階的には僕の方が上だ。
陽光には未練がある。だが、いい。
僕の事は、もういい。今後の事も、考える必要はない。既に賽は投げられてしまった。
変異した事で新たに得た呪いの力が、魂の内で発露の時を今か今かと待ち望んでいた。
底しれぬ力を持つ、僕では勝てないセンリを倒して見せた虚影の王。
最大の敵を前に、僕は一切の恐怖を抱いていなかった。
これは、本能だ。
下位吸血鬼の時は抑えられていた、吸血鬼の持つ戦闘本能。僕が危険視していた、生者を殺し血を啜る闇の眷属の本能。
だが――思ったよりも大した事ないな。
僕はまだ、冷静だ。
センリが、僕を救ってくれたセンリが、身じろぎ一つせずくたりと地面に伏している。常に輝くような生命力を放っていた彼女がここまで弱るのは、いつかアルバトスに重傷を負わされた時以来だ。
一瞬強い衝動が湧き上がり、慌てて腕を離し額を押さえる。
解放された虚影の王が一歩後退る。
目から溢れ頬を流れていた液体は涙ではなく血だった。
否が応でも理解させられる。
万全ではない。急激な変異というのは、かなりの負担になるのだろう。
以前、ロードの魂を喰らい
今回はそれと比べたらまだマシだと言える。
その時とは違い、今の僕にはまだ戦うだけの力があるのだから。
「転生の術式には……複数の欠陥が、見つかった。だから、廃れた」
「なん……だと!?」
ロードの持つ知識が、少しだけ浸透している。
こちらを警戒している虚影の王の双眸が見開かれる。
そして、僕はその一瞬で、拳を振り抜いた。
手の平が空気を貫き、音を置き去りにする。
完全に不意をついた突きに、虚影の王は恐ろしい反応速度を見せた。
槍を振り回し、拳に合わせる。折ったはずの腕はとっくに再生していた。
だが、半端なアンデッドが今の僕の攻撃を受け止められるはずがない。
呪いとは力である。吸血鬼は強力な弱点を抱えるが故に、隔絶した力を持っているのだ。
受けた太い槍がへし折れる。肉を潰し、骨を砕く感触が、全身に形容し難い歓喜を伝える。
時間が止まった。虚影の王の鎧が砕け、肉が歪み、激しく地面にぶつかりバウンドするのが、はっきりと分かる。
これが、噂に聞く、映写機のコマ送りというやつだろうか?
ああ、暴力は嫌いだが――最高の気分だと評さざるを得ない。
本能が喜んでいる。僕を蝕む呪いが喝采している。
虚影の王がバウンドの途中で受け身を取り、瞬時に新たな槍を生成し地面に突き刺す。
地面が削れ、一筋の深い線を描く。王がようやく制動に成功した時には、彼我の距離は十数メートルも離れていた。
虚影の王が立ち上がる。砕けた鎧が再生し、潰れほぼぶら下がっているだけだった手足が瞬く間に元に戻る。
下位吸血鬼。間違いないだろう。僕が先程まで在った位階だ。
攻撃を受けたにも拘らず。虚影の王の意識はこちらにはなかった。ただ呆然と呟く。
「欠陥……だ、と?」
アビコードが集めていた死の力は膨大だった。
恐らく、彼の想定ならば最低でも吸血鬼には転生できていたはずだったのだろう。下位吸血鬼というのはデメリットだけ背負い特殊な能力を使えない半端者だ。
彼は知らない。教えてやらない。それは、転生術式が遥か昔に廃れた理由の一つ。
お前は、自分が失敗した理由も知らずに、滅ぼされるのだ。
一滴の血も飲まずに、真性の
虚影の王が地面から一振りの剣を生み出す。大地の魔法だ。
かつて魔術師が生産の中核を担っていた時代があった。大地の魔法の使い手は金属を精錬しその加工において他の追随を許さなかったらしい。
僕が生まれるよりも遥か昔だが、恐らく彼はその時代の術士だったのだろう。
虚影の王が漆黒の剣を振り、壮絶な笑みを浮かべる。だが、その双眸は酷く真剣だ。
「若造。吸血鬼には魔術は効かぬ。だが、我が術は違うぞッ!」
僕はセンリと虚影の王の戦いを見ていない。
だが、その言葉でどうしてセンリが破れたのか理解した。
どうやら、王の名は伊達ではないようだ。だが、逃げないのならばそれはそれで都合がいい。
鉈はどこかに行ってしまった。だが、武器などいらない。
彼我の位階の差を理解していながら尚不遜な態度を崩さない王に宣言した。
