賀茂斎院の謎・3 再びお姫様の名前
2020/08/20(Thu)
先日斎院サイトに『水左記』話を更新した後、何だかお客様がちょっと増えたようです。ある意味時事ネタともいえる疱瘡流行が絡んでいたためかもしれませんが、「退下した後の(前)斎院」の消息というのは尊称皇后でもない限り珍しいもので、これを知って大変嬉しかったですね。何しろ俊房と娟子は前回も触れたように駆け落ち+周囲の大反対を乗り越えて結ばれた、当時では珍しいまさに物語の男女のようなカップルで、千尋も大変興味があったのです。残念ながら娟子は子供には恵まれなかったものの、年を重ねてもあれだけ大切にされていたのであれば、きっと幸せな一生だったのでしょうね。さて、前々回に引き続き、今回のお題はまたしても賀茂斎院の「お名前」です。
こちらをご覧の皆様の中には既にご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、今年の4月に『藤原道長を創った女たち』(服藤早苗・高松百香編,明石書院)という本が出ました。その中に「天皇と結婚した三人の孫内親王」(野口華世著)という章がありまして、禎子内親王(父・三条天皇)・章子内親王(父・後一条天皇)と並んで17代斎院の馨子内親王も紹介されていたのですが、そこで馨子内親王の名前の訓読みを「さほこ」である、としているのです。
え、「馨子」が「さほこ」?と驚いたのですが、解説によると馨子内親王が着袴で二品に叙された時、『左経記』に「内府(藤原教通)仰せて云わく、先(佐)品子を以て二品に叙すべしてえり」とあり、よって訓が「さほこ」であることがわかる、というのです。慌ててうちの賀茂斎院サイトを見てみると、確かに問題の記事(長元4年10月29日条)にはしっかり「以佐品子可叙二品者」とあり、底本とした増補史料大成の『左経記』も間違いなく「佐品子」と書かれていました。
しかしながら、「馨」がどうやったら「さほ」になるのか、まず漢字の意味からしてぴんと来ません。それに「馨子」と書いた上で注等に訓読みをつけているのであればわかりますが、六国史や公文書のような正式なものではない公家日記とはいえ、訓読み表記だけというのは(そもそも同様の例自体が極めて少ないのですが)何だか変だな、という気がして納得できず、しばらく意識の片隅に引っかかっていました。
ところが、最近あらためて原文を見直していて、ふと思いついたことがあったのです。
この「以先品子可叙二品」はもしかして、「先」ではなく「无」なのではないでしょうか?
というのも、「无品」はつまり「無品」で、親王・内親王の品位についての記録ではよく見られる言葉です。『左経記』では残念ながら他に見当たらないようですが、同時代の『小右記』や『日本紀略』でもこの「无品」はよく使われているので、可能性がないとはいえないかも、と考えたのでした。
既に述べたように増補史料大成本は「佐品子」ですが、近年発行された『大日本史料(第2編之31)』では、「先品子」とした上で「先」の右に[佐イ](異本で「佐」とするものがある)となっています。また、国立公文書館で『左経記』の写本を所蔵しており、データベースで画像公開もされているのですが、こちらを確かめてみたところやはり「先品子」でした。
もちろん、原本では「佐品子」となっていたのが、筆写を重ねるうちにどこかで「先品子」となり、こちらの方が主流になってしまったという可能性もあります。しかし「先」という字は「无」と字体がよく似ており、「佐(または左)」と「先」を間違えるよりは、「无」が「先」に間違えられたという方がありそうに感じられます(ちなみに国立公文書館本の同記事には「左」の字も出てきますが、「先」とは明らかに違っていてはっきり区別がつきました)。
こうなると他の写本も見てみたいところですが、宮内庁書陵部や国立国会図書館所蔵の写本については、残念ながらWEB公開はされていません。しかし何か他に手掛かりはないかと諦めきれずに探してみたところ、国文研のデータベースから、大和文華館所蔵の写本もWEB公開されていることがわかりました。
