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賀茂斎院の謎・2 「狂斎院」のその後

 2020/08/16(Sun)
 前回の日記でちらっと予告しましたが、賀茂斎院サイトにようやく蓮華乗院についての記事を上げることができました。…ところが、つい先日たまたま大変面白いものを見つけてしまい、おかげでこの一週間というものすっかりそちらに夢中になってしまいました。最初は8/10に一度一区切りのつもりでアップしたのですが、その後次から次へと別な関連資料の存在が明らかになり、そのたびにちまちまと追加修正を繰り返した結果、やっと何とか一段落ついたかと思います。お盆期間中にもかかわらず(しかも連日の猛暑の中)開館してくださっている図書館の皆様、おかげさまで本当に助かりましたありがとうございます!

 というわけで、今回のお題は18代斎院・娟子内親王です。

 斎宮・斎院に興味のある方なら御存知かと思いますが、娟子内親王は歴代斎王の中でも(というか内親王全体を見ても)大変珍しい、高貴な身分でありながら何と恋人と駆け落ちを決行した(!)というドラマチックな逸話のある人物です。当時は相当大騒ぎになったのでしょう、おかげで「狂斎院」等という芳しからぬ呼び名もありますが、最終的には二人の恋は許されめでたく正式に結婚に至ったようです。
 さて、その娟子のお相手である源俊房ですが、この人の日記『水左記』は何と現代まで直筆の原本が伝わっています。原本が残っているものとしては、かの藤原道長の日記『御堂関白記』に次いで古いもので、しかも当時の記録は少ないため、大変貴重な一次史料であることは言うまでもありません。
 しかしながらこの『水左記』、こと賀茂斎院に関しては記録が少なく、あまり重要な史料とは言えません。しかも筆者の俊房自身、前斎院である内親王を妻にしていながら、残念ながら日記には肝心の奥さんの話題は殆ど出てきておらず、正直言ってちょっとつまらないなと思っていました。

 ところが、最近ひょんなことからWEBで面白い情報に遭遇しました。
多摩遊覧」というブログに『水左記』に関する記事(本文はこちら)がありまして、何と『水左記』に登場する「御前」という人物が、ずばり娟子内親王だというのです。これには「え、本当!?」と仰天し、慌てて図書館から『水左記』を借りてきました。
「多摩遊覧」の武野史人様によりますと、承暦元年(1077)に「御前」が良子内親王(娟子の同母姉)の喪に服していたという記事があり、よって「御前」は娟子であろうということです。武野様はそれ以上は特に触れていないのですが、これについてちょっと詳しく説明します。

 そもそも問題の記事は11月19日、「御前」が一品宮(良子)の喪から除服(服喪を終えること)した、という内容です。良子内親王は同年8月26日に亡くなったので、つまり「御前」はそれから三ヶ月間、良子の喪に服していたということになります。
 ここで大事なのがこの服喪期間で、平安時代には「喪葬令」という法律があり、故人との血縁や関係等により服喪期間が細かく定められていました。具体的には、以下の通りになります。

 ・天皇・太上天皇・父母・夫・主人~1年
 ・祖父母・養父母~5ヶ月
 ・曾祖父母・外祖父母・父の兄弟姉妹・妻・兄弟姉妹・夫の父母・嫡子~3ヶ月
 ・高祖父母・母の兄弟姉妹・継母・同居の継父・異父兄弟姉妹・庶子・嫡孫~1ヶ月
 ・庶孫・父方のいとこ・兄弟の子~7日

 良子内親王の場合、「御前」は3ケ月の服喪なので、該当する服喪者は「(良子内親王の)曽孫・外孫(娘の子)・兄弟の子(甥・姪)、夫、兄弟姉妹、息子の妻、母」ということになります。
 ところが、良子内親王は前斎宮で、妹の娟子とは違って生涯独身でした。ということは、配偶者や姻戚はもちろんのこと子や孫もいませんから、3ケ月の服喪に該当するのは以下の人々です(※当時存命の人物のみ)。

 ・母~陽明門院禎子内親王
 ・兄弟姉妹~同母妹娟子内親王、異母妹バイ子内親王・正子内親王
 ・甥・姪(弟後三条天皇の子)~白河天皇・東宮実仁親王・輔仁親王、聡子内親王・俊子内親王・佳子内親王・篤子内親王

 この中で、陽明門院は『水左記』でそのまま院号で「陽明門院」と記されているので、当然該当しません。また白河天皇と実仁親王も、「主上」「東宮」等の敬称や称号なので当然該当せず、また輔仁親王もこの前後には出てきませんが「三宮」でしょうから同様です。
 ということは、「御前」は残りの姉妹と姪の中の誰かということになります。

 ここで『水左記』の承暦元年8月の記事をよく読むと、この一月の間「御前」に関する記事が大変多く、毎日のように「御前」が登場します。というのも、この時平安京では疱瘡(天然痘)が大流行しており、死者は数え切れないほどと言われる悲惨な状況でした。「御前」も重態に陥った末に遂には出家してしまったとあるので、一歩間違えば命を落としていたかもしれません。実際、良子内親王はほぼ同時期に亡くなっており、『水左記』にはそれ以外にも貴族たちがばたばた疱瘡に倒れた様子が連日記録されています。
 ちょっと前までなら現代の日本人には想像もできないような話でしたが、コロナの危機に晒されている現在改めて読むと、感染症の恐ろしさは昔も今も変わらないのだなとしみじみ痛感します。ましてや満足な治療法もなかった当時の人々の恐怖がどれほどのものだったかと思うと、決して他人事ではありませんね。

 ともあれ、俊房本人も7月末に発症して随分苦しんだようですが、「御前」のために祈祷を頼んだり仏像を作らせたりと、あれこれ懸命に手を尽くしています。俊房がここまでして、しかもそれを日記に書き留めたほどの相手となると、これはやはりこの「御前」が妻の娟子だったとしか考えられません。
 ちなみに改めて大日本史料データベースで検索してみたところ、『史料総覧』の綱文に「故右大臣師房の室藤原尊子出家す」とありました。また『平安時代史事典』等の資料でも同様で、つまり今まで「御前」は俊房の母尊子(藤原道長の娘)と思われていたようです。あの角田文衛先生も気が付かなかったらしいのがちょっと意外ですが、角田先生も別記事の「尼上」は尊子だとしているので、「御前=尼上=尊子」と思っていたのでしょうか?

 ともあれ、色々調べた結果、やはり「御前」は尊子ではなく娟子のことらしいという結論に達しました。今まで『水左記』には娟子の記事は殆どないとばかり思っていましたが、改めて読み直すと重病に苦しむ妻を案じて必死で手を尽くす俊房の心情が伝わってくるようで、何だか感動してしまいました。

 ところで、上記の「御前」候補の人物の顔ぶれを見て、あれっと思いました。
 良子の妹と姪合計7人の内、妹の娟子・バイ子・正子、そして姪の佳子・篤子は前斎院で、何と7人中5人が斎院経験者なのです。当時は皇女の殆どが斎王経験者だったとはいえ、前斎宮は俊子内親王だけで、随分斎院率が高い?ですね(もっとも当時の斎宮は女王が多かったとので、それを考えると当然なのですが)。



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