「ああ……ご老人、お前は一度負けたんだ、いくら不死者でも往生際が悪すぎる。今度こそ墓に叩き込んでやるよ」
みしりと腕から音がした。右腕の骨が音を立てて変化し、一振りの槍と化す。
夜明けまでに決着をつける。人の恋路を邪魔するやつは死んでしまえ。
§
その攻撃は僕にとって完全に未知だった。
復活したばかりとは思えない、恐ろしい力だった。
虚影の王が槍を地面に突き立てれば大地が隆起し、数言呟けば嵐のような礫が降り注いだ。
何もない瓦礫から無数の槍が、剣が生成され、射出される。
古城を完全に崩壊させたのは間違いなくこの力だ。
まるで天変地異だった。
大地の魔法。僕の知識の中では便利な補助的魔法だったはずのそれも、どうやら卓越した術者が操れば強力な攻撃になるらしい。
轟音の中、虚影の王の笑い声が響く。
「これはどうだッ! これは、これは、これはッ! はぁっはっはっはッ!」
絶え間ない連続攻撃を可能にしているのは、身の毛もよだつような膨大な魔力だ。
魔力とは祝福とも血の力とも異なる力だ。
生前、寝たきりだった僕は定期的に回復魔法による治療を受けていた。
センリとの逃避行の最中、誤って傭兵から攻撃魔法を受けた事もある。
だが、目の前の王の行使する力はそれらとはまさしく隔絶している。
この力を前にすれば有象無象の傭兵が何人いても相手になるまい。
とてもセンリとの激戦の後とは思えないが、僕の目には無限にも感じられる魔力のカラクリが一目でわかった。
大地から、力を、魔力を吸い上げ、行使しているのだ。
もともと吸血鬼という種は強力な魔力を誇るというのに、これでは対魔術師戦闘の基本である魔力切れを狙うのは難しい。
――まぁ、元々、持久戦など狙うつもりは毛頭ないが。
襲いかかってくる膨大な質量に向けて、躊躇いなく駆け出す。
揺れる地面を踏み抜き、刃に切り裂かれるのも構わず、進行の妨げになる巨大な瓦礫だけを骨の槍で粉砕し、ただ前に進む。
地面に突き出した短剣が脚を貫き、細かい礫が身体を打ち抜く。
全身に走る鈍い痛みは、すぐに戦意に飲み込まれた。
ああ、最高の気分だ。
確かに大地の魔法は吸血鬼にも通じるようだ。だが、甘い甘い甘い。
僕は――怪物だ。人間ではない。こんな生半可な攻撃で防げるものかッ!
ダメージなどすぐに癒える。注意すべきは銀による攻撃と心臓を貫かれる事だけ。
だが、どうやら退魔の金属である銀は虚影の王には生成できないらしい。
心臓についても意識して防御・回避すれば問題はない。
痛みを受ける覚悟は既に済んでいる。
十数メートルの間合いなど吸血鬼にとってはないも同然だ。
一瞬で守りを踏破する。隠れたって無駄だ。
吸血鬼の目には魔力が見える。匂いだってわかる。ここまで膨大な魔力を使って、その源を辿れぬ訳がない。
僕の知覚能力はここに至り、最高潮に達していた。
死角から放たれた斬撃を、骨の槍で受ける。虚影の王が舌打ちをした。
「貴様ッ…………死兵か!?」
「ああ。もう死んでるよ」
埒が明かないと思ったのか、虚影の王が更に踏み込んでくる。
接近戦もできるのか!?
奇妙な足運びだった。重心移動が不自然だ。人間の可動域ではないとかそれ以前に、物理的に気持ち悪い。
だが、すぐに違和感の正体に思い当たる。
こいつは以前の僕と同じ下位吸血鬼だ。特別な力を持たない、吸血鬼の蛹だ。ならば、その攻撃も己が培った力に頼っているはずである。
となると、答えは一つ――この奇妙な動きは、大地の魔法によるもの。
恐らく魔術で足をつけた地面の方を動かしているのだろう。
虚影の王の動きは一朝一夕で身につくようなものではなかった。足も動かさずにぬるりと動き、センリの攻撃速度をも越えた神速の斬撃が放たれる。
退路を、新たに生えた壁が塞いでくる。
僕は鼻を鳴らし、一撃必殺の威力を秘めた真っ直ぐな斬撃を、骨槍で弾いた。
虚影の王の目が見開かれる。再び位置を変えて放たれたそれを更に受ける。受ける、受ける。
何度も捌き続けると、虚影の王の表情が動揺に歪んだ。
何故当たらないのかわからないのか?
