いま、もっともホットな嫌われ者
いま、世界でもっとも注目を集める社会正義思想が「ポリティカル・コレクトネス(略称:ポリコレ)」である。その名前を耳にしたことのある人も多いだろう。
これはもともとアメリカの公民権運動が初出の概念であるとされるが、現在では女性、子ども、性的・人種的・民族的マイノリティーなど「弱者」とされる人びとに対して、彼・彼女らの心情や尊厳を害しないよう表現や記述に《配慮》を求める思想として理解されている。
いま、もっともホットな嫌われ者
いま、世界でもっとも注目を集める社会正義思想が「ポリティカル・コレクトネス(略称:ポリコレ)」である。その名前を耳にしたことのある人も多いだろう。
これはもともとアメリカの公民権運動が初出の概念であるとされるが、現在では女性、子ども、性的・人種的・民族的マイノリティーなど「弱者」とされる人びとに対して、彼・彼女らの心情や尊厳を害しないよう表現や記述に《配慮》を求める思想として理解されている。昨今、アメリカに端を発する「BLM( Black Lives Matter)運動」の流れに乗じて「ポリコレ」は勢いを増し、とりわけ世界のエンターテインメント産業はその流れに一気に呼応する形となっている。
現在、アメリカでは、コンテンツ内容や記述が「ポリコレ」に準拠しているかどうかの審査がきわめてナーバスになっている。それだけではなく「人種差別」や「性差別」を想起させるようなものであれば、たとえプロスポーツのチーム名であろうが例外ではなく、「ポリティカル・コレクト」な形に改善が求められている(※1)。
トランプ大統領はこうした流れに対して明確に反対を表明している。世界的な潮流となっている「ポリコレ」に反対しているのは、もはや彼だけのように見える(※2)。
しかし実際のところでは、ポリコレ発祥の地アメリカでは、直接口に出すことはなくとも、内心ではポリコレ思想を強く嫌悪している人が8割近くいるという調査も存在している。本心からポリコレ思想を支持しているのはきわめて少数の進歩的な目覚めた人びとであり、その他大多数は「疲れ果てた多数派(exhausted majority)」なのである。
「疲れ果てた多数派」のほとんどは、ポリコレ文化を嫌っている。全体の80%が「ポリコレはこの国の問題である」と考えている。若い世代の間でも、24~29歳の74%、24歳未満の79%が、ポリコレ文化には息苦しさを感じている。若年層にかぎらず、ポリコレに目覚めた人びとは、すべての年代で明らかに少数派である。若さがポリコレ文化支持者であることの指標とはならないのと同じく、人種もそうである。ポリコレ文化がアメリカの問題であると考えている白人は79%であり、平均よりもわずかに低いだけだ。アジア系では82%、ヒスパニック系では87%、アメリカ先住民では88%、それぞれポリコレ文化に反対する。-----The Atlantic『Americans Strongly Dislike PC Culture』(2018年10月10日)より引用 ※和訳は御田寺による
「疲れ果てた多数派」とされる人びとが、声を大にして「アンチ・ポリコレ」をアメリカ社会で表明することはできない。なぜなら、迂闊にそのような言明をすれば「差別主義者」というレッテルによって社会的名誉・仕事を即刻失う「キャンセル・カルチャー」のターゲットとなってしまうためだ。日本では想像しづらいが、アメリカにおける「差別主義者」のレッテルは、一度その身に貼り付けられればすなわち社会的な死を意味するほどに重みがある。
アメリカほどポリコレへの同調圧力(とポリコレ違反者へのペナルティ)の強くない本邦では、まだまだ自由にポリコレに対する嫌悪感や批判を表明する余地が残されており、「反ポリコレ」の立場を鮮明にしながら議論を展開する論者なども、数は少ないが存在する。
