史料の引用方法・・・そして、査読ふたたび
史料から情報を得る方法はいくつかあります。大まかに区分するならば、①現物、②写真帳・影写本・謄写本などの写し、③活字になったもの、の三種でしょう。①②③の順で情報が正確であることはいうまでもありません。ですから、卒論でも可能な限りその優先順位で情報を得てください。ただし、①はコネクションなども必要で、閲覧が困難であるケースも多いです。③が最も手っ取り早い方法になりますし、くずし字を読解する手間も省けます。
私の場合、書籍などに所収された活字史料を論文に引用する際は、閲覧が可能なものは全て写真帳や影写本などで確認するようにしています。過去の論文を読むと、当初はそこまで徹底していなかったようです。私は椿井文書の研究をするなかで、活字になることで偽文書独特の雰囲気が薄れてしまうと度々指摘してきました。おそらくそれもあって、極力裏付けをとる癖が付いたのだと思います。
その場合、典拠は②と③の二つになってしまいますが、逐一双方を引用していてはとても煩雑になります。そのため、③の引用をベースにしておき、その引用の冒頭部分に適宜②で修正を加えたとあらかじめ一言述べておく方法をとっています。
前回も触れた三之宮神社文書を引用する際も同様の方法をとりました。この二重引用について、素人さんも下記の史料編でコメントしています。
アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200530.pdf
【535】では、「写真を引用してるんだ」と気付いており、私が三之宮神社文書を『枚方市史』から引用した際に「引用の際は枚方図書館市史資料室架蔵の写真にて校正を加える」と添えた文言も転載しています。それに続けて【536】で「枚方図書館市史資料室架蔵の写真引用した理由は、枚方市史の翻刻が間違っていたからなのかな?ならば参照文献は三之宮神社所蔵文書の写真と記載しなくてはいけないのでは? 」と指摘されます。『枚方市史』ではなく、写真のほうを典拠にしろというのです。
しかし、読者のほとんどは枚方の図書館に通って写真をみるということはないはずです。そのため、写真史料だけを引用していては、活字史料のいったいどこにあたるのかわからず、逐一参照することができません。また、活字史料から引用して、修正した部分を逐一述べるのも煩雑です。私が普段引用する方法をとっておけば、活字史料を手元において論文と比較してもらえれば、私がいったい写真史料に基づいてどこを修正したのかもわかります。その修正が気になれば、あとで写真史料で確認することも可能です。このようにしておくことによって、私は引用史料の信憑性を確保するように心掛けています。
2020年4月に入ると、素人さんたちの主張も豹変してきます。それが頻繁に引用される下記画像です。
この画像に触れて、【1551】では「穂谷村の旧家の人達へも謝罪するべきでは。でないと、予算も、学問の自由も、無くなってしまうよ。これって、歴史学者が嘘の史料を作った上で穂谷村が裁判資料を改竄したと主張したわけでしょ?」とおっしゃいます。この画像左側で引用されるのは、三之宮神社文書のうちの一つ「三之宮大明神年表録」で、穂谷村が有利になるように偽作された椿井文書です。地元の考古学者である片山長三氏が、1957年発行の『津田史』に活字化していますが、誤読がままみられます。のちに『枚方市史』が改めて活字化し、さらにそれを私が写真に基づいて修正したのは先述の通りです。
おそろしいことに、素人さんたちは私が写真に基づいて史料を修正した事実を伏せたうえで、『津田史』が引用する史料を改竄したと言い始めるわけです。【1617】で「枚方市の穂谷村を悪く言うために捏造してはダメだよ」、【2482】で「本当に書籍に書いていないことを書いたのならば、捏造( #研究不正 )だろうし、歴史学の名前で悪意を指摘された枚方市の穂谷村にとっては自分達が住んでいる市の公務員による加害では?」、【2556】で「出典元に書いてない事を捏造してまで穂谷村が裁判資料を捏造したと書く」、【2639】で「出典元に書いていないことを引用するのは #研究不正」といった具合で、留まることを知りません。