余りにも哀れだ。かつては最強だったのかもしれないが、今はそうではない。
「素人だ。お前の斬撃は、所詮力づくだ」
「ッ!?」
魔術を入り混ぜた戦闘技術は見事だ。人間相手ならば問題ないだろう。
攻撃をいなすのに慣れた終焉騎士でも圧倒できるかもしれない。
だが、動きがいくら速く予測しづらくても――剣の腕自体は大したことがない。
同等以上の身体能力の持ち主相手に、しかもセンリとの模擬戦を幾度となく繰り返した僕を相手に、剣とも呼べない剣で挑もうなど愚の骨頂だ。
何度も何度も、指南を受けた。センリから笑われ、叱られ、呆れられ、終焉騎士の戦い方を身体で学んだ。
結局、僕の戦い方は最終的に身体能力に頼ったものに落ち着いたが、受けた教えは確実に僕の中にある。
剣を強く弾き、攻勢に出る。
一歩踏み込んだそこで、互いを囲んでいた壁――バトルフィールドが砕け散った。
接近戦の不利を悟ったのか、後ろに下がる虚影の王を追う。
勝機だ。今更見込み違いに気付いてももう遅い。
虚影の王が小さく何かを呟く。
地面から唐突に突き出した無数の槍を、僕は軽く跳んで踏み越えた。
宙を舞う。虚影の王の目が大きく見開かれる。
恐ろしい魔法だ。魔術師の弱点と呼べる詠唱時間がほとんどない。
だが、僕の目には魔力が見える。どんな攻撃が来るのか大まかにでもわかっていれば、どんな奇襲でも回避は難しくないのだ。
既にその攻撃は見切った。これまでの死闘の経験が僕に最適な動きを教えてくれる。
「くッ……」
虚影の王が圧されたように後ろに下がる。そのせいで、上空から突き出した骨槍の先は、虚影の王の頬を浅く切り裂くに留まった。
柔らかいものをえぐった感覚が手に痺れるような心地よさを残す。
初めて、虚影の王の表情が歪んだ。
与えたダメージは致命傷とは程遠いし、傷跡はすぐに回復するが、確かに一撃与えてやった。
吸血鬼の再生能力は僕自身体験して知っている。吸血鬼同士の戦いはどちらかが力尽きるまで泥沼の殴り合いだ。
――本来ならば。
「わからぬ。何故、同じ死者の身で、そこまでの変異を遂げ、人間を助けるのに身を削るのか?」
虚影の王が大きく距離を取る。魔術師の間合いだ。
僕は追わなかった。逃げられたら面倒だが、虚影の王は全力で殺しに来るつもりだ。僕の一撃はきっとやつを本気にさせた。
そして、だがどうやら、やつは人質を取るつもりはないようだ。
相手が人間だったらいくらでも汚い手は使うが、同じ吸血鬼相手ではプライドが邪魔するといったところだろうか?
魔術の力で隆起した地面。平たい大きな瓦礫の上に足を掛け、目を細める。
「身を削る……? まだ、削ってない」
削るとは――こういう事だ。
硬質化し槍状に変化した右腕を、左腕でつかみ、根本から一息にねじり切る。ぐぎりと嫌な音を立て、鈍い痛みとともに感覚が欠損する。
虚影の王が瞠目する。そして、握った右腕が――燃え上がった。
「!?」
僕は強くなった。下位吸血鬼と貴種吸血鬼では使える力の幅が違う。
新しい力をこの強大な王で試用するのは余り気が進まないが、これはこれまでの力の応用だ。
漆黒の炎――呪炎で焼かれ、尚右腕は形を保っていた。
本体と切り離されても力を失っていない。塵に帰っていない。
セーブルは心臓を抜いても尚動いていた。ならば、今の僕に同じことができないわけがない。
物理的に繋がってはいなくても、呪術的な繋がりは途切れていない。
既に切り離されているが、血の力が右腕に通っているのはわかる。武器にするには十分だ。
硬質化した右腕の槍を大きく振りかぶる。虚影の王が叫ぶ。
「本気かッ!?」
ああ、そうだ。今更だが、もう一つ、目の前の王の言葉には誤りがあった。
僕が行動を起こすのは、人間を助けるためではない。センリのためだ。
後々にどんな結果が待っているのか知りつつも、見返りを求めず助けてくれたセンリのために、僕は見返りを求めずに戦うのだ。
理解してもらおうとは思わない。
瓦礫を勢いよく踏み抜くと同時に、槍を投げ放つ。
