© しにょ~る風俗学院

Contents■ はじめに
■ 改めて「遊女の平均寿命」について
■ フーコー そして/あるいは クラウスについて
■ 佐伯順子『遊女の文化史』について
■ 梅暮里谷峨『傾城買二筋道』について
■ 田中優子『江戸の恋』について
■ 藤目ゆき『性の歴史学』、あるいは廃娼運動について
■ おわりに
■ 参考文献一覧

■ はじめに

小谷野敦 様

当サイト「しにょ~る風俗学院」内のコンテンツ「風俗図書館」にて、貴方の著書『江戸幻想批判』(新曜社)を「トンデモ本」として紹介しましたところ、ご本人様よりメールにて「トンデモ本と断じる根拠を示してもらいたい」とのご質問を受けましたので、お答えさせて頂きます。

本音を言えば、私は同書を「トンデモ本」であるとは思っておりません。所謂「トンデモ本」とは、それなりに存在感や影響力を有しており、茶化し甲斐のある著作を指すものでありましょう。その点、貴方の著作は茶化す値打ちもなく、言ってみればロクでもない「ロクデモ本」と言うべき代物に過ぎません。

それでは以下に、貴方の著作が、本来ならば真面目に批判する程の価値もない、単なるゴミに過ぎないと断ずる根拠を述べさせて頂きます。

なお、『江戸幻想批判』を拝読した時点で「読む価値なし」と判断したため、その他の著作は読んでおりませんでしたが、ひとまず貴方のメールにあった『恋愛の超克』と『中庸、ときどきラディカル』、それに『もてない男』と『<男の恋>の文学史』は、ざっと目を通しました。そのためお答えが遅くなった事をお詫びします。また、これら以外にも「これだけは読んでもらわねば議論ができない」というものがあれば善処しますが、あまり貴方に対して礼儀を尽くす気持ちはありません。

H15.5.12

しにょ~る

■ 改めて「遊女の平均寿命」について

まず、貴書『江戸幻想批判』にあります「吉原の女郎の平均寿命が二十三歳だ」というトンチンカンな記述についてですが、既に訂正コメントを出されているとの由。そうとは知らず、失礼つかまつりました。

※この拙論を半ば書きかけた段階で、遅まきながら貴方と絶望書店主人氏との論争を拝見する機会を得ました。そこでの貴方の発言が「誤りを認めた」と言えるものかという点については、既に2ちゃんねる小谷野敦スレにて物笑いの種になっている様ですので、敢えて繰り返しません。

ですが、この間違いは「ちょっと考証不足だった」といったレベルの問題ではありません。貴方にはモノを書く資格すら無いと言っても過言ではない程の、致命的なミスだと思います。この「吉原の女郎の平均寿命は二十三歳」が、もし小学生の作文に書かれていたのであれば、私とて「よく調べたな!偉いぞ!」と誉めてあげます。しかし、それがもし中学生の作文であれば、私は「本当にそうかな。その数字はどうやって計算したんだろう。もっとよく調べてごらん」とアドバイスするでしょう。

第一に、西山松之助氏の算出された「22.7才」という数字は、例えば、牧英正『人身売買』(岩波新書(青版)801、1971)P.151 にも引用されています。これもお読みになっていないのでしょうか? では、より本格的な研究書をお読みになったのでしょうか、それともご自分で身売り証文などの一次史料にあたられたのでしょうか。

私は学者ではありませんので、貴方が言われる「先行研究を踏まえなければならない」というルールを共有しておりません。しかし、人様に対して「人身売買の悲惨さ」を説くからには、まず自らが人身売買について学ぶのは当然だろうと考えます。そして、もし貴方が本当に「近世の娼婦の悲惨な境遇」について真摯に学ぶ姿勢を持っておられたら、おそらくは何処かでこの「22.7才」という数字にも出会っていた筈だと思うのですが…?

