服を脱いだらちょうど膝の辺りに生傷があることに気づいた。わりと大きめな、よく見れば少しだけ血が滲んでいる。
いつ出来たんだろう、と。
思いながら脱衣所でドンドンと服を脱いで、湯船を目指す。
今まで気づかなかったくらいだ。別に水につけても大丈夫だろう、と、桶で掬ったお湯を全力で体にかぶせた。
そして後悔。
「い、っ……!」
「どうした咲也?」
先に湯船につかっていた綴くんが不思議そうに首を傾げる。苦笑いしながらそれに振り返って、頬を掻きながら答えた。
「何でもないです」
***
傷の存在に気づいた途端、地味な痛みを感じ始めて気が散った。鈍い疼きに耐えながら談話室にいる監督に絆創膏の有無を訊ねると、テーブルで作業をしていた監督が目を丸くする。
「え、咲也くん怪我したの?」
「いえ、たいした怪我じゃ、」
言って寝間着のジャージの裾を、膝上まで捲し上げた。水に濡れてツヤツヤに輝いていた傷口を見た途端、監督が絶叫し椅子から転げ落ちる勢いで立ち上がる。
「え!? 痛かったでしょ! ちょっと待ってね」
慌てて救急箱を探す監督を尻目に、ソファーでパッチワークをしていた幸くんがオレの傷を覗き込む。
「うわキモ。パックリじゃん。どこでつけてきたの」
「ば、バイトかな……」
「バイトって昼前には帰ってきてたじゃんか。気づかなかったわけ?」
苦笑いしか返せない。自分の体なのに、どうしてこんなにも鈍感なのか。
自身が負った傷なんて、自分以外の誰も気づいてくれるはずがないのに。
そう思うと、これもまた子供の頃のトラウマなのかなと思い出す。
怪我なんてしたら、周りに迷惑をかける。
誰にも見られないように隠しておこう。
痛くない、痛くないから。
——意識が子供の頃に戻る。
真っ暗な部屋の真ん中で、掛け布団を頭からかぶって、怪我をした膝を抱えて息を殺した。
見つかっちゃダメだ、怒られる。思って傷口から溢れ出てくる血を眠たくなるまで眺めていた。
今でも膝を見ると、あの時の傷跡がハッキリと残っている。ちゃんと手当をしなかったせいで、膝に凹凸の傷跡ができてしまっていた。
今回の傷は、その傷跡の上に少し重なっていた。なんて運のない膝なんだろう、と。可笑しなことを考えると気持ちが少し浮上する。
「ごめん咲也くん」
遠のいていた意識が、監督の声で戻ってくる。監督は眉を八の字に下げ、申し訳なさそうに手を合わせた。
「絆創膏切らしてたみたいで」
「あ、そうだったんですね」
「私買ってくるから」
そう言って出て行こうとする監督を、まず止めてから壁の時計を見る。
もう夜の十時を回っているのだ。
「カントク! もう時間が遅いんで大丈夫です!」
「でも、」
「ならオレが行ってきますから」
そう言うと、監督は眉間にしわを寄せる。
「前も咲也くんに言ったよね。あんまり夜に出歩かないでって。それにこの前のことがあるから……」
ブツブツと呟き出す監督。それを幸くんがジト目で見ている。
「この前のは解決したことになってんじゃん」
「でもねー……」
「ならカレー星人一緒に行けばいいでしょ。オレ、ココア」
そう言ってパッチワークを再開する幸くんに「ぬかりなーい」と監督は手を叩いて笑った。ちら、と見たテーブルの上が、監督の私物の資料まみれになっていて、安易に忙しんだなと想像できる。
「あの監督、オレ一人で行けるんで、大丈夫です」
その言葉に二人は顔を見合わせる。うーん、となかなか引かない監督の横で、幸くんが「あ!」と声を上げた。
「子守きた」
「子守?」
「ほら、音する。車の」
幸くんの言葉に監督も納得したように声を上げると、そのまま資料の並んだテーブルを前に着席してしまう。せっせと生活費用の財布からお金を出して「絆創膏と消毒液もお願いね」と首を傾がせて笑った。
呆気ないほどの引きさがり方。
なぜ突然、手のひら返したように対応が変わったのか。わからないまま挙動不審に目を泳がせる。二人は不敵な笑みを浮かべるばかりだった。
「ただーいま」
と、そこへ誰かが帰宅。おかえりなさーい、と座ったまま声をかけると監督は、突然態とらしい声で話し始めた。
「ええー? でも咲也くん、夜に出歩くのはとっても危険だよー」
「え?」
あれ? と。さっきと話の流れが結びつかず、まるでページがバラバラになった絵本を読んでいるような感覚になる。
お金をくれたってことは買いに行ってもいいってことじゃないのか?