虚影の王と僕の間に瞬時に幾重もの壁が生み出される。だが、吸血鬼の力で放たれた燃える槍は分厚い壁を紙切れのように貫通した。
人食いから奪い取った力――纏った呪いの炎が貫通した壁をドロドロに燃やし尽くす。
吸血鬼でも致命傷を免れ得ない渾身の一撃。
それに対して、虚影の王が取った行動は、『回避』だった。
虚影の王が跳ぶ。数瞬前まで王がいた場所に、骨槍が突き刺さる。
瓦礫が爆発のように弾け飛び、地面に大きな穴が空く。止まって尚、漆黒の炎は消えていなかった。
小さなクレーターの中心に突き刺さった槍を見て、虚影の王が呆然と自分の手の平を見る。
「馬鹿……な……この虚影が――如何に捨て身の攻撃とはいえ、新米の王相手に、回避、だと!?」
舐められていたのか? いや――違う。
恐らく、彼ら、死者の王の存在理由の中核にあるのは、『力』なのだ。
ロードは終焉騎士の接近に勘付きつつも逃亡を選ばなかった。古城でアンデッドをけしかけてきた死霊魔術師だってそうだ。
彼らは強さを求め続けた。理由はどうあれ。
そして、その結果、死を克服し、長く戦い続け王と怖れられた。
虚影の王は終焉騎士団に敗北した。だが、その自負は欠片も変わっていない。
よほど衝撃的だったのか、虚影の王が顔を歪める。
「あり、えぬ……」
いや、あり得るんだ。お前は絶対にここで殺す。
この耐久――時間を与えれば相手の不死性は手のつけようがなくなる。
失った右腕――右肩の断面が、鈍い痛みを訴えかけている。
ねじり切り投擲した右腕が再生しない。
元右腕の骨槍はまだ地面に突き刺さったままだった。
思い返せば、僕が血を吸ったセーブルに心臓はなかった。
吸血鬼にとって心臓は最重要器官だが、決して再生しないわけではないのに、失われたままだった。
あの時は疑問にすら思わなかったが、今ならわかる。
セーブルの心臓が再生していなかったのは――どこかに隠した心臓と呪術的な繋がりが残っていたからだ。今の僕と同じように。
考えるのだ。頭を回転させるのだ。
身体能力はこちらが上、経験は向こうが上、おまけに魔術まで使いこなしている。一見押しているようには見えるが、動きを止めねば切り札も使えない。
どうしたら、こいつを殺せる?
そこで、虚影の王が顔をあげた。かつての僕も持っていた血のように赤い瞳。
出てきた声はこれまでとは違い、厳かなものだった。
「認め、ざるを、得ぬようだ、昏宮。貴様は、強い……もしかしたら、今の、この、虚影――ジェット・ヌーマイト・ブラクリオン、よりも」
魔術師にとって名前とは重要だ。
かつて、ロードが僕を名付けで縛ろうとしたように。そして、故に彼らは決闘を挑む際に名前を名乗る。
虚影の王――ジェットの表情には平静が戻っていた。
怒りも悲しみも押し殺し、一言宣告する。
「貴様を殺す。古きより君臨せし我が虚影の名にかけて」
意識が切り替わるのを感じた。
先程までの虚影も間違いなく僕を警戒していた。全力だった。
だが、命を賭けてはいなかった。次の彼はきっと、死ぬ気でくる。
表情が自然と強張った。先程までは恐怖など欠片も感じていなかったはずのに……だが、逃げるわけにはいかない。
自分を奮い立たせる。強張った表情を笑みに変える。
僕には守る者がある。彼にはない。これは、大きな差だ。
胸を張るのだ、エンド・バロン。
アルバトス戦では守られる側だった。
ライネル戦も成り行きとは言え、発端は己にあった。
これまでの僕はずっと自分のために戦ってきた。だが、今回は違う。
今回の僕は、愛する人のために、人間のように戦うのだ。
大丈夫、勝てる。いくら死ぬ気になったって、能力が大きく変わるわけじゃない。
右肩の断面を押さえ、精一杯の殺意を込め、睨みつける。
残された左腕を剣に変形させる。僕は名乗りを上げなかったが、ジェットの表情は変わらなかった。
恐らくそれは彼にとっての一種のスイッチのようなものだったのだろう。
「乾くのだ。喉が渇く。ああ、貴様には長く欲求を失った者の心はわかるまい」