社会正義に目覚めて、ポリコレを篤く信奉する人びとは「ポリコレに反する人がいる」ことに驚きと怒りを隠せない。彼・彼女たちからすれば、ポリコレ文化はそもそも「よい/わるい」「妥当か否か」といった相対的な批判的検討にかけられるべき概念ではなく、すべての人が無批判・無条件に支持・賛同すべき道徳律であると考えているからだ。
ゆえに「反ポリコレ」とまではいかないまでも「ポリコレに対して諸手をあげて賛同しかねる人」にさえ「お前は差別したい自由を守ろうとしているのか!? この差別主義者!! 野蛮人!!」といった攻撃性を発揮してしまう。「あなたの怒りはただしい」とお墨付きを与えられた時の人間はもっとも峻烈である。
といった、比較的穏当な主張も日本ではSNSなどでよく見聞きする。しかしながら、これも的外れな主張である。ポリコレが批判されたり、反対されたりすることに我慢ならない人も含め、ポリコレを支持し、これを信奉する人は往々にして大きな勘違いをしている。
嫌われているのは「ポリコレファン」
結論を言ってしまえば「ポリコレ」が嫌われているのではなく「ポリコレファン」が嫌われているのである。
ポリコレを信奉する人びとはしばしば「ポリコレが嫌われている」「ポリコレが息苦しい」というが、これはあまり正確ではない。より正確には「ポリコレでこの社会の表現や言論すべてを染めようとする人たちが押し寄せてくるのが嫌われている」のである。「ポリコレに反すると、ポリコレを篤く信奉する人びとが『正義』と書かれた旗を掲げ、目を血走らせながら押し寄せてくるのが息苦しい」のである。
表現の自由を擁護する人は「ポリコレを嫌う人」と重複していることが多い。しかしそうした人の多くは「ポリコレ文化」を嫌っているのであって「ポリコレ表現」それ自体の存否を問うているわけではない。いうまでもなく、表現そのものは基本的人権として擁護される自由だからだ。今般「ポリコレが嫌われる」理由のほとんどは、その表現自体ではなく「ポリコレを好み、これを信奉する人びとの異常な押しつけがましさと攻撃性の高さ」にある。
「ポリコレ文化」は、それを楽しみたい人が集まって楽しめばよいのにもかかわらず、「ポリコレファン」たちがそれを「普遍的スタンダード」にしようと「ポリコレ文化」を好きでもなければ支持しているわけでもない他所に強要することに、ポリコレが嫌われる理由のほとんどすべてが凝縮されているといっても過言ではない。
「ポリコレ文化」に反対を表明する人であっても「ポリコレ表現」自体には賛成するだろう。いうまでもなく、それもまた表現の自由・言論の自由のひとつであるからだ。問題は「ポリコレファン」である。「ただしさ」を獲得した人間に特有な傲慢さと押しつけがましさが全面に押し出されるからからこそ「ポリコレ」は嫌われる。名曲をたくさん世に送り出すのに、熱心なファンがあまりにも鬱陶しくて敬遠されるミュージシャンのようなものだ。
ポリコレを支持する人びとは「幅広い視聴者層に受け入れられるようにしたい」「マイノリティーへの偏見を助長しないようにしたい」とった理念を掲げるが、実際は「すべきだ」「していないものは許されない」といった道徳的強要をともなうからこそ、ポリコレは嫌われるのである。ポリコレに「すべきだ」「していないものは許されない」という教条主義的な性質を付与しているのはまぎれもなく「ポリコレファン」たちに他ならない。
いま「ポリコレ問題」とされる議論のレイヤーは「ポリコレ表現」そのものではなく「ポリコレを押し付ける攻撃的な人びとの行動は是か非か」という、リスクマネジメントのレイヤーである。「ポリコレに反対するとは、この差別主義者め!」と道徳的優位性を保持しながら、ポリコレに従わない人を攻撃する「ポリコレファン」に向けられた議論である。
「多様性」を求めているはずの人びとが、実は「ポリコレ表現に統一された表現・言論」で普遍化する「単一性」を求めていたり、「寛容性」を熱心に説く人が「ポリコレに恭順しない人や事象」にはきわめて「不寛容」であったりするという矛盾が「ポリコレファン」への嫌悪感、ひいては「ポリコレ嫌い」に拍車をかける。