なお参考までに、江戸時代の人の寿命について、鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』では次のように述べています(P.174)。

 「人生僅か五十年」とは人の一生の短いことの譬えだが、江戸時代の日本人の寿命(出生時平均余命)はとてもそこまでは達していなかった。出生時平均余命が五〇歳を超えたのは、第二次大戦後の一九四七年であった。
 …(中略)…
 江戸時代にまで遡って全国規模の生命表を得ることはできないが、宗門改帳や過去帳を利用すれば、町村単位の平均余命を知ることができる。それから推計すると、一六〇〇年頃の寿命はよくてもせいぜい三〇歳程度であったであろう。
 …(中略)…
 年代を幅広くとって長期的な比較を横内村、湯舟沢村、飯沼村について行なってみると、十七世紀末以後、幕末までの二世紀間に、平均余命に相当大きな伸びのあったことを認めることができる。おそらく七年以上になるだろう。この三つの中部地方の村の例を参考に、出生時平均余命の長期的推移を描くならば、十七世紀にはニ〇代後半ないし三〇代そこそこだったものが、十八世紀には三〇代半ば、そして十九世紀には三〇代九版の水準を獲得して明治中期の水準につながったものと思われる。

ただし、鬼頭氏によると「宗門改帳は数え年二歳から登録されるのが普通」であるため、"間引き"を含む乳幼児の死亡をどう考慮するかが問題となります。鬼頭氏の出生時平均余命とは、この点を一定の仮説に基づいて補正した数値であり、死亡年令の単純平均に過ぎない「23歳」という数字とは単純に比較できません。

第二に、これが重要な点ですが、この「23歳」という数字を見た時に、「どうやって算出したのだろう?」「信頼できる数字なのか?」という疑問を持たなかったのかという点です。 学術論文や著作物に出てきた数字ならともかく、博物館の展示にあった数字に対して、何の疑問を持たずに無批判に飛びついたのだとすれば、学者としての資質を欠いていると言わざるを得ません。

思うに、これが例えば遊女の境遇の「裕福さ」を示すデータであれば、貴方は疑ってかかったのではないですか。遊女の境遇の「悲惨さ」を示すデータだから無批判に飛びついた、そして鬼の首を取ったように吹聴して回った、そういう事ではありませんか。

断っておきますが、私は別に「遊女の平均寿命は小谷野の言うほど低いものではない!遊女の境遇は悲惨ではない!遊女バンザイ!」などと能天気な事を言いたい訳ではないですよ。元となった西山氏の『くるわ』には、こう書かれています。

 江戸時代のこの六冊の過去帳の中で、第一冊目の寛保三年から安永八年までの記録には、ところどころその死亡年齢が記されていて、それがはっきりわかる者だけを数えてみると六四名であるが、その平均はニニ・七歳で最年少が一五歳、最高四〇歳というのがある。これだけで推定することは危険だが、この年齢は興味深いのでその表をあげておこう。年季の最高年齢は大体ニ七歳とされていたが、前借がかさんで、いつまでも足を洗えないのがいたことは、この記録でも明瞭である。

年齢 15161718192021222324252627282930313940
死亡者数 1356722687422221121

西山氏はちゃんとした学者ですから、貴方のように「遊女の平均寿命はこんなに低かった!」などと短絡的に騒ぎ立ててはいません。むろん、若くして病に倒れ、ろくな看病も受けずに亡くなった遊女も少なくなかった。それも悲しいことだが、普通ならば年季の明ける二十七を過ぎても働き続けた遊女もおり、これもまた悲しいことだと言っているのです。

宮川曼魚『江戸売笑記』P.332 に、こんな話が紹介されています。

 文政七年の五月には江戸じゅうの転び芸者と隠し売女の大検挙が行なわれて、三人以上の芸者並に茶汲女を置いた者が六十人、売色芸者が十三人、隠し売女四十一人、女の中宿三十六軒がお召捕りになった。隠し売女の連名のうちに、

   上野町二丁目   町医祐伯妻    くめ(二十八)
   池之端仲町    肴売吉五郎妻   たき(二十八)
   馬喰町二丁目   金八女房     ひで(二十八)

 という三人の人妻が見えているが、その年齢がひとしく二十八であるのはちょっと不思議な気がする。あとの三十八人は十四歳から二十歳前後の水茶屋の抱え女が多数を占めている。

思うに、宮川氏がこの「二十八」という年齢について「不思議な気がする」とわざわざコメントしたのは、「偶然ではないかもしれない」と考えながらも証拠が得られなかったためではないでしょうか。もし偶然ではないとしたら、まず遊女の「年季」との関連が疑われます。想像の域を出ませんが、三十を過ぎた人妻熟女の中にも、「吉原を卒業したばかりの28で~す♪」と称して営業していた者がいたのかもしれません。