そして何とびっくり、大和文華館本には「先品子」の「先」の横に、「无歟(「先」は正しくは「无」ではないか)」と注があったのです! おお、こんなところにまさかの同意見が!と、この発見(というと大袈裟ですが)には大感激でした。
ところで今までも何度か触れてきましたが、平安時代の女性名というのは大変厄介で、訓読みが判明している例は殆どありません。そんな中、馨子内親王の従姉妹にあたる後朱雀皇女の斎宮良子・斎院娟子姉妹について、『範国記』に記録が残っているのが貴重な例外です。
うちの斎院サイトでも紹介していますが、原文では「一宮御名良子、良字読長、二宮御名娟子、読麗」となっていて、やはり正式な諱を書いた上で訓の説明をつけていました。なので馨子の場合も、もし本当に「サホコ」であれば、「以馨子<読佐保>可叙二品」等のような書き方になったのではないでしょうか。
また、上でも触れたように「馨」=「サホ」という訓読みは(少なくとも現代人には)連想しにくいですが、加えて当時のひらがながくずし字から生まれたという経緯を考えると、「ほ」の音で一般的なのは「保」か「本」で、「品」を母字とした「ほ」の例は見られません。また「佐」はともかく、「先」も「さ」の母字として使われた例は調べた限りでは見当たらず、この点からも「先品」=「サホ」であった可能性は低いのではないかと思います。
とはいえ、そもそも「サホコ(?)をもって二品に叙すべし」という解釈は、文法的には当時の他の叙品記事と比較しても矛盾がなく、その点は問題ありません。しかし「先」が「无」だとすると、「無品の子(?)をもって~」というのは、内親王の叙品についての文章としてはちょっと違和感があります。
というわけで、ここからは完全に推測というか想像になりますが、本来の原本では「以无品馨子可叙二品(無品馨子を以って二品に叙すべし)」と、本名(諱)も記載されていたのではないでしょうか。しかし原本かそれに近い写本かで、「馨」と「子」の間にたまたま改行があったとかで、筆写した際に「馨」が脱落してしまった結果、「以无品子可叙二品」になってしまったのではないか、というのが目下の千尋の仮説なのでした。
なお、そもそも問題の着袴二品の時、馨子内親王が「無品」だったのかどうかについては、残念ながら決定的証拠(笑)は現存史料の中にはないためわかりません。なのでじゃあ他の内親王の例はどうなのかと思い、平安時代の朝原内親王から馨子内親王までのデータを一通りさらってみました(かなり長くなるので、興味のある方はサイトをご覧ください)。
その結果、確実に着裳以前の叙品であったケースは馨子の姉の章子内親王以外見つからなかったので、状況証拠から見てやはり馨子内親王は無品から二品へ直叙されたと思われます。ちなみに章子は5歳で着袴一品ですが、これはあくまで例外中の例外で、殆どの場合はどんなに早くても着裳で最初の叙品というのが決まりだったようです。
それにしても5歳で一品とはとんでもない話ですが、それよりは遅いとはいえ、禎子内親王の11歳着裳で一品も当時としては随分無茶な話です。しかしこんな場合俄然元気になる(笑)実資さんのコメントが『小右記』にないなと思っていたら、たまたまWEBで見つけた論文の中で、別な時の記事で「着裳前に一品にするなんてけしからん!」と書いていたことが紹介されていて、あーやっぱりと思わず笑ってしまいました。まあこの件に関しては実資さんの言い分の方がもっともだと思いますが、私の中での彼のイメージは何を隠そう永井路子氏の小説『この世をば』がベースでして、確かに博識だし道長何するものぞな小野宮流のプライドもあったようですが、高潔な人格者というのとはちょっと違ったのではないかなあ、と勝手に思ってます(何しろ永井氏によると「意地悪評論家」だそうなので。笑)。
ともあれ、前回の『水左記』を調査中にこの問題に引っかかったため、ここしばらく二本立ての同時進行で大変忙しかったです。なので前々回の8/7の記事で「歴代35人の中で確実な読みのわかっている人物は一人もいない」と書いた時には、実はまだここまで考えていなかったのですが、この思いがけない宿題のおかげで大変充実した夏休みになりました(笑)。
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