2020年7月11日土曜日

マイケル・マンの映画『マンハンター』は、直感的に、「第六感」によって、サディスティックな殺人犯の心に入りこむことで有名な刑事の話である。彼の任務は、一連の田舎の平和な家族を皆殺しにした、特別に残酷な大量殺人犯を発見することである。彼は、殺された家族の一軒一軒によって撮影された自家製八ミリ映画を繰り返して上映して、<唯一の痕跡>、すなわち、殺人犯を惹きつけ、彼にその家族を選ばせた、すべての家族に共通の特徴を見つけ出そうとする。だが内容のレベルで、つまり家族そのものの中に共通の特徴を探しているかぎり、彼の努力はいっさい報われない。ある矛盾に眼が惹きつけられたとき、彼は殺人犯の特定への鍵を発見する。最後の犯行現場での操作の結果、裏のドアを破って家に押し入るために、犯人は、そのドアを破るには不適切な、というより不必要な道具を使っていることが判明した。犯行の数週間前、古いドアは新しい型のドアに取り替えられたのだった。新しいドアを開けるためには、別の道具のほうがはるかに便利だったはずだ。殺人犯はどのようにして、この間違った情報、より正確にいえば古い情報を手に入れたのだろうか。自家製八ミリ映画のいくつかの場面には、その古い裏のドアがはっきりと写っていた。殺されたすべての家族の唯一の共通点は、“自家製映画そのもの”である。殺人犯はこれらの私的な映画を観たにちがいない。殺された家族を結ぶ線はそれ以外ないのだ。それらの映画は私的なものだから、それらを結ぶ唯一の考えられる線は、その八ミリ・フィルムを現像した現像所である。すぐさま調べたところ、すべての映画は同じ現像所で現像されたことが判明し、じきにその現像所の工員の一人が犯人であることが判明する。
この結末の理論的興味はどこにあるのか。刑事は、自家製映画の内容の中に、犯人逮捕の手がかりになるような共通の特徴を探し、そのために形式そのもの、すなわち彼はつねに一連の自家製映画を見ているのだという重要な事実を見落としてしまう。自家製映画の上映そのものを通じて、自分はすでに殺人犯と同一化しているのだということ、すなわち画面のあらゆる細部を探り回る自分の強迫的な視線は犯人の視線と重なり合っているのだということに彼が気づいた瞬間、決定的な変化が起きる。その同一化は視線のレベルの上のことで、内容のレベルにおいてではない。自分の視線がすでに他者の視線であるというこの経験には、どこかひどく不快で猥褻なところがある。なぜだろうか。ラカン的な答えはこうだーーそうした視線の一致こそが倒錯者の定義である(ラカンによれば、「女性的」神秘思想家と「男性的」神秘思想家との違い、たとえば聖テレザとヤコブ・ベーメとの違いはそこにある。「女性的」神秘思想家は非男根的な「すべてではない」享楽を含んでいるが、「男性的」神秘思想家の本領はまさしくそのような視線の重複にある。彼はその視線の重複によって、神にたいする自分の直観は神が神自身を見る視線なのだという事実を経験する。「自分の観照の眼と、神が彼を見る眼とを混同することの中には、たしかに倒錯的な享楽があるといわざるをえない
さあ、いよいよ始まるぞ

動きが起こる