遊女の年季について、滝川政次郎『吉原の四季』P.145 によれば、

 …証文の年季は十年又は二十五年となっているが、十年は突出されて遊女となった者の年季であり、二十五年は禿立ちの遊女の年季であって、数え二十七となれば、「年明(ねんあけ)」と称して解雇せられるのが、江戸末期における吉原の不文法であったのである。
 年明ともなれば、遊女は身の振り方を考えねばならない。あの男にお負さろうか、この男にしようかと、こんどは遊女の方から客を見立てることになる。
   傾 城 が 客 を 見 立 て る 二 十 七
   二 十 八 不 沙 汰 の 墓 へ 泣 い て わ び
などの句は、この吉原の不文法の存在を証拠立てている。遊女二十七に達すれば、代償を求めずして遊女を廓外に出すことは、楼主の仁慈なる如く見えるが、実は商品としての価値を失った女にいつまでも徒食されることを恐れての、利勘より出た不文法であって、酷薄の極みと言わざるを得ない。仲ノ町の桜も、花が散ればこれを根こそぎにして、廓外に運び去ってしまう不人情と一般である。

思うに、こうして遊郭を去った遊女の誰もが、堅気の亭主を持ってそれなりに幸せに暮らせた訳ではないでしょう。養ってくれる旦那も見つからず、さりとて手に職もなく、故郷に帰っても居場所がない女性も少なくなかった事でしょう。隠し売女となった者、夜鷹や舟饅頭となった者もいた筈です。

夜鷹には年増が多かった事、梅毒が多かったらしい事が知られていますが、梅毒によって死に至るまでの期間が約十年である事を考えれば、遊郭で感染したものが三十過ぎて本格的に発病し、「鼻欠け」の夜鷹として生涯を終えた者もいた事でしょう。おそらくは看取ってくれる者さえなく、無縁仏として処理されたか、烏や犬に喰われたか…。そのような女性たちの死亡年齢を示すデータなど、残っている筈がないのですよ。そもそも、彼女が吉原に居た事さえ誰も知らなかった、いや、たとえ自ら「あたしゃ先だってまで吉原に居たのさ、高尾太夫ってぇのは妹分さ!」などと言ってみても、誰も相手にしなかったでしょうから…。

もし貴方が、江戸に生きた遊女売女一人一人の境遇というものを思い遣っていたら、「23歳」という数字が全ての遊女の平均寿命を反映している筈のない事もまた明らかなのですよ、考証してみるまでもなく。ほんの少し、自分の頭で考えれば、「おかしい」と気付くはずです。

遊女たちは、足を洗えぬまま年老いてゆく「悲惨さ」を知っているからこそ、時には「指切」「爪剥がし」といった、貴方なら「残酷だ」「女性虐待だ」と騒ぎ立てるであろう手練手管を用いてでも、上客をつかもうとしたのでしょう。「遊女の境遇の悲惨さ」とは、貴方が考えているほど単純なものではありません。

こうした遊女たちの境遇の実情をよく研究した上での売買春批判なら、私も真剣に耳を傾けます。私自身は買春を肯定する者ですが、私なりに「より良い買春・売春のあり方」を考える上で、大いに参考になるからです。しかし、貴方は「遊女の境遇の悲惨さ」について、何を知っているのですか?

■ フーコー そして/あるいは クラウスについて

貴方からのメールに「貴殿が賞揚する松沢呉一は、フリードリヒ・クラウスなる、日本に来たこともない者の書いたでたらめな日本論を信じているが、これは恥ずかしくないのか」とのご質問がありました。これは恐らく、私が貴方を揶揄して「江戸文学を論じるのにミシェル・フーコーだのロラン・バルトだのを持ち出すこと自体、恥ずかしいとは思わんのだろうか」と述べたのを受けてのご質問でしょう。これは別に重要論点ではないので、簡単に述べます。