そんな疑問に一人唸っていると、幸くんも監督同様、大げさな身振りで話し始めた。
「でもー、怪我してるんだからー、しょうがないじゃーん」
「だからってー、一人で夜道を歩かすわけには、」
「大丈夫ですよ! オレ一人で行けま、」
「どこ行くって?」
ヒヤ、と胸の下の方が冷える。勢いよく声の方を振り返れば、談話室の入り口に至さんが立っていた。
「い、至さん、おかえりなさ、い」
語尾が小さくなる。と言うのも、帰ってきて早々、オレを見る至さんの目がドンドンと濁っていくからだ。
ひ、と心の中で声が漏れる。
動転しているオレの気など知りもせず、幸くんが相変わらずの大袈裟な喋り方で話し続けた。
「咲也がー、一人で今からお買い物に行くらしいんだけどー」
「……へぇ?」
今から? と自分の腕時計を確認する至さん。短針がさす数字を見て、顔を顰めていた。
その表情に、また「ひいぃ」と声が漏れそうになる。背筋が伸びて、必死でこの場を切り抜ける言葉を探した。
今までどうやって切り抜けてきたっけ。どんな嘘をついて誤魔化してきたかな。今回の場合は絆創膏を買いに行くと言う名目は決まっているから、バレない嘘なんて……。
考えていて、思考が止まる。
頭の中をクルクルと回っていた言葉の数々は、オレが息を吸えば、まるで逃げ去るようにその場から消えてしまった。
そっか。
偽りの言葉なんて、もう必要ないんだ。
この人相手に。
「至さん」
恥ずかしがって出てこない言葉を必死で舌の上に乗せる。目も合わせられず、小さく頬を掻きながら「へへ」と変な笑い声が漏れた。
「オレ、怪我しちゃって、今から絆創膏買いに行こうと思うんですけど、」
ちら、と上目遣いで至さんの表情を見上げる。
朝出た時のままの、キッチリした姿。仕事を遅くまでしても、全くそれを表に出さない彼が、少し口元を緩ませてオレの声を待っている。
そうだ、この人に嘘は通じないんだ。
思って真っ直ぐと至さんの顔を見て、言葉を伝えた。
「よかったら一緒に、ついてきてもらっても、いいですか?」
自然と笑顔が浮かんだ。
誰かに甘えることがこんなにも照れ臭くて、むず痒いものだなんて、初めて知った。
自分の甘えを許してくれる人がいるということが、こんなにも幸せだなんて。
ぎゅ、と胸が締め付けられる。
至さんはオレの頬が赤くなるのを見ていたようで、しばらく何も言わなかったけど、小さく吹き出すとオレの頭に手を乗せてくる。
「いいよ」
ちょい待ち、といいながら持っていた鞄を廊下に投げ捨て、財布とスマホだけを持ち俺より先に玄関へ行ってしまった。
「ほんっっっと単純エリート」
「至さーん、わたしたちアイスクリーム!」
「太るから却下ー」
えええ、と二人の抗議の声を背に聞きながら靴を履き、扉を支えてくれていた至さんの横をすり抜け外へ出る。
「わぁ凄い! 夜なのに明るいですね!」
街灯のない道の真ん中。満天の星空を見上げて声を上げた。
青と緑を混ぜたような色の夜空。そこに点々と散りばめられた輝く星々。オレが嫌いだった真っ黒な夜とかけ離れた景色に、つい見惚れる。
「……夜もいいでしょ?」
「知りませんでした、今まで。こんなに明るかったんですね」
夜出歩く時は、真っ暗な夜を見ないように下を向いて歩いていた。夜空がこんなにも明るく綺麗なものだなんて、子供の頃のオレが聞いたら泣いて喜ぶかもしれない。
至さんと二人、並んで歩く。その道すがらずっと、オレは夜空を見上げて歩いていた。
暗くない夜に、隣を一緒に歩いてくれるのは、かけがえのない人。
星空から視線を至さんに合わせ、薄らと微笑みかければおんなじように笑い返してくれる。
そんな優しい人と時間を共有できることが嬉しくて、思わずヘタクソなスキップなんかをしてしまう。それを見て至さんが声を出して笑ってくれた。足の傷のことなんて、すっかり忘れていた。
今までは恋しくて仕方なかった日の出だけど、今日だけはまだ月の見守る時間を生きていたい。
どんどんわがままになっていく自分に、つい笑ってしまう。これからもずっと“甘えた”になっていくだろう。
至さんが許してくれる限り。
彼がオレの甘えを受け止めてくれるのであれば、オレも彼に尽くし続けよう。
そう密かに心で誓った。