ご身内のかたですか!?
救急車乗ってください!
彼の血液型は
もうすぐつきますよ
佐久間さん、聞こえますか
大丈夫ですか
脈が……
「至さん」
不鮮明だった頭の中が、突然覚醒する。ぱち、と目を瞬いたら、座っている自分の足元が見えた。
肌寒い色をした床。あたりに灯りがないのか、薄暗く見える俺の足元。履き慣れた靴に、赤黒い汚れが染み込んでいるのがありありとわかった。
血生臭い匂いが鼻に届いた気がして、う、と息を呑み顔を上げる。
ぼーっと見上げた声の主。落ち着いた表情で俺を見下ろしていた綴は「はい」とぶっきらぼうに何かが入ったトートバックを渡してくる。
俺が虚ろな目でそれを見つめれば「着替え」と短く答えた。
「ズボン。血まみれだったって監督が、」
言いかけて、突然言葉が詰まっている。彼の視線を辿れば、俺の足元を向いていた。
よくよく見れば、靴だけではなくズボンの裾まで汚れている。全く気づいていなかった。他人事のように「あーあ」と小さく呟く。
徐々にここへ至ったまでの記憶が甦る。
病院の廊下。
ちら、と右側に視線を送れば、突き当たりに両開きの重厚な扉がある。
天井近くにあるのは赤いランプで記された「手術中」の文字。どれだけここにいたかは思い出せないが、先の綴の話を聞くと、彼がくる前にどうやら監督さんがきていたようだ。
知らなかったな、と心で呟きながら息吐くと、離れた所から人の話し声が聞こえる。
女の人の声。どうやら電話をしているようだ。鬱陶しそうな、うんざりしたような声色を聞いて、綴が短く「ああ、」と呟いて目頭を揉む。
「監督が言ってました。親戚に連絡入れたって」
「……何て言ってるの」
「聞こえないんすか?」
「ごめん、今耳働いてないわ」
「……聞こえなくてよかったです」
はぁ、と深いため息をつき、俺がいつまで経っても受け取らない荷物を持ったまま、綴は俺の隣に座った。黒い革張りの、少し硬いそれが「きしっ」と音を鳴らす。
「寮のみんなは、一応落ち着いてるよ」
「そう」
「なにがあったかも、概ね聞いてる」
「ふーん」
「……言ってくれればよかったじゃないっすか」
言ってくれば。
その言葉を反芻した。
周りに知らせず、コソコソと俺と千景さんに話しに来た監督さんの顔を思い出す。
顔面を真っ青にして、震える唇で必死に言葉を紡いでいたあの表情を思うと、そう易々口を裂くわけにはいかないと思ったのだ。
綴の訴えを無視して、自分の骨ばった指を見つめる。
ゲームをしすぎているせいか、人よりも長い気がするそれを擦り合わせてみた。ガサガサと乾燥した肌心地が、今の心境とシンクロするようだった。
ふと、頭に今日見た舞台の映像が蘇った。
喧騒に呑まれた劇場。何事かと話し始める観覧者。幕を下ろせと怒号を飛ばすスタッフたち。
意図せず終幕を迎えていく舞台の上。
呆然と天を仰ぐ咲也の姿が脳裏に浮かんだ。
何かを見て、ジッと動かないその姿。悲しげな表情を浮かべ、見つめる先に何があったかはわからないけれど、あの後、咲也が言い放った言葉が耳から抜けない。
「死んでいればよかった」
あの時、あの時、と。
言い零した言葉が、ぽつぽつ、と俺の耳の奥に落ちる。
その悲しい音に耐えられなくて、俺は無意識に耳を掻き毟る。
咲也があんなことを呟いたわけ。呟かせざるを得ない彼の心境に、気づいていながら何もできなかった自分が許せない。
何もできなかった。守ってあげられなかった。
もしこのまま咲也が死んでしまったら、どうしよう。
この先一生、咲也に何もしてあげられず終わると思うと、自分の無力さに腹が立った。
所詮、やっぱり血だったのか。
ぽそ、と呟く。すぐ隣にいた綴だけれど、彼は俯いたままで顔を上げない。聞こえていないのか、聞こえないふりをしてくれているのか。どっちだって、今はどうでもよかった。
執着し続けていた血縁関係。
彼と縁者ならよかったのにと、叶わないと知りながら願い続けたこと。
どうやったら彼を守ることができるのだろう。
俺みたいなちっぽけな存在に。
赤の他人に一体なにができたと言うのだろう。
考えれば考えるほど、答えが見つからなくなっていった。
はぁー、と小さく息をついた時。かち、と音が鳴って顔を上げる。見れば赤く灯っていたランプが消えていた。それに気づいた綴がいち早く立ち上がる。
