シュン

2020年06月19日(金)

終戦の年の日記。1945年、広島で中学1年生だった新井俊一郎さんの日記原文です。1945年6月13~19日

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もし75年前にSNSがあったら、当時の人はどんなことをつぶやいていたでしょう?
NHKでは、終戦の年(1945年)に広島で書かれた日記をもとに、75年前の暮らしをTwitterで毎日発信中です。
当時13歳の中学1年生シュンちゃん。75年前の今日は、どんな日だったのでしょう?
https://twitter.com/nhk_1945shun

毎日のツイートは、新井俊一郎さんが75年前に書いた日記や手記、本人へのインタビューなどをもとに、現代の広島の10代が作っています。
このブログでは、もとになった新井さんの日記の原文をご紹介。
ツイートのタイミングにあわせて毎週更新しています。
ぜひ、当時のご本人の生の言葉にふれてみてください。
公式HP https://www.nhk.or.jp/hiroshima/hibaku75/timeline/

6月13日(水) 曇り後、雨
 中間考査は、昨日にて終了せり。本日より吉島飛行場に作業をするため出動す。雨が朝方、少し降りたるため勉強の用意もせり。しかし、晴れたるため作業す。飛行場まで「学徒動員の歌」を歌ひつつ行進す。作業は畠作りなり。
 飛行機は、滑走路に並列してあり。直ちに作業開始す。しかし、我々の大力により、さほど労力と時間を掛けずに終了す。のち、相撲を行なふ。遂に我等北組は敗北の運命を喫したり。残念、無念!菓子の配給あり。有り難くいただく。のち、雨中を帰宅す。

6月14日(木) 晴
 飛行場作業には、我々は喜びと感激と希望に燃えて居た。そして早く来いと指折り数へて、といふやうにして待ってゐただけあって、大いに成果が挙がった。本日の作業は、ウネに肥料をやる作業である。朝の飛行場目指しての行進は、非常に良かったと田中教官は批評された。今日も仲々張り切って行なった。
 昼食後、敵機来襲の恐れありしため早く作業中止し、門外にて解散せり。市中生徒も来てあり、修道中学も来てゐた。帰宅後、畠に行く。

6月15日(金) 雨
 本日は朝から雨の降りさうな気配がありたるが、確かに降雨となり、朝のうちは警報が出て帰へったので、四時限より授業あり。実際、敵のB29の奴は、我々日本国民の神経を堅くしやうといふので、毎日、決まったやうに来襲する。おかげで我々の勉強は、よほど遅れてゐる。B29の奴め、こんど来たら承知せぬぞ!

6月16日(土) 晴
 我々は、今日も勤労作業に出動した。それは、県内〇〇村に行き、そこで軍の〇〇作業を行なふためである。朝早く広島駅に集合し、汽車に乗って〇〇村へと行った。暗いカンテラの光の中で熱汗を流しつつやった。実に草臥れた。秘密のことなので作業のことは以上しか書けない。午後四時半、汽車にて帰宅。

6月17日(日) 晴
 日曜日とても、かくのごとく情勢の悪化したる今日では、安閑として遊んでゐて良いものであらうか。日曜日などは月に二、三回あれば十分、いや十二分である。本日はこのやうな意味のもと、授業日であるので学校にて学べり。
 このやうに沖縄の戦局が重大化してゐるのに、このやうに勤労作業がありながらも学べるのは真に有り難いことである。我々は、心より陛下と勇敢なる陸海の勇士に感謝しつつ学んだ。

6月18日(月) 晴 国葬
 ああ、関院元帥宮殿下、遂に永遠の眠りにつかせられた。明治、大正、昭和の三代も陛下にお仕へ申し、遂に永久の眠りにつかせられたとは。陸軍の長老であらせられた。
 本日、故関院元帥宮殿下の国葬が厳かに取り行はれた。殿下の御英魂は、豊岡に神鎮り給ふ。この最大時局に、勝利の日を待たで……。なんといふ悲しい事であろう。しかし、この事について何時までも国民が悲に沈んでゐたら、決して殿下はお喜びにならないであらう。この上は、殿下をお慰さめするためには、ただ一つ、米英撃滅あるのみである。
 我等は本日、国葬日であるのにも護国神社・基町の軍の倉庫に作業に出動した。これは建物の材料倉庫である。一心に働いて帰宅する時の気持ちといったら……。

6月19日(火) 晴
 今朝の新聞に、昨日の国葬の有様が詳しく出てゐた。これを見ると又、新たな悲しみに胸が一杯になるのである。また、沖縄の戦局は次第に困難になってゐる。本日、英語の試験あり。A、B、Cなどの書き取り、意味等なり。その時にまたサイレン。警戒警報である。又やって来たのかヤンキーめ。サイレンの音を聞くとき、自分は限りない憤りをおぼえる。