わかるさ。
大地から、力がジェットに吸い取られていく。
瓦礫が砂と化し、膨大な魔力が一箇所に集約していく。
その魔法はこれまでとは明らかに趣が異なっていた。
闇が形を成した。その手の中に生み出されたのは、一振りの美しい水晶の剣だった。
一目でその剣の込められた力がわかった。透明感のある磨かれた刃は闇そのもののように漆黒で、周囲の死の力を吸い込んでいる。
恐らく、それこそが大地の魔法の奥義。ジェットの口の端から一筋の血が流れる。
再生能力が働いていない。血の力が枯渇しかけている。
ジェットが軽く剣を振る。その刃は闇を切り裂き、大気を切り裂き、地面を深く切り裂いた。
余りにも馬鹿げていた。おぞましいまでの切れ味。きっと骨の剣でも受け止められまい。
「黎明の剣。知らぬだろう、これこそが我が時代にも廃れていた叡智よ。ゆくぞ――王」
黎明。夜明けを意味する単語。あまりにも吸血鬼が使うにはふさわしくない剣だ。
ジェットが踏み込んでくる。弱っているはずなのに、その一挙一動は先程までと遜色ない。
もう他に魔法は使っていないのに、プレッシャーは先程よりも遥かに上だ。
たかが剣などと楽観的に考える気にはなれなかった。左腕の剣をより長く変形させる。
大きなリーチの差。先に切っ先が届いたのはこちらだった。横薙ぎに放った一撃を、ジェットが剣で受ける。
衝撃はほとんどなかった。並の金属をも遥かに超える尖爪の剣が、音もなく切断された。
予想はしていたが、恐ろしい威力だ。後ろに下がると同時に、ジェットがさらなる踏み込みをかけてくる。
連続で放たれる斬撃。水晶の剣の剣身は、鏡に映らないはずの僕の顔をはっきり映していた。
呪炎を吹きかける。地面を蹴り上げ視界を阻む。だが、ジェットの進撃は止まらない。回避も防御もせずに踏み込んでくる。
壁や礫など小手先の技術は使っていないのに、その攻撃は少しずつ、だが確実に僕の肉体を刻み始めていた。
先程とは比較にならない鋭い痛み。僕は確かに、刻一刻と迫る死の足音を聞いた。
僕が臆病になっているわけではない。相手の踏み込みが大胆になっているのだ。魔法による援護を諦め全能力を剣に掛けている。
くしくもそれは、僕が先程、虚影の王にやった戦法と同じものだった。
確かに存在するはずの身体能力の差はここに至って意味をなしていなかった。
相手は乾いている。だが、たとえ今すぐ干からびても、ジェットは攻撃をやめないだろう。
踏み込み押し返す隙すら存在しない。
今の僕はこれまでとは違い、吸血鬼の力を使えるはずだ。だが、相手はそれを知っている。
極限状況の中、僕が選択したのは、ずっと練習していた魔法だった。
センリが買ってきた生活魔法の指南書を読んで覚えた魔法だ。いつか使えるだろうと、思っていた。
吸血鬼の弱点は知っている。剣が脇腹を深く切り裂く。僕は唱えた。
「クリエイト・ウォーター」
「!?」
空気中から僅かな水を生成する、ごく初歩的でありふれた魔法だ。
だが、そんなあると便利程度の魔法も僕が使えば十分な攻撃手段となる。
空気が一気に乾く。抽出された流れる水はジェットに襲いかかり――そして、地面から盛り上がった大量の土に飲み込まれた。
「阿呆が。術で我に勝てるものか」
「ッ!?」
上書きされた。呪文を唱えるのはこちらの方が先だったのに、追いつかれた。
ミスを悟る。だが、後悔する間もなく、激痛が、全身を走った。
体勢が崩れる。否――足が、切り裂かれていた。
崩れ落ちる僕に、その刃が容赦なく襲いかかる。
肉体の感覚が一気に分断される。どこを、何度切られたのかも全くわからない。
気がつくと、僕はジェットを見上げていた。
身体が――動かない。いや、身体が――ない。
まだ心臓と脳は無事のようだが、さすがに身体の大部分を切り離されると再生には時間がかかる。
ジェットも満身創痍だった。青白かった顔色は既に土気色に変わり、その目が狂気的な光を帯びている。僕の上に立つと、水晶の剣を逆手に持つ。その切っ先は僕の頭蓋に向けられている。
