紅花落水の夢

追悼・森崎東監督

私は故人と面識なく、映画関係者でも研究者でもない。ただ一介の労働者として生きる中で、顔で笑って心で泣いてという森崎映画に、生きる希望をつないできた。
 
『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』(一九八五)――「沈むところまで沈もう」と教師をやめた野呂先生は、いったい何に惹かれてタダシたち非行中学生の世界に飛び込んでいったのか。バーバラがことあるごとに繰り返す「アイちゃんですよゥ、ゴハンたべたァ?」という呼び声が身体を包み込み、リフレインする。浜辺で焚火を囲み、夜通し酒を酌み交わして語り合う女たちの宴は、限りなく美しい。お腹に子を宿し、高校進学でなく働くと決めたタマ枝に、子供を産めばいい「星がひとつふえるから」とアイコは言い、これまで出会った人の名を一人ずつ数えながら砂浜に「正」の字を刻み続けて、夜はしだいに明けていく。
 
学校出の優等生から見下される彼女ら彼らの世界にこそ、人と人のまっとうな関係がある――森崎映画は、進学校をやめて家を飛び出し、肉体労働の世界に飛び込んだ私を、選択は間違いではなかったと励まし続けた。ただの「落ちこぼれ」だった私におっちゃんたちは一から仕事を教え、「挨拶を知らん」と叱った。下水工事の事故で穴に埋まった私を掘り出し、部屋で動けなくなっていた身体を抱えて病院に連れて行ってくれたのもまた、共に働く仲間だった。生きる知恵を教えた彼らは、けれど次々野垂れ死んだ。現実はあまりに無情で、残された私はただただ悔しかった。そのような中で知った、海の向こうの中国で起こった革命の、街の「浮浪児」が解放軍に出会って識字を通じて人間に目覚め、共に働きながら同じ釜の飯を食う「大同」の「党」は私を惹きつけ、私はここに夢を託した。
 
私の夢見た「党」は、まさに森崎映画の人びとの世界だった。女たちの浜辺の宴は「党」の評議会である。バーバラの問いかけは、ご飯を仲間といっしょに食べることの大切さのことであり、森崎の言う連帯とは人と人がそのように繫がりあうことだった(「連帯――それは人が人を愛することである」)。悔しさと怒りに裏づけられた価値観の転覆、現実に対する根底的批判は「党」の旗じるしであり、劣等生による優等生に対する抵抗、「目に一丁字もない」人びとによる「学のある」人びとに対する叛乱として闘われた中国の文化大革命と、森崎の心の「党」とは、ここで確かに呼応しあっていた。『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』の舞台である美浜(福井)や『ニワトリはハダシだ』の舞鶴は、海を挟んで朝鮮や中国と隣り同士だ。映画に登場する沖縄出身者や在日朝鮮人、中卒者、障がい者は、近年の学術研究にありがちな個別の社会問題ネタでは決してなく、共に手を取り肩を組むべき人びととして存在していた。個々の隔たりを溝にするのではなく、互いにぶつかりあう中で変わり合って結ぶ「大同」への視線を持った党、すなわち「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党」である。森崎映画の人びとの魅力はこの「党」にあった。
 
『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』冒頭に出てくる中学生の学ラン背の四文字「紅花落水」は、「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党」の中国名だという(『にっぽんの喜劇えいがPART(2) 森崎東篇』映画書房、一九八四)。上海で旗揚げした紅衛兵グループの「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党」という不思議な「党」名を新聞記事で知った森崎が、「何とか調べたくて文化革命の最中二度も中国へ行ったことのある親友の中国史研究家Kに尋ね……書き送ってきたのが…『紅花落水』の四文字」だったらしい。Kとは中国研究者・近藤秀樹であり、『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』クランク・イン数日目に自死した彼の「日本が世界の中心国になろうなどという…昭和の狂気」批判、更には、満洲・建国大学で学び、敗戦翌日に自決した兄・湊の、「漢民族の心を最も深くとらえているものは中国共産党にほかならない」という認識は、森崎の身体に深く刻み込まれていたはずだ。遺志は、「生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党」に引き継がれて、二〇年近く後の『ニワトリはハダシだ』(二〇〇四)にまで貫かれた。
 
映画のラスト。アイコは殺され、常闇日本からの脱出はならず、女たちは散開する。降り注ぐ天気雨に濡れながら、誰ひとりうつむくことなく、タマ枝は「うち産むよ、赤ちゃん」と口にし、強制送還される艀のマリアと岸壁のバーバラは拳を握りしめて呼応する。
 
森崎はいない。が、それが「党」である限り、彼女たちと私も、森崎、森崎に連なる死者たちと繫がりあう。誰かがいなくなっても悔しさと怒りは代を継いで受け継がれ、「党」は革命に挑み続ける。私は今こそバーバラと共に叫ばずにおれない。
 
「あふれる情熱、みなぎる若さ、協働一致団結、ファイトーッ!」(まえだ・としあき=組版)
 
★もりさき・あずま=二〇二〇年七月一六日、脳梗塞のため死去(享年九二)。一九二七年、長崎県島原生まれ。福岡県大牟田に移り労働者の町で青少年時代を過ごす。京都大学卒業。一九五六年松竹京都撮影所に入り、六九年『喜劇 女は度胸』で監督デビュー。『女~』シリーズは庶民の人情を描いて大衆の共感を呼んだ。八五年の代表作『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』は四半世紀後に福島原発事故を予見したと話題にもなった。『ニワトリはハダシだ』(二〇〇四年)で東京国際映画祭最優秀芸術貢献賞を受賞。長崎を舞台にした『ペコロスの母に会いに行く』(一三年)が遺作となった。