富士錦酒造では、岩手県から来た杜氏さんと蔵人さんたちが酒造りをしています。
岩手からの杜氏さんは「南部杜氏」と呼ばれ、越後杜氏、丹波杜氏と並ぶ
三大杜氏のひとつで、かつての南部藩、現在の岩手県が本拠地です。

 
 現在では、お酒を造る技術者のことを「酒造技術者」と呼んでいますが、その技術者の長である人のことを「杜氏」と呼び、それ以外の技術者のことを「蔵人」と呼んでいます。
 「杜氏」は「酒造り」に係る全般を「蔵元」から任され、蔵内の一切に関する仕事の長として「蔵人」全員に指揮をする指揮官のような存在で、「もろみ」をいつ絞るか、いつ仕込みをするかなど、いくら「蔵元」であっても「杜氏」に指図することは出来ません。
  有史以来の歴史を持つ酒。平安時代に酒の醸造技術が確立され、江戸時代に花開いた、この酒の醸造技術を伝承する「杜氏」は、酒造りには無くてはならない存在となっています。
 現在、富士錦酒造では、「畑福 馨」杜氏を筆頭に数人の蔵人たちで酒造りを行なっています。

 
 南部藩下において、清酒を産業として製造し始めるのは、1606年前後、盛岡城下でのことです。酒造りはもっと古くから行われていたのですが、それは自家醸造の規模を脱しませんでした。
  産業としての清酒造りの技術を上方から導入したのは、当時南部藩の経済を支配していた村井・小野という姓を持つ近江商人たちでした。
  1798年には江戸からの注文200石を受けるまでになり、18世紀の中頃には、外来の杜氏の技術を学んだ地元の杜氏たちが、その後継者として酒造業を営むようになります。これらの杜氏は、特定の酒造に専従する杜氏を本業とする商人であったと言われています。
  これら近江商人とは別系統の杜氏たちもいました。近江商人から委託されて、農業の副業として少量の酒造りをしていたようです。
  商品品質のばらつきを低減するために、近江商人は専従杜氏に農家を巡回指導させていたとのことで、こうして、農村部に上方流の清酒製造技術が広まったと考えられています。その技術は師弟へ伝承されて、やがては、出稼ぎ杜氏たちを生み出すことになります。
  ところで、南部杜氏という言葉は、自称ではなく、他領のひとたちが「南部から来た杜氏」という意味で呼んだことが原義です。南部藩は明治3年まで出稼ぎを禁止していましたが、現実には、いろいろな文献から何らかの出稼ぎが行われていたと推測されています。いずれにせよ、出稼ぎの意味するところは、南部杜氏の技術の優越性でした。仙台領内の酒造よりに比べて、南部杜氏は同じ領の米から1.6倍もの清酒を得ることができたと文献は記しています。

 
 2004年(平成16年)の統計によれば、南部杜氏協会員数は922人、杜氏総数は287人、杜氏が就労している蔵数は285場となっています。ほぼ全国に分布していますが、九州と沖縄には南部杜氏はいません。
  南部杜氏協会会員は1965年(昭和40年)に4,153名を記録して以来減少傾向を示しており、2006年(平成17年)5月31日の時点での南部杜氏の数は287人、南部杜氏協会会員の数は922人となっています(南部杜氏協会調べ)。


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