75年前の8月23日。2ページしかない朝日新聞(東京)朝刊に小さな記事が載った。
「けふの天気(二十二日十七時中央気象台発表)【関東地方】北東の風、曇り勝で山岳方面ではなほ驟雨(しゅうう)がありませう」
3年8カ月ぶりの天気予報だった。太平洋戦争の間、気象情報は作戦遂行上、重要な軍事機密として公表が禁じられた。敵国への流出を防ぐため、徹底した管理の下に置かれた。
明日が晴れか雨かはもちろん、気温や気圧、降水量なども禁止の対象だった。戦況を有利に運ぶために日々のくらしに欠かせない情報も秘す。当時の国民はそんな社会に生きていた。
■危険伝えられぬ無念
真珠湾攻撃があった41年12月8日。中央気象台(気象庁の前身)の藤原咲平台長は、陸海両軍から命令を受けた。
「18時より全国に気象報道管制を実施すべし」
元気象庁気象研究所研究室長の増田善信さん(96)は、その日のことをよく覚えている。
京都府宮津市の観測所に勤務していた。所長以下6人の職場だ。当直の夜、天気図に風向や風速などを書き込むため中央気象台の無線を受信しようとしたら、意味不明の文字列が流れてきた。所長に報告すると、金庫にあった乱数表を渡され、解読しろという。以来、扱う情報は原則として暗号になった。
宮津には漁港がある。出漁前の漁師に海がしけることすら伝えられない。冬の日本海は天候が急変する。「今日は天気が良いけど、明日はどうかね」。そんな言い方で何とか注意を喚起しようとしたという。
軍の手で観測網は拡大していた。気象庁編「気象百年史」によると、ハワイ近海の風向やマレー半島沖の季節風の強さなども調べている。一方、米軍は米軍で日本周辺の観測を独自に進め、精度の高い情報を得ていたとされる。国を挙げての統制だったが、本来期待した効果はほとんどなかったとみられる。
■掘り起こされる災害
42年8月、猛烈な勢力の台風が西日本を襲った。死者・行方不明者1158人を出した周防灘台風である。サイパン島沖で発生した台風はいったん長崎に上陸した後、日本海へ抜けて27日に山口県に接近した。夜半に周防灘の沿岸で高潮が発生。満潮時と重なったこともあり、全半壊家屋が約10万戸にのぼる甚大な被害をもたらした。
前日に特例で暴風警報の発表が許された。だが「高潮の恐れあり十分な警戒を要す」といった簡単なもので、台風の位置や進路に関する情報はなかった。多くの人が異変に気づく間もなく海水にのみこまれた。
戦時中の「秘密気象報告 第6巻」には、この中途半端な警報を含む中央気象台の痛恨の検証結果が記載されている。
44年12月7日には東海地方を大地震が襲う。マグニチュード7・9の昭和東南海地震だ。
愛知、静岡、三重を中心に激しく揺れ、家屋、軍需工場などの倒壊や津波で死者は約1200人を数えた。この情報も秘匿された。日本の戦争遂行能力を敵国に推認させることにつながると危惧されたためだ。
その結果、写真をはじめ残された記録は少ない。戦後に調査した中央防災会議は、45年1月に愛知県などで約2300人が亡くなった三河地震とともに、「隠された地震」と呼んだ。
30年以内に起こる確率が70~80%とされる南海トラフ地震への備えを考えるとき、この二つの地震の実態を知ることは不可欠だ。同会議や大学などの研究によって、建物倒壊の分布や津波が及んだ範囲などが、七十数年の歳月を経て、少しずつ明らかになろうとしている。
■「人貴きか物貴きか」
大きな風水害や地震が頻発するいま、事前事後を問わず、情報が隠蔽(いんぺい)されたらどうなるか。市民の安全や防災への配慮を後回しにする政治・社会を、再び生み出してはならない。
人貴きか、物貴きか――。10万人が亡くなった45年3月の東京大空襲の直後、貴族院議員大河内輝耕(きこう)は議会で、空襲にあっても避難せずに火を消せと命じる当時の防空法の非人間性に疑念を呈し、政府の考えをただした。だが秘密会だったため、そんなやり取りがあったと国民が知ることはなかった。
国への忠誠と奉仕を強い、生きている個々の人間には目を向けない。それが戦争だ。
宮津で苦い体験をした増田さんは44年海軍に入り、翌年、島根・大社航空基地に赴任。南方に出撃する航空機の操縦士らに予報を伝える任務に就いたが、ほどなく終戦を迎えた。コロナ禍のこの夏も講演に招かれ、せっかくの観測結果を人々の平和な生活に生かせなかった当時の苦悩を語る予定だ。
他の学問同様、軍事研究の一環として気象関係の技術や知見が深まった面はある。だがその果実である天気予報は、一人ひとりの命を守るために使われてこそ意味がある。その当たり前のことを改めて胸に刻みたい。
トップニュース
速報・新着ニュース
あわせて読みたい
PR注目情報