キューブリックはあまり自作について語りたがらない印象がありますが、少なくとも『時計じかけのオレンジ』の頃までは饒舌に語っています(この後、『時計…』が暴力的だとマスコミに糾弾され、露出を避けるようになります)。以下は評伝『映画監督スタンリー・キューブリック』からの抜粋です。理解している方にとっては蛇足でしかありませんが、とまどった方には参考になるかと思い、一部を掲載したいと思います。
小説は二部構成になっている。それは、ある個人を監禁し、その自由や自由意志を奪って時計じかけのオレンジ、つまりロボットのような人間に作り変えることが道徳的に許されるのかという社会学的な問いかけだ。そしてこの話の魅力はアレックスの性格にある。リチャード三世もそうだが、アレックスはその賢さと回転の速さと素直さで、どういうわけか観客を自分の味方に引き入れてしまう。彼が象徴するものはイドだ。それは我々の中にある抑圧された残酷な側面、罪にならないけど、レイプを楽しむのと同じようなものをもっている側面なのだ。
みんな偽善的な態度を取るけれど、みんな暴力に惹かれているというのが実情だ。何と言っても、この地球上でもっとも無慈悲な殺し屋は人類なのだ。私たちの暴力に対する関心は、潜在的なレベルでは遠い祖先と大差ないことを示唆している。
アレックスが受けるルドヴィコ療法は、社会的規範と自分自身の間の葛藤に由来する神経症と見ることができる。だからこそわれわれは、アレックスが『矯正』された最後のシーンを愉快に思う。仮に映画を『白日夢』と捉えるならば、この幻想のような象徴的なメッセージは、見る者を左右する強力な要因だ。夢は意識化されないものを見せるものだと考えると、映画も夢と同じような作用を持っていると言える。
そしてキューブリックは書籍『キューブリック』でのミシェル・シマンとのインタビューで、この問題を以下の様に総括しています。
今日私たちが確実に直面している最も挑戦的で困難な課題の一つとは、国家が抑圧的にならないで、如何に社会を制御するのに必要な節度を保つことが出来るのかということだ。それに、合法的で政治的な解決が遅すぎると考え始めているせっかちな有権者に対峙しながら、国家は如何にしてそれを達成できるかだ。国家はテロリズムや無秩序の向こうに亡霊がぼんやり現れているのを知っている。そして、そのことが大きすぎる反作用の危険を増やし、私たちの自由の縮小を促している。生活の全てがそうであるように、これは正しい均衡を模索するという問題であり、ある程度幸運の問題でもある。
キューブリックが逝去して2年半ののち、キューブリックの生まれ故郷であるニューヨークで911テロが起こりました。それは国家が権力による抑圧と制御の正しい均衡を模索している間に、テロリストにとっての数々の「幸運」が引き起こしたテロでした。バージェスとキューブリックはそれが起こる30年も前に、その本質と原因を『時計じかけのオレンジ』で看破していたのです。
では、キューブリックが皮肉っぽく指摘した「合法的で政治的な解決が遅すぎると考え始めているせっかちな有権者」である私たちは、一体何を考え、何をすべきなのでしょう? つまるところそれはキューブリックが言うように「正しい均衡を模索」するしかないのですが、その「正しさ」とは何なのかは、ラストシーンの不気味とも、歓びともとれるアレックスの「イった表情」から各々が読み解くしかないでしょう。