一方、画像の右側で引用されるのは、「当郷旧跡名勝誌」に所収される三之宮神社の棟札写です。穂谷村の名が含まれる画像の赤字部分が『津田史』287頁には存在しないので、私が史料を改竄したと指摘しています。冒頭の「津田村尊光寺に残る由緒書「当郷旧跡名勝誌」(『津』二八六頁)に記される次の棟札写を引用する。」という一文は、変な切り取り方をして、私が『津田史』の当該部分を引用したかのように見せていますが、「次の棟札写を引用する」の主語は私ではなく片山長三氏です。この一文では、片山氏が津田地域の歴史を説く際に棟札写を引用することを説明しているだけです。
私は、『津田史』287頁の棟札写は明らかに文の欠落があるのでそのままは引用していません。というのも、棟札本文に「奉加」「穂谷村」などの語がないにも拘わらず、棟札の説明文に「奉加ト有ルガ故ニ、此時代迄穂谷村芝村ハ非氏子哉」と記されているのです。つまり、ここでの片山氏は、棟札本文を一行ほど見落とすという明らかな翻刻ミスをしています。半世紀以上前のそのようなミスを今更引っ張り出してきて、私を批判されても困ります。上掲の「『津』二八六頁」という記述も、「二八七」としていないように、あくまでも『津田史』286頁から始まる「当郷旧跡名勝誌」の所在を示しているに過ぎません。
ややこしくなった原因は、片山氏の説明の仕方にもあります。片山氏は『津田史』36頁や177頁などで上掲棟札写の翻刻を何度も掲載するのですが、融通無碍でその度に文面が異なります。しかも、そこでは上述した一行の欠落を含んだうえで分析がなされます。そのため、片山氏の研究を整理するには、『津田史』287頁の棟札写をそのまま引用してしまっては説明がつきません。幸い「当郷旧跡名勝誌」の写が『津田史』274頁に掲載されるので、これで欠落した一行を補足しておきました。決して穂谷村を恣意的に挿入したわけではありません。原文に穂谷村が入っていることは、先ほど引用した「当郷旧跡名勝誌」の棟札説明文をはじめ、諸史料からみても確実です。
その点について、大事なことを思い出しました。上掲画像で引用される論文を投稿した後に、「当郷旧跡名勝誌」の現物にあたって該当部分を翻刻していたのです。拙著にその論文を再掲する際に、ついうっかり史料を差し替えるのを忘れていました。その翻刻をこのページの一番下に掲げておきます。
素人さんたちの進撃はなおも続きます。中公新書のアカウントが私の新書を紹介すると、【2636】で上掲の画像を貼り付けて「馬部隆弘氏は引用元に書いていないことを書いているみたいだけれど、チェックはされましたか?」と投げかけます。やっていることはむちゃくちゃなのですが、【2523】では「馬部隆弘氏にヤクザみたいな因縁をつけられるくらいなら、確かに断るべきだったかも。こんな嫌な思いするくらいならね。」とそっくりそのまま返したい台詞を吐いたあと、「本当にみんな殺しかねないくらい怒り狂ってますから、何が起きても不思議じゃないですよ、まったく」と殺人予告まで出てくる始末です。ここまで来ると、法的措置に出たほうが無難かもと改めて思います。
そして、【2022】では「三之宮神社関連文書も片方の言い分に立ったものだと馬部隆弘氏は主張したけど、片山長三『津田史』からの引用の間違いだった。査読を経ていたら、こういうミスはチェックできたのに。」とおっしゃいます。『枚方市史』で活字化されている事実を悪意をもって伏せているのは明白です。ここで「あれっ!?」と気付いた私のゼミの学生はいないでしょうか。さきほどの画像と比較すると気付くかもしれません。
