研究ブログ

小芝居と人名

 文字史料は文字通り素直に読むのもよいですが、文字にならない裏側の部分を読むというのも大事です。例えば、前回掲示した画像がそれにあてはまります。その画像とは、拙稿で引用する史料と『津田史』が引用した史料を対比して、私が史料を改竄しているということをわかりやすく示したものでした。ここに示された文字を鵜呑みにすると、私はとても悪い研究者になってしまいます。しかし、この画像を作成するに至るまでの経過を丁寧にひもとくと、むしろ情報を改竄したのは素人さんのほうで、あの手この手を使って、私をおとしいれようとしていることがうかがえました。

 素人さんたちはこの画像を幾度となく利用して、執拗に私を攻撃してきます。ところが素人さんは、この画像のことについて、折に触れて次のようなこともおっしゃいます。例えば、【1595】で「でもこの件は研究不正では。本当は言いたくなかったし、言うつもりなかったのに」、【1627】で「訂正してもらえないなら、素人とはいえ間違いを知ってしまった以上はしかるべきところに届けるしかなくなる。できればそれは避けたい。キャリアに傷がつきますから」、【2612】で「大学院時代の強い思い込みによるミスを告発するのは非常に野暮だからしたくないけれど」とみえるように、少しトーンの異なる発言をされるのです。

 以上のような、しおらしい演技を入れることで、自分たちは悪いことをしているのではないという言い訳をしているのでしょう。でも、こんなくさい小芝居を時々入れてくるあたり、本当は悪意がありますと証言しているようなものです。このように、事実からかけ離れた小芝居は、異常なまでに目立ちますし、それが真実を求める手がかりになる場合もあります。以下では、同じく事実からの乖離にあたる、誤った名前の一人歩きについて考えてみたいと思います。

 私の名前は珍しいので、物心ついた頃から「ババ」とよく間違えられてきました。「マベ」や「ウマベ」とされる場合も多いです。そういうときにどのような対処をとろうかと、今でもよく悩みます。今後も長い付き合いになりそうだと思ったら、早めに訂正します。どうでもいい人だったら、ほったらかしにします。あと、いつ気付くだろうとしばらく眺めるときもあります。このように、自分の名前で相手との距離感を探る人もいるわけです。

 ですから、自身がメールや手紙を送るときは、相手の名前に間違いがないか、何度も確認してしまう癖があります。逆にいえば、相手の名前を間違えることに対して無頓着な人は、まわりの目をあまり気にしない人ともいえるでしょう。

 名前を間違えられた経験があまりない人はわからないと思いますが、これはかなり失礼な行為で、人によっては相当に気分を害します。ゼミ発表のレジュメで引用論文の著者名を誤記していると、私が事細かく指摘するのはそのためです。社会人になったとき、大事な取引先のお名前を間違えたりしないためにも、常日頃からこういうところに心配りする癖をつけておくのは大事です。

 もちろん、ついうっかり間違えるということもあると思いますが、私の経験上、そのようなミスをする人は、日頃の行動にもやや難のある場合が多いような気がします。つまり、単なるうっかりではなく、それが日常茶飯事で、さきほど述べたように周囲が見えていないという場合が多いです。もう少し踏み込んでいうならば、思い込みが激しいため、まわりがみえていないという可能性が高いです。もちろん、このこと自体が私の「思い込み」である可能性もありますので、例によって素人さんの発言をまとめた下記の史料編からその点を指摘しておきたいと思います。

アテルイの「首塚」と牧野阪古墳(史料編)20200531.pdf

 素人さんたちは、日本史の研究者ならば誰もが知っている石井進氏を【1360・1524・1535・1537】では「石川進」と間違えています。中世史研究者の藤田恒春氏も、【1345】では「藤田恒一」とされています。肝心の批判対象である私ですら、【1068・1072・1079・1080・1082・1096・1098・1120・1142・1145・1146・1148】では「馬部隆俊」となっています。下の名前が間違えられるのは、私にとって珍しい経験です。