重厚な両開きの扉が開く。そこから一人、手術着を来た男の人が出てきた。マスクを外し、ちら、と俺たちを見るその人の目を見て、ゆっくりと立ち上がる。
けれど足が動かない。むしろ一歩下がった。
さっきから廊下に響く、女の人の話し声。
彼が向かうべき先は、その人の元だった。
「終わりましたよ」
だからはじめ、その声がなんなのかわからなかった。
汚れた足元に落としていた視線を、ふと上げると、男の医者は無表情で立ち止まり俺をジッと見ていた。
「あの、俺たち身内じゃ、」
綴にも思うことがあったのだろう。
視線を泳がせながら、そう呟いた。おずおずと、俺たちにしかわからないように、声のする方を指差す。
すると、その先を見た先生は「……ああ」と無愛想に声を吐き出した。
「見ればわかるよ」
けろっと言い放った彼に、綴が面食らった。じゃあ向こうへ先に、と促そうとした時。
「誰が彼を大事に思ってるかくらい、見ればわかるから」
そう言った。
スーッと。
突然、その場の空気が澄んだ気がした。
はっ、と息を吸い込むと、妙に喉が痛んで、咄嗟にそこへ手を伸ばす。熱を帯び始め息苦しくなり、つい眉間にシワが寄った。
そんな俺の姿を見ながら、男の医者は「しばらく入院になるから」と簡潔に言った。あまりにも簡単に言うものだから、綴が静かに瞬きを繰り返し「え?」と声を零す。
「咲也、無事なんですか」
「無事だよ、大丈夫」
そう聞くと、綴はみるみる顔を輝かせ、勢いよく俺を振り返ると「みんなに電話してくる!」と声を上げて廊下を走って行った。
綴の小さくなっていく背中を見送って、人知れずホッと息をついた。目の前まで持ち上げた指先が、僅かだが震えている。緊張が解けて、力が抜けたのかも知れない。立ち上がってすぐだけど、足に力がなくなり座りたくなる。
「君は、」
先生が突然、俺にそう呼びかける。え?と首を傾げながら見れば、彼はシワの目立つ目元を押さえながら言葉を探していた。
「君は、その、彼と仲よくしてくれているのかい?」
彼、と呼びかけられた人物が一瞬誰だかわからなくて、咲也のことかと気づいたと同時に、疑問が過った。
彼と仲よくしてくれている。
どうしてただの医者が、一患者の交友関係が気になるのだろう。
精神的な支えがあるかの確認なのか。医療系の仕事では重要なことなのか。
考えあぐねていると、俺の視線を感じたのか、先生は「違うんだ」と手を振る。
「少し、彼のことを知っていたから。彼に身内と言える身内がいないことも。だからここへ救急車で運ばれてきたとき、あの子の顔を見て、あの子と一緒に来たっていう君を見て、気になってしまっただけだよ」
気を悪くしたらすまない、と言って、先生は踵を返してしまう。その背中に、俺は慌てて声をかけた。
「劇団の仲間なんです」
「……劇団?」
「さく、……彼、いま劇団にいるんです。芝居をしています」
そうか、と呟くと、先生はふー、と小さく息を吐いた。その横顔は相変わらずの無表情だけど、どこか微笑んでいるようにも見えた。
「……あの、」
その横顔を見ていたら突然、言葉が勝手に出た。は?と内心で驚く俺の視線の先、先生が無表情で俺を振り返る。
「俺は、どうすればいいですか」
「……」
「血縁でもない、身内でもない俺は、どうやって彼を救っていけばいいですか」
どんどんと溢れる言葉。歯止めが利かず紡がれた言葉の数々を、先生は黙って俺を見据えて聞いていた。
咲也を守りたい。傷つけたくない。ずっと笑っていてほしい。
生きていてほしい。
その気持ちが人一倍あるというのに、俺は彼のために何もしてやれない。
舞台で涙をながしていたのも、交通事故だって。
俺はただただ見ているしかできなかったのだ。
何もしてやれない、助けてやれない。
どうやって彼を守ってやれるのか、その答えが欲しかった。
先生なら、教えてくれるとでも思ったのか。無意識に吐いた、心の声を先生は一つ一つ、噛み砕くように目を閉じて聞いてくれていた。
十分に吟味して、彼が目を開けたのは数分後だった。
「人は必ず死んでしまう」
その言葉は、医者が吐くべき言葉ではない気がした。
「こんなこという医者はダメだと思うが、永遠に生きる人間なんていないよ」
俺に体を向き直し、先生は真剣な表情で続けた。冗談ではない口調で、話している。
