私が24歳の頃、池袋西口のキャバクラに面接に行った事がある。
大学卒業後、アルバイトを転々とするが何一つ長続きせず、消費者金融からも20万円ぽっち借りただけですぐに借りられなくなった。
親には何度も泣きついて、ついに「もうあげられるお金はないから、地元に帰って来なさい」と最後通告されてしまった。
私はどうしても田舎に帰りたくなかった。
アルバイトも長続きしない人間が、キャバクラで接客なんてまず出来ないのは明白だが、人間窮地に追い込まれれば出来ない事はないと当時の私は思った。
ならしっかり定職に就けば良いものを、地道に働くより短い時間で沢山稼ぎたいと欲だけは深かった。
昼のアルバイトが続かないなら、夜のアルバイトなら続くかも?というよく分からない希望もあった。
インターネットのキャバクラ求人サイトで歩いて行ける池袋西口の店に早速面接の予約をした。
何故そこにしたかと言うと、歩いて行けるけどバスか電車を使ったと申告すれば交通費をチョロまかせると思ったからだ。(当時キャバクラに送迎がある事を知らなかった。浅はかでみみっちい考えである。)
面接日はすぐに決まった。
面接当日、お店のドアを叩くといかにもという感じのスーツの男性が迎えてくれた。
オープン前の店内は薄暗く、並べられたボトルとシャンデリアだけがボヤッと青白く照らされている。
大きな黒い皮張りのソファに、何だか汚ならしい女が座っていた。
顔はどう見ても50過ぎのおばさんだが、赤いペラペラのドレスを着て、白髪まじりの髪を無理矢理ブリーチした金髪は綺麗に巻いてある。
時折カウンターで作業している若いボーイに怒鳴るように話し掛けているが、ボーイは何も返さなかった。
この店のお局だろうか。私はきっとあの人にいじめられるだろう。とまだ面接もしていないのに不安だけは募る。
おばさん嬢から少し離れたソファに案内され座ると、先程カウンターで作業していた若いボーイがスッとドリンクを出してきた。
カクテルグラスにオレンジ色の液体、カットされたオレンジが刺さっている。
アルバイトを20件以上転々とした私でも、面接にこんな飲み物を出されたのは初めてだった。
口にしなかったので今となってはあれがオレンジジュースだったのか、お酒なのか、それともまた別の何かだったのかは分からない。
私は段々怖くなっていた。
1秒も働いてない私にこんな飲み物まで出して、この人達は私を一体どうするつもりなのか。
飲み物を凝視している間に玄関で迎えてくれた男性が向かいのソファに座った。この人が店長らしい。
「身分証見せてくれる?」と言われ免許証を差し出すと店長は「これコピー」と先程のボーイに渡した。
「何でキャバクラで働こうと思ったの?」と誰もが疑問に思うであろう事を聞いてきた。
「あっ、お金がなくて.......はい」と何の捻りもない返事をした。ここでスキルアップだなんだと嘘をついても仕方がないと思った。
ここから先は記憶がぼんやりしているのだが、質問は上記の一点のみで、後はどういう風にお金が貰えるか、どんな事をすると罰金か、などの説明を店長は淡々と話し始めた。
緊張した頭にシステムを叩き込む余地はなく、ただぼんやりと(もうここで働くんだな.......)という実感だけがふつふつと沸いていた。
奥の席で煙草をふかすおばさん嬢、テーブルに置かれた謎のカクテル、シャンデリア、ボーイ、目の前でキャバクラの説明をする店長.......
昨日までの自分からは想像もつかない夜の雰囲気に、私は怖じ気づいてしまった。
働きたくない。怖い。でももう後戻り出来ないところまで来たんじゃないか。
ここでやっぱりやめますなんて言ったら、東京湾に沈められるのではないか。
さっき免許証のコピーも撮られたから悪用されるのでは。もう私の人生は終わった。
お母さんには迷惑ばかりかけた。金をせびるばかりで、何もしてあげられないまま私は夜の街に消費されるんだ。
そこまで考えて、私は泣き出した。
「すみません、私やっぱり無理です.......ごめんなさい.......」
言ったら殺されると思いながらも、もう言わずにはいられないくらい恐怖と不安に押し潰されていた。
店長は顔色ひとつ変えず「そうですか、駅まで送るね」とスッと立って出口に向かった。
外に出ると一気に安心した。
「すみませんでした.......失礼します」と頭を下げて帰ろうとしたら、店長もついてくる。
えっ?!ほんとに駅までくるの?!と内心焦った。
私はまだ解放されていないのだろうか。
夜の池袋の街を並んで歩きながら店長は「世の中には悪いお店も沢山あるから、もうこういう事はしちゃいけないよ」と言った。
怒るでも諭すでもない、フラットな口調だった。
「はい.......すみません.......」それしか言えない。時間と労力と謎のカクテルを無駄にしてしまった私はどんな償いをすればいいのか、何か要求されるのだろうか、お金はない.......どうすれば.......と私の頭はいっぱいだった。
店長はそれ以上の事は言わず、お互い無言で池袋西口の駅に着いた。
「では気をつけて」「はい、ありがとうございました」お辞儀をして数歩歩いて振り向くとまだ店長はこちらを向いて立っていた。
何もなかった。
本当に駅まで送ってくれただけだった。
駅前に用事があったのだろうか、そのついでに私を送ってくれたのだろうか。
でも振り向いた時にまだ店長は立っていた。
優しい人だったのだろうか。
私は東京湾に沈められる事も、免許証が悪用される事も(多分)なく過ごしている。
この10年性懲りもなく何度も金がなく、出来もしない職業にヤケクソに飛び込もうとした時はあったが、あの時の店長の事を思い出しては踏み留まった。
34歳になった今、客としてあの店に行き、店長を指名したいと思うのだった。