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賀茂斎院の謎 お姫様の名前とお邸の名前

 2020/08/07(Fri)
 ここしばらくまた賀茂斎院サイトの資料集めとデータ整理に追われていましたが、一区切りついたところで7月に一度更新しました。今回『山槐記』と『玉葉』その他の記事を追加したので、これで式子内親王関連の史料はほぼ入力完了です。取りかかる前は『明月記』の方が大変そうな気がしていたのですが、『明月記』は記事の数こそ多いものの中身はそれほど長くないので案外手間もかからず、逆にとんでもない長文の『山槐記』の方が(史料としては非常に貴重なのですが)恐ろしく大変でした…
 なお本当は頌子内親王の蓮華乗院関連のデータもまとめてアップしたかったのですが、他の斎院とはちょっと分野の異なる内容ということもあって、7月時点では間に合いませんでした。というわけで、頌子に関しては比較的調べやすかった五辻第の件のみ先にアップしています(もっともこれはこれで、角田文衛大先生のおかげで却ってややこしくなってしまいましたが。苦笑)。

 さて、今回は和歌関連もちょっと追加しましたが、久しぶりに斎院と「お名前」に関する話です。
 以前伊勢斎宮絡みの話題で、そもそも昔の女性の名前は正しい読み方(訓読み)が殆どわかっていないということを書きましたが、賀茂斎院もその例に漏れず、歴代35人の中で確実な読みのわかっている人物は一人もいません。ただ最近になって、式子内親王研究者の奥野陽子氏が、著作『式子内親王』(ミネルヴァ日本評伝選, 2018)の中で大変面白い指摘をされていました。

 時に建久2年(1191)、摂政九条兼実がその日記『玉葉』に女叙位についての記事を書いていますが、この中に「押筆申云、則子与範子<前斎院云々、>雖字異訓同如何、余(九条兼実)云、於女名者不憚同訓歟」というくだりがあります。漢字ばかりで難しいですが、要するにこの時「則子」という名前の女官がいて、この名前は前斎院の範子と同じ訓読みだがいいのだろうかと、そういうことを言っているようです。
 もっとも残念ながらこの記事では、肝心のどんな読みだったかは明記されていないのですが、「則子」と「範子」で同じ読みとなれば、素直に考えてやはり「のりこ」と読んだ可能性が高いと考えられます。ちなみに西行法師の俗名は「佐藤義清」ですが、史料によっては「憲清」「則清」「範清」という表記もあることから「のりきよ」だろうと言われており、やはり「則=範」=「のり」なのですね。
 というわけで、奥野氏は当時女性名が訓読みされたことは間違いないだろうとしつつ、ここでは同じ「のりこ」である式子の名前が挙げられていないため、残念ながらあまり参考にはならないと述べています。もっとも「式子」の訓読みについては、これまた角田文衛先生が「のりこ」だろうと断言されてほぼ通説となっていますが、いやちょっと待てよ、とここで引っかかりました。

 奥野氏は触れていませんでしたが、上記の女叙位記事では「則子」「範子」のことが話題になる前に「俊子」という名前の女官がいたらしく、ここで兼実が「それは前斎宮(後三条天皇皇女の俊子内親王。1132没)と同名ではないか」と指摘しているのです。もっとも彼はどうやら俊子内親王とその姉の聡子内親王(1131没)を混同していたらしいのですが、兼実の質問に同席していた左大弁の藤原定長が懐から「抄物」(自作のダイジェスト本でしょうか)を取り出して確かめ、「俊子は樋口斎宮ですね」と答えています。わざわざ自分の勘違いまで律儀に書き留めているあたり、兼実さんはなかなかまめな人物ですが(笑)、ともあれこんな具合で、当時の人たちは60年も昔に亡くなった内親王のことまでよく知っていて、資料もきちんと確認していたようなのですね。
 それなのに、何故兼実や定長やその他の人たちは、範子と同じ前斎院でしかもまだ生きている(当時43歳の)式子のことは問題にしなかったのでしょう?