まず、「恥ずかしいとは思わんのだろうか」と揶揄したのは、私の失敗でした。もともと羞恥心を持たない人に「恥ずかしくないのか」と言っても仕方のない事でした。

次に、ミシェル・フーコー云々ですが、私は決して江戸文学を論じるのに西洋の学者の説を持ち出す事が「一切許されない」と考えている訳ではなく、ただ単に、貴方の持ち出し方が唐突で必然性が感じられず、まるで新しい言葉を覚えたての子供が喜んで無闇に使っているようにしか見えない点を茶化しただけなのです。その点、舌足らずだったかと存じます。

さて、フリードリヒ・クラウスの件ですが、少々困惑しております。実は、私は松沢呉一氏をさほど熱心に信仰してはおらず、松沢氏の著作も全て読んでいる訳ではありません。そのため、松沢氏がクラウス某の日本論を「信じている」とは知りませんでした。

手元にある松沢氏の著作を読み返してみたところ、松沢氏がクラウスについて触れている箇所を一つだけ発見できましたが、その部分を見る限りでは、松沢氏がクラウスの論を「信じている」とは考えられず、ますます困惑しております。その箇所とは『売る売らないはワタシが決める』所収の座談会で、宮台真司氏と話している部分ですが(P.261)、

宮台 …具体的に言うと、明治時代の後半に、ヨーロッパやアメリカで、フリードリッヒ・クラウスが書いた『日本人の性と習俗』という本がえらいベストセラーになりまして、日本は性的な楽園で、日本に行けば何だってできるぜみたいなことが喧伝され、他方で、ラフカディオ・ハーンやマルセル・モースが私的な書簡で、日本は性的な楽園で、あるいは性的なモラルなるものが全くない国であるということを書いて本国に送ったりしているんです。日本政府は困ったわけです。
松沢 フリードリッヒ・クラウスの『日本人の性と習俗』という本は、今も河出文庫で読めますが、今の日本人が読むと、「なんて日本は素晴らしい国なんだ。行ってみたい」と思えます(笑)。でも、その当時は、恥晒しにしか思えなかった人もいたんでしょう。
宮台 そうです。明治政府から見ると、不平等条約改正の障害になるかもしれない、この国は土俗的なものが蔓延した場所で、近代国家ではないというふうに見なされてしまっては、欧米列強にバカにされてしまうと考え、これをどこか見えない場所に押しやる必要があると思ったわけです。

と、この部分を見る限り、松沢氏がクラウスの論を大真面目に「信じている」とは読めない訳です。念のため確認しますと、まず宮台氏が「クラウスらの極端に誇張ないし歪曲された日本論が欧米で信じられてしまったので、日本政府は慌てた」という話を出し、これを受けて松沢氏が「日本がクラウスの書いたような性の楽園だったらいいよな、オレも行ってみたいよ」という趣旨の冗談を言っている。つまり逆に言えば、「明治時代の日本はクラウスの言うようなパラダイスではなかった」と嘆いている訳で、松沢氏がクラウスの論を「信じている」とは思えないのです。

ですから、松沢氏がクラウスの日本論を「信じている」ような事をどこで言っているのかご教示頂いた上で、改めて検討したいと思います。もっとも、あまり重要な論点ではないと思いますが。なにぶん、私は松沢氏の熱心な信者ではありませんので、どうでもいいと思っております。

なお、上に引用した箇所の直後に、宮台氏が「お祭りの時の無礼講や夜這いなどは村のしきたりの中で厳密にコントロールされていたものであり、単なる性的放埓ではない」と述べ、その上で、明治政府はそうした「一見すると性的放埓と見られかねないもの」を排除していった、それによって一段と性の管理が強化されたという趣旨の議論をしています。この宮台氏の論について松沢氏はコメントしていませんが、おそらく特に異論はなかったのだろうと私は想像しています。

■ 佐伯順子『遊女の文化史』について

次に、「佐伯順子『遊女の文化史』や田中優子『江戸の恋』を貴殿はどう評価するのか」とのお尋ねを頂きましたので、まず『遊女の文化史』について愚見を述べます。

私は「巫女起源説」を採らず、遊女の本質は「遊行の芸能者」という点にあると考えておりますので、貴方とは問題意識そのものが違います。そこで、まずは少々長くなりますが自説を述べる事をお許し頂き、私なりの観点から佐伯氏への批判を試みた上で、貴方の佐伯氏に対する批判の仕方がいかに愚劣であるかを論じたいと存じます。