そうです。前回取り上げた三宅源治郎の記録や三之宮神社文書を対象とした『ヒストリア』に掲載された私の論文をやり玉にあげて、査読を経ていないとおっしゃるのです。例えば【1135】で「馬部隆弘氏の #椿井文書 論文類は査読を一度も通過していないけれど、本当に大丈夫なのだろうか?」、【1228】で「査読を通過していない論文での攻撃に、地域社会は応戦できない。言いたい放題だから」、【1542】で「訂正すればいい。査読がある論文雑誌に掲載されたわけではないし」、【2530】で「査読を通していない論文は、どれくらいを真実だとみなすべきか?そもそもなぜ査読を通過できないんだろう??」といった具合です。その数は、【1056・1096・1135・1215・1228・1234・1235・1251・1252・1382・1406・1542・1916・1918・1967・1969・1973・1985・2021・2022・2047・2101・2173・2174・2299・2342・2351・2410・2492・2530・2531・2535・2638】の33回にのぼります(2020年5月30日現在)。
『ヒストリア』が大阪歴史学会の機関誌で査読誌であることを知らないとなると、予想以上のド素人ということになります。仮に知っていてこのような発言をしているとなると、大阪歴史学会の編集委員会で査読を経ずに掲載するという不正があったと言いたいのかもしれません。素人さんたちには、私をおとしめようとする明らかな悪意があるので、歴史学界の事情に詳しくない人を騙して引き込もうとする作戦ということも考えられます。何とも測り兼ねるので、それとなく『ヒストリア』が査読誌であることを知らせたら、どのような反応をするのか試してみました。
著者に聞く『椿井文書―日本最大級の偽文書』/馬部隆弘インタビュー(中公新書ホームページ)
インタビューの回答のなかに、「椿井文書に関する最初の論文は、ちゃんとした査読誌に掲載されているんですが、おまえの勝手な思い込みだとか言われましたね。」と盛り込んでみたんです。案の定、【2633】でこの記事を引用してくれました。それでも【2638】で、「馬部隆弘氏の椿井文書に関する論文も査読を受けていません」と述べています。
日本語読解能力がないという可能性も大ですが、仮に査読に不正があったというのであれば、私も大阪歴史学会の編集委員なので、何らかの対処をとらなければいけなくなります。本当に面倒な方々です。【1542】で「査読を経て掲載されれば安心して読める」とおっしゃっているので、そろそろ安心してくださればよいのですが・・・
以前、査読の有無でしか論文の価値を測れないのは素人だという話をしましたが、査読誌名を知らなければ、さらにそれ以下の恥ずかしい人になってしまうというのがわかっていただけたでしょうか。歴史学に関する会話をしていると、自ずと雑誌名や学会名がよく出てきますので、それをどれだけ知っているかで相手のおよその見識を測ることも可能です。3回生の最初のゼミで、まずは査読誌名をずらっと板書して覚えるようにと指導するのはそのためです。査読誌かどうか判断に迷うようだったら、雑誌には「投稿規定」の欄があるので、それをみれば解決します。
また、上掲の史料編をみていただくとわかりますが、ある素人さんが査読を通っていない、改竄だと言い出すと、それ以外の素人さんも何も調べることなくそれに追随している様子がよくわかります。もちろん人の言うことを信じるのも大事ですが、こと学問的な話をするときはそのような姿勢はとらずに、自ら調べたことに基づいて自分の意見を述べなければなりません。
【拙著をご購入いただいたみなさまへ】
『由緒・偽文書と地域社会』24頁の【記録1】「当郷旧跡名勝誌」を下記画像に差し替えていただくようお願いいたします。出典は、拙稿「城郭由緒の形成と山論」(『城館史料学』第2号、2004年)です。この論考を拙著に所収するにあたって早々に翻刻編をカットしたため、その存在をすっかり忘れていました。申し訳ありません。蛇足ながら、素人さんたちは査読誌かそうではないかという話が大好物のようですので付言しておきます。この雑誌も一応査読誌です。