 これについては、そもそも千尋が『玉葉』を正しく解読できている保証がないのですが、少なくとも「則子」と「範子」の訓が同じだという話題に「式子」が出てこなかったのは確かです。ということは、もしかしたら「式子」の訓読みは実は「のりこ」ではなく、だから兼実も取り上げなかった、とは考えられないでしょうか?

 もっとも、兼実さんは式子と縁がなかったのかあるいは関心が薄かったのか、40年近くもの間書き続けた日記『玉葉』の中で、式子については殆ど触れていません。とはいえ故実先例に関しては人一倍うるさく、自分が生まれる前に亡くなっている昔の皇女の名前も把握していた兼実が、(いかに世間で影が薄かったとしても)今現在生きていてしかも前斎院の准后でさらには「あの」(笑)後白河院の娘でもある内親王の存在をころっと忘れていたというのは、ちょっと考えにくいのではないでしょうか。
 ちなみに後白河院が亡くなって式子が大炊御門第を相続した時、その前から仮住まいをしていた兼実がそのまま居座って明け渡さなかったという有名な話は、この翌年(建久3年)のことでした。おかげで式子ファンの千尋には何となくいいイメージのない兼実ですけれど(ごめんなさい)、上に述べたように故実先例に関しては、自分の間違いも隠さず日記に書き留めておくような一面もある人でした。そんな彼の人柄から考えて、少なくとも彼の意識に「式子=のりこ」という認識があれば、それを承知していながら無視することはなかったのではないかなと思うのです。

 というわけで、おこがましくも角田大先生のお説に異を唱えるような結論になりましたが、とはいえ「じゃあ本当は『のりこ』でなく何と読んだのか?」となると、これはもうまったく手掛かりがないのでお手上げです(笑)。とはいえ、「ショクシ」「シキシ」のような音読みでなかったことは確かで、そこを強く主張した角田先生の功績はやはり偉大なものだと思いますが、今になってこういう再発見(?)が出てくるというのも面白いですね。

 さてもうひとつ、今度は人名ではなく邸宅の名前の話です。
 冒頭で少し触れましたが、33代斎院頌子内親王は「五辻斎院」という通称でよく知られていた人物でした。この呼び名は彼女の邸宅が「五辻殿(五辻宮とも)」であったからで、調べてみたらこれがなかなか面白かったのです。

 現在の京都にも、北野天満宮の近くに「五辻通」という東西の道がありますが、頌子内親王の五辻第もこの近くにあったことがわかっています。この「五辻」はその名の通り「オ」字型の道、つまり五本の道が交差した場所であったことに由来したようですが、そもそもその名称自体が、頌子の誕生以後に史料に登場したもので、元は頌子の母春日局の邸宅でした。
 この春日局、父は徳大寺実能(待賢門院の同母兄)ですから家柄もなかなかだったのですが、どうやらその生まれについては色々訳ありだったらしく、鳥羽院の寵愛を受ける前は認知されていなかったことを、藤原頼長が日記『台記』に書いています。しかし頌子内親王が生まれると、五辻第(最初は「春日殿堂」と呼ばれていたようです)は内親王御所となり、やがて後白河天皇(頌子の異母兄)を始めとして歴代の天皇や上皇が五辻第へ行幸するようになったので、かなり大規模な邸宅だったようです。頌子内親王は他にもいくつもの荘園を持っており、後には鳥羽院の菩提を弔うために高野山に寺院を建立しているくらいなので、相当に裕福だったのでしょうね。

 というわけで、その高野山の蓮華乗院のことも合わせてアップしたかったのですが、史料が手近の図書館では入手できなかったため、7月の更新ではひとまず見送りました。何しろこのコロナ騒動でここ数か月東京へも行けないままなので、東京の大きな図書館ならすぐに手に取れる史料もなかなか確認できないのがもどかしいですが、その分今はこれまで大雑把にさらっただけだった史料の洗い直しを進めているところです。おかげで色々と面白い再発見もあったので、そのあたりも含めて続きはまたいずれ。

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