さて、佐伯氏は『遊女の文化史』で、次のように述べる。

 …これに対し、山上伊豆母氏が『巫女の歴史』で示された見解は、傾聴に価する。氏は、「巫女が遊女に転身していく要素は、じつは神霊の依り代であり自然神の降下をまつ原始巫女の時代から存した」として、巫女が「神妻となる」性格を有していたゆえに遊女は「聖婚」の相手として求められたと主張した。これは、遊女の"聖なる性"の可能性を説いた数少ない例として評価できるものであろう。ただし、氏の見解にもおとし穴がある。それは、「巫女が遊女に転身」という発想である。実はこの発想が柳田や滝川氏の誤りをも招いたものなのである。遊女は巫女の一種なのではない。遊女という表現そのものが、そのまま巫女という意味を、かつては有していたのである。(P.20)

この着想そのものは、大いに評価できると私は考える。私もまた巫女起源説に見られる「遊女は巫女が(生活のために)堕落したもの」といった見方に違和感を持つ者であり、もし佐伯氏が念頭に置く「巫女」が、「歩き巫女」の如き存在のみを指しているのであれば、全く同感である。しかし、遊女の性を「神婚儀礼」と同視し、古代バビロニアの「神聖娼婦」といったものを遊女の祖とする見方には異論がある。浅井虎夫『女官通解』によれば、

 御巫よみてミカンノコといえり。その義は御神の子の義なりという。しかるに後世ミコと称えまたカンナギと称えて、禁厭などを行なえる者ありといえども、これらと御巫とは大なる差別あることを知らざるべからず。源順選するところの『和名抄』にも、巫覡という文字見えて、これを乞盗類に載せられたり。いわく、「巫覡、『説文』にいはく、巫反なく、和名かむなぎ、祝女(はふりめ)なり。『文字集略』にいはく、覡をのこかむなき男祝なり」とて、これを人倫の最下等なる遊女、乞児、偸児、群盗、海賊、囚人のごとき忌まわしき者に列したり。この巫覡は、すなわち、あからさまに宮中などに出でて、神祇を祭る御巫にはあらずして、卑賤きわまれる者なり。これらの巫覡はさまざまの禁厭などを行いて自活せる者にて、かの神おろし、湯立て、弓立てのごとき、みな巫覡の行うところなり。(P.140)

この浅井虎夫氏の整理に従えば、神聖娼婦に相当するのは「御巫」であり、中山太郎・大和岩雄・佐伯順子らの所謂「巫女起源説」とは、より正確には「御巫起源説」と呼ぶべきものであろう。しかし私は、中世の歩き巫女・遊女・傀儡子らは、「御巫」がドロップアウトした者ではなく、大和朝廷権力の成立当初から、言わばアウトロー的存在だったと考える。すなわち、杉山二郎『遊民の系譜』の整理によれば、

 法外遊行の徒の弾圧は『続日本紀』を繙いてみると執拗に続いている。…(中略)…養老六年(A.D.723年)七月十日の太政官符に「近在京の僧尼、浅識軽智で罪福の因果を巧みに説いて戒律を練らず、都裏の衆庶を詐り誘惑して、内にあって聖教を黷け、外に向って皇猷を虧け遂に人の妻子を剃髪刻膚させ、ややもすると仏法と称して家庭を離れて、綱紀に懲ることなく親や夫を顧ることもなく、或は経を負い鉢を捧げて食を街衢の間に乞い、或者は偽って邪説を誦して村邑の中に寄宿し聚めて合宿するなど、妖訛が群をなすにいたる。初めは修道の様に似ているが、終には姦乱をおこすことになる。永くみて、その弊害を考えると特に早速禁断すべきだ」と。
 これらの太政官符の発令は、綱紀を厳重にして管理したとするか、弊害矛盾の続出がこうした勅令となったのか、判断は難しい。けれど私度僧の増加と跳梁、またそれに追従する妖惑された大衆の浮浪、また山野に営まれたこれらの人たちの庵や岩窟の存在を見逃すことはできまい。(P.35)

このように朝廷からは怪しげな連中・危険分子として弾圧された人々の末裔が歩き巫女であり、また、彼らのうちで洗練された芸能を身につけた者が遊女だったのではないだろうか。野間宏/沖浦和光『日本の聖と賎 中世篇』によれば、

