安保で揺れた日本 各地で起きた闘争 原爆を背負って(39)
戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の統治下にあった日本は1952年、サンフランシスコ講和条約の発効で主権を回復します。同時に、米国との間に結ばれたのが日米安全保障条約です。59、60年、この条約をめぐり日本中が揺れました。
日米安保条約が対等ではないと、自民党が改定に乗り出したのがきっかけでした。国内や周辺地域に米軍の駐留を認めるだけだった条約を、駐留米軍に対する防衛責任を日本が負うように変えようとしたんです。「戦争に巻き込まれる恐れがある」と野党は強く反対しました。
当時、世界は冷戦のまっただ中。各地で紛争が起きていました。太平洋戦争終結から日も浅く、「またあの時代に逆戻りするのでは」と私も心配になりました。労働組合は「安保反対」を唱え、各地で闘争をしていました。私も運動の拠点になった大村市の電報局で24時間ストライキをやりました。電電公社は関わった職員を処分しましたが、長崎は特に重く、解雇者が2人出ました。私も減給処分を食らいました。
業を煮やした岸信介内閣は60年5月、衆院に警官隊を突入させ、反対派を排除し、改定安保条約の批准を強行採決します。このやり方に多くの国民が民主主義の危機を感じ、街頭に出ました。6月には、アイゼンハワー米大統領の訪日準備で来日したハガチー大統領補佐官の車を数万人のデモ隊が取り囲み、ハガチー氏は米海兵隊のヘリコプターで救出される事態に。その5日後には、国会議事堂前で機動隊がデモ隊と衝突し、デモに参加していた東京大学の女学生が命を落としました。
原水爆禁止運動を担っていた原水爆禁止日本協議会(原水協)も、安保改定に反対の立場でした。改定安保の下で、日本が米国の核戦争の基地になるのを恐れたからです。私は行っていませんが、長崎原爆青年乙女の会のメンバーも原水協の呼び掛けに応じて上京しています。
その後、改定安保条約は参院の議決がないまま自然成立します。批判を浴びた岸内閣が退陣し、所得倍増計画を掲げた池田勇人内閣が発足すると、騒動は落ち着いていきました。しかし、安保闘争は全国民的な支持を得ていた原水禁運動にくさびを打ち込みました。いまだに解決していない運動の分裂につながっていくのです。(聞き手 久知邦)
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「原爆を背負って」の英訳版「THE ATOMIC BOMB ON MY BACK」が米国で発行されました。同国で自費出版する日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は初版500部の発行に必要な資金70万円をクラウドファンディングで募りました。