「ふぅ、ふぅ……なかなか、やる。だが、終わり、だ」
「同じ、吸血鬼として、勧誘とかは、ないの?」
一縷の望みを掛けた問いに、虚影の王は眉を顰めた。
「あるわけなかろう。貴様は、受けん」
よく、わかっている。どうやら戦闘の僅かな時間で、彼は僕を深く理解したらしい。
立てない。剣も持てない。どうやら四肢が切り離されているようだ。動けない。再生も間に合わない。僕は藻掻くのを諦め、力を抜いた。
恐る恐る要求する。
「最後に……言いたいことが、ある」
「…………言ってみろ」
命乞いではない。センリを助けて欲しいとも言わない。言ったってどうせ聞かないだろう。
頭がくらくらする。僕は覚悟を決めると、最後になるかもしれない言葉を言った。
「わんわん」
「……何だと……ッ!?」
遠吠えが聞こえた。見下ろしていた虚影の王の腕に、漆黒の炎に包まれた犬が齧りつく。
先程、切り離したままだった僕の右腕だ。
のしかかる燃える黒犬。思わぬ奇襲に動揺した虚影の王が転倒する。
僕が変身するものは犬であって、ただの犬ではない。
出来ると、思っていた。
真性の吸血鬼は大量のコウモリに姿を変えると言う。僕は顔だけを犬に変えた。
ならば、切り離した右腕だけを犬に変えるのはその応用だ。
炎が虚影の王の鎧を焼く。絶叫が月夜に響き渡る。
いくら死ななくても、初めての呪炎は苦痛だろう。
賭けに勝った。
その隙に力を集中し、犬として頑張っている右腕を除いた肉体を再生し、立ち上がる。
痛みから立ち直ったのか、僕の忠実な右腕を斬り殺した虚影の王が立ち上がる。
怒気が、感情が、叩きつけられる。
「く、くだらぬ、手品、だ」
犬が死んだおかげか、右腕が再生する。
確かに、くだらない手品だ。だが、リズムは戻った。少しだけ落ち着いた。
ジェットが先程よりも更に激しく切りかかってくる。
烈火の如く連続で放たれた攻撃を、僕は構えもなく受けた。
刃が僕の肩をぎりぎりで捉え損ない、腹にぎりぎりに届かず、大きな横ぶりに全身が吹き飛ばされる。
だが、当たってはいない。
ジェットの表情が引きつり、さらに踏み込んでくるがもう無駄だ。
知らないのか? これは――アビコードが使っていた、回避の術だ。
魔力を感じ空気の流れに逆らわず、まるで柳のように攻撃を受け流し回避する術。
如何に強力な武器でも、異質な切れ味を誇っていても、当たらなければ意味がない。
見様見真似だが、それなりにうまくいっただろうか。
思うに、虚影の王は無敵だったのだ。無敵の肉体を持っていたからこそ、回避の術をほとんど知らない。僕の攻撃が命中したのがその証左である。
後方に分厚い金属の壁が生える。ジェットが盛大に血を吐き出す。
不死のはずの肉体が悲鳴をあげているのだ。無理もない。
血を一滴も吸わずにここまで戦えるなど、普通はありえない。恐ろしい執念だ。
そして、僅かな違和感からすかさず回避のカラクリを見破った洞察力。
周辺の大地から一切の魔力の気配が消えている。瓦礫や土が、魔力を失った副作用なのか細かい砂に変わり、舞い上がる。
恐らく一時的な枯渇だろうが、この壁が最後の魔法だろう。
もはや言葉を放つ余裕もないのか、虚影の王が遮二無二踏み込んでくる。
疲労で無駄がなくなったのか、その足運びは、佇まいは、最初の攻撃と比べ酷く洗練されている。
最強の剣から、最強の一撃が放たれる。
片や僕は退路を絶たれ、いつも共にあった『光喰らい』すらない。
ただ、ひたすらに集中する。
風景が、振り下ろされる刃がスローモーションで流れる。
歪んだジェットの表情。その双眸の奥に燻る、満たされた戦闘本能から来る喜びまで全てが見える。
そして、その刃が僕に至るその瞬間――虚影の王は四方から発生した血の柱に全身を貫かれた。
表情が歓喜のまま凍りつく。右手に握っていた剣が離れ、地面に突き刺さる。
完全に不意をついた。血の杭は全身を貫き、首を、心臓を、完全に捉えている。
「言い、忘れていた。僕にも、力が、あるんだよ」