野間 宗教以前の世界では、"聖なるもの"であったのに、一挙に"穢れ"の領域に追いやられた。国家宗教が成立して、≪聖≫と≪俗≫が分離すると、彼ら呪術師は≪聖≫にもおれないし、≪俗≫の世界に住み着くこともできない。
沖浦 そうです。もはや安住の地がないので、それまでいろいろ因縁があったんだけど、≪聖≫からも≪俗≫からも追い出されて、泣く泣く≪穢≫の方へ叩き出される。
野間 国家宗教の段階では、政治権力を握った王権は宗教的祭祀権を完全にその手中に収めますから、このような前時代的呪術師の存在そのものが邪魔になってくる。
沖浦 神事呪術者は、もともと世俗的な日常性の世界に居場所はなかった。非日常的世界が活躍の場だった。だから、≪聖≫の世界で活躍できないとなると、その対極にある非日常の≪穢≫の世界で活躍するほかはない。
野間 非日常性がはっきりあらわれるのは、ハレの日の祝祭やその対極になる葬礼ですネ。これらの日には、いずれも過去の"聖なるもの"の痕跡を残しながら≪穢≫の領域から出てきた神事芸能者が活躍する…。(P.81)

大和朝廷は、このような民間の巫=シャーマンを単に弾圧しただけではなく、一方では権力内部に取り込み利用して行った。祟神天皇が、クニツカミである大物主神の祟りを畏れ、大物主の子孫とされる大田田根子をして祀らせたとする逸話は、このような事情を表していよう。

しかし、大田田根子の後裔たる遊部の女たちは、宮廷に囲い込まれた事により、次第に「巫」としてのパワーを失ってゆくのではないか、従って、そこからは遊女や傀儡子の躍動感あふれる芸能は生まれないのではないかと、私は考えている。山折哲雄『死の民俗学』によれば、

 殯[もがり=死者の遺体をすぐに埋葬せず一定の期間をかぎって安置すること]の短縮と火葬の導入は、こうした「腐敗」にたいする観念を根本的に変化させることになった。死者の霊魂と社会の秩序を時間をかけて蘇生・復活させる、いわば触媒としての腐敗を結果的には否定することにつながったからである。その先鞭をつけたのがすでにみたように持統・文武・元明・元正の遺体にたいして適用された火葬の採用であった。そのことによって一代一宮制が崩れ、仏教イデオロギーが王宮の儀礼と観念のうちに急速に浸透していったのである。その変遷のなかでひそかに追及されていたテーマが、一つには死の穢れのなかでおこなわれる即位式から大嘗祭の清浄性を分離することであり、二つには、王の死から発する穢れそのものを最小限度の期間内に局限するということであった。換言すれば、王権の継承の場面からの死穢の排除という課題が、至上命令として追及されていたのだといっていい。(P.223)

アニミズム的世界において、「ハレ」と「ケガレ」は言わば表裏一体をなすものであったと考えられる。しかし、朝廷内部に取り込まれた巫は、国家宗教としての様式と教義が整備され、<聖>の側面に純化されるにつれ、本来の巫としての生命力を失ってゆくのではないだろうか。大江匡房や後白河法皇らが遊女・傀儡子と親しんだのは、貴族社会が失ってしまった「巫」のエネルギーを求めての事ではなかったか。特に、自ら占いをよくする陰陽師でもあった大江匡房には、そのような意識がはっきりとあったように思えてならない。杉山二郎『遊民の系譜』によると、