 「枚方市字阪の一古墳概報」(『古代学研究』第9号、1954年)を執筆した宮川徏氏も、【373・1590・1591】では「宮川従」、【1451・1452・1457・1459・1463・1666・1667・1668・1684・1685・1686・1687・1732・2568・2633・2634】では「宮川徒」、【1659・1660・1662・1664・1665・1667・1668】では「宮川渉」と誤記されています。これはかなりひどいです。

 しかも、挙げ句の果てには【1666】で、「宮川徒」氏と「宮川徏さんとでは、ススムの文字が違うので別人の可能性が高いです」とまで言い切ってしまいます。戦後まもなくの1949年に発行された『古代学研究』第1号では、ガリ版刷りなので「宮川徏」と正しく記されていますが、1954年の『古代学研究』第9号では、「徏」の活字がなかったとみえて「徙」(音読み「シ」訓読み「うつ」る)の字が代用されています。そのためこのように混乱したようですが、そうだとしても原典にある「宮川徙」の引用事例がただの一度もないのは、思い込みが激しいことを露呈しているといえます。前回も引用した【2639】の一言を転用させていただくと、「出典元に書いていないことを引用するのは #研究不正」なのではないでしょうか。

 『古代学研究』第100号の総目録では「徙」は「徏」に訂正されていますし、執筆者索引では第1号と第9号に執筆したのが同一人物であることも確認できます。そもそも、近畿地方で古墳の議論をするのに宮川氏のお名前すら知らないのは、とても恥ずかしいことです。

 【2176】の「偽物だとわかりながら京都国立博物館勤務の影山春樹氏は #椿井文書 と言われてる『興福寺別院山代國綴喜郡観心山普賢教法寺四至内之圖』を昭和50年頃三重県の古書店で購入し観音寺へ周旋し」「地域住民をペテンにかけたのですか?」というツイートもずいぶんとひどい言い分です。「影山春樹」氏に対する同様の発言は、【2193・2196・2340・2409・2477・2478・2479・2561・2622】にもみえます。決して「ペテンにかけた」のではなく、京都国立博物館の技官をもってしても、椿井文書の実態までは把握できていなかったんです。なお、この絵図は昭和43年発行の『京都府田辺町史』365頁に観音寺所蔵のものとしてすでに紹介されているので、素人さんは購入年代も勘違いしています。

 そして【2499】では、「馬部隆弘氏はよくこの絵図を取り上げる際にこの経緯に言及していないけど、言及していたら印象はガラリと変わると思う」と、「影山」氏が関与したという経緯を私があえて伏せたような言いかたをします。たしかに素人さんのおっしゃるとおりかもしれません。私は新書の115頁で、「景山春樹の斡旋により三重県の古書店から購入したもの」と説明しており、「景山」さんの話はしていますが「影山」さんの話はしていませんので・・・と、笑い飛ばしたいところですが、なかなかそうもいきません。

 なぜなら、私が書いたことをないことにして、「隠蔽」したと指摘するのが素人さんたちの常套手段になっているからです。例えば、【560】にあるように、「馬部さんが、1979年3月25日河北新報報道を隠蔽して」「最も重要な報道を隠した」「酷い書籍」といった具合です。私は『由緒・偽文書と地域社会』277頁で『河北新報』の同日記事を引用しているのですが、それをなかったことにするのです。これを悪意とみるべきか、日本語読解能力の限界からくる思い込みとみるべきか、非常に悩ましいところですが、冒頭でみた小芝居、その次にみた人名の間違い、そして「隠蔽」の指摘の数の多さからして、悪意と思い込みの両方が合わさっているとみるのが妥当なところでしょう。

 以上のように、小芝居や人名の間違いから、ここまで性格が透けてみえてしまいます。変なレッテルを貼られないためにも、名前の間違いには気をつけましょう。