「大病だろうが、事故だろうが。はたまた、自死だろうが。形はどうであれ、いずれみんな死んでしまうんだ」
身内だろうが、そうでなかろうが。
相手を傷つけることはあるし、守れないことだってある。
全部が全部、望んだ通りにことが進むなんてありえないんだと、先生は語った。
「肝心なのは“それまでに自分が何をしてあげられるか”だよ」
言って先生は、薄らと口元を緩める。
「明日大事な人が死ぬ、とわかっていたら。今日はその人にやさしくしてあげようと思うだろう。でも人がいつ死ぬかなんて、誰もわからない。十年後病気になって死ぬかも知れないし、明日事故にあって死ぬかもしれない」
だからね、と言って先生は俺に歩みを進めた。どんどんと詰められる距離に俺が怯んでいると、先生は何の躊躇いもなく俺の肩を片手で掴む。
「“いつか死ぬ彼のために、してやれることをしてやればいいんだよ”」
胸の中にある、水の入ったコップ。
溢れる寸前だったそれに、ポツンと雫が落ちた。
それが最後。満タンに溜まっていたコップの水が、縁からじゃぶじゃぶと流れ出す。
何かしてやらねば、助けてやらねば。守ってあげなくては、自分が彼を守らねば。
でも身内でもない自分に何ができるのかと。
焦って悩んで、急いていた気持ちが徐々に綻んでいく。
硬く結ばれていた紐みたいな気持ちが、ゆるゆると解けていった。
「何かしてやらなくてはいけない、という思いで彼に接してやらないでくれ」
「あの、」
「君が側にいてくれるだけで、彼は十分幸せだと思うよ」
と。言い残して先生は未だ電話する女性の元へと向かった。
薄らと目尻に涙が溜まった。それを静かに、指先で払って笑う。
それだけでいいんだ。
たったそれだけで、咲也のためになるんだ。
『それが救いだっていうやつもいるんだよ』
いつかの日の千景さんの言葉が蘇って、つい笑う。
ああ、彼のために今できること。
考えずともそんなこと、直ぐにわかった。
目覚めた彼に、いち早く声をかけてやろう。それが今の俺にできることだろうから。
*****
夕飯過ぎに寮へ帰宅すると、ほとんどの人間が談話室に集まっていた。
特にすることはなく、ただみんなで団欒を楽しんでいたようで、仕事帰りの俺が「ただいま」と顔を覗かせれば「おかえりなさいー」と元気よく声をかけてくれる。
「至くん、何持ってるの?」
ダイニングテーブルで東さんと台本の読み合わせをしていた紬が、目ざとく俺が両手で持つ紙袋を見つける。ずっしりと重いそれは、ひ弱な俺が持つにはあまりにも重すぎる物だった。
よいしょっと。声をかけながらテーブルにそれを置く。勢いがあまり、縦に長い紙袋は倒れてしまって大量にあった中身が一瞬のうちに転がり出てきた。周りが「ああああー!」と叫びながら、テーブルや床に落ちていくそれを拾っていく。
「これ、桃?」
床の桃を拾いながら、幸が片眉を上げて訊いてくる。そうそう、と答えながら、二つある紙袋から全部取り出しテーブルに並べた。
そしたら圧巻。テーブルのほとんどのスペースを桃の大群が占領してしまう。
「枇杷とか無花果の人なの、また」
「味しめたよねー、あの人」
「女の人?」
幸の問いに答えていたら、ソファーに座っていた万里が卑しい笑顔を浮かべながら訊いてきた。なんでそんなにも腹たつ笑い方をしているかは知らないけれど、事実だから「そうだよ」としかめっ面で答える。
「うわぁイヤらしい」
「何がだよ」
「下心アリアリで寄ってくる人に貢がせてんの」
相手、相当年配なんだけど、という俺の反論は背後からやってきた「わぁぁぁ!」という声にかき消された。慌てて振り返れば、風呂に行っていた咲也が綴と一緒に戻ってきたところだった。
湯上りで体から湯気が上がる彼は、目を輝かせテーブルを占領する大量の桃を眺めていた。凄い量ですね、と笑いながら一つ手にとり、部屋の灯りに透かすようにそれを頭上に掲げ始める。
「至さん!この桃!すっごく美味しそうですね!」
嬉々として語る彼の姿を、俺は眩しいものを見る心地で眺めた。光に透かしながら、両手で桃をおさめる彼の姿を、ずっと心に植えつけていようと思う。
今日の出来事が、彼にとって良きものでありますように。
そう願いながら上着を脱ぎシャツの袖を捲り、彼が見つめる中で一つ桃の皮を剥いてやった。