 平安朝の四大絵巻は、源氏物語絵巻を始めとして、伴大納言絵詞、信貴山縁起絵巻、鳥獣戯画絵巻が挙げられる。源氏物語絵巻は今日冊子、帖仕立になっているが、人物描写は典型的な引目鉤鼻であって彩色は塗り絵である。そこには何らの個性的な活き生きした表情も表現もない。光源氏であろうが紫の上であろうが典型的な引目鉤鼻による無表情さは、伴大納言絵詞の応天門火災に驚き群がる男女の活き生きした表情と、何と懸隔のあることだろう。また信貴山縁起絵巻の飛倉の巻に見る男山八幡の油長者の人たちの狂乱する人びとの姿態と表情を見るがよい。この対比は宮廷内裏や貴族の深窓に生活する人たちと、街衢陋巷に暮す衆庶、大衆の生活感情の違いを象徴してはいないだろうか。没個性的なステレオタイプの表現には貴族生活の単調な、起伏のない雰囲気がただよっている。彼らが白日のもと、陽光のもとで男女をしげしげと識別したり認識することのない生活、衣冠束帯、十二単衣に綺羅を飾った職階制のなかでのみその人物を識別した世界、また男女が愛する対象として逢うのは暗闇、薄明りのなかで、香りと臭いと、触覚のまさぐりのなかでしか実体を把握できない世界、こうして貴族生活の一面を捉えてみると、源氏絵の引目鉤鼻の類型的造形表現が何となく理解できようというものである。
 わたくしは四大絵巻を取り上げて、貴族の姿と中流、衆庶の姿の捉え方の違い、生活感情の懸隔を指摘してみた。確かに古代末の崩壊と新しい世界の胎動の響きが聞えてくる。そうしてこうした差異が伎芸、雑芸の世界にもあったとみたい。関白道長や頼通、また後白河院をして遊女、白拍子、傀儡子に親炙させたその底流に、活きた女性、生きた音楽、活発狂騒の跳舞への願望があったろうことである。今日の若者がロックに熱狂して日常性のたがを外すように。(P.241)

このように、貴族社会の文化が次第に生命力を失っていき、遊女たちから活力を得ていたのではないかとの認識は、遊女が天皇の直属民であるなどという珍奇な説を唱える網野善彦氏でさえも、不承不承ながら認めている所である。すなわち『日本論の視座』によると、

 [大江]匡房は[菅原]道真のように、これらの遍歴民を貧苦に打ちひしがれた人びととして同情しているのではない。人びとに家を忘れさせ、その心を蕩し、神仙の境地に導く遊女の世界(『遊女記』)、「上は王公を知らず、傍牧宰を怕れず、課役なきをもて、一生の楽と為せり」(『傀儡子記』)といわれた傀儡子の生活は、むしろ日常の俗事にまみれなくてはならぬ匡房の心を強く魅きつけるものがあったのであり、それだけに、こうした人たちの異世界性・異種性・漂泊性がかえって強調される一面のあったことを知らなくてはならない。そしてその魅力が、貴族たちの与える祝儀の布絹を争って奪いあう遊女たちや、多くの贈り物で富裕になり、さらに、百神を鼓舞喧嘩して祭り、福を祈る傀儡子たちの野生に満ちた生命力にあることを、匡房はある程度は感じとっているのである。(P.166)

なぜ貴族ら定住民は、漂泊・遊行の民に生命力を感じるのか。広末保『悪場所の発想』の見解では、

 だが、それにしても、なぜ河原者である歌舞伎役者が、その御霊神に扮し、舞台の上での祭式化をにないえたか。呪術宗教的な能力と芸能をもった、身分の低い神人(じにん)の存在をそこに考えなければならないであろう。
 神の来訪を人の姿であらわすという宗教的な慣習は、民俗学者や民間信仰史の研究家によって指摘されているところだが、その神霊をにない、神語を説き、神に扮するものたちの多くは、遊行漂泊の民であり、少なくとも、定住農耕民とは異った生活形態と精神構造をもったものたちであった。定住民は、かれらを、その非定住的遊行性のゆえに賎視し、同時に、それのもつ呪術宗教的なもののために畏敬した。(P.252)

しかし、「賎視し、同時に、…畏敬した」という見方は、少し不正確なのではないか。「賎視」とは「畏怖」の裏返し、畏怖心を打ち消そうとする心の動きから「賎視」が生ずるのではあるまいか。少し戯画化して言えば、定住民が犬だとすれば遊行民は狼、定住民が豚だとすれば遊行民は猪だ。野山に分け入り、狩猟採集文明に近い生活を営む遊行民は、定住民から見れば、おそらく「霊力」とでも呼びたくなるような一種の存在感を有していたのではないだろうか。

だが彼らの芸能は、現代人が「宗教」という言葉から連想するような「厳粛」で「真面目」なものでないと同時に、「呪術宗教」という言葉から我々が連想するようなオドロオドロしい代物でもなかっただろう。

『更級日記』には三度にわたって遊女(あそび)が登場するが、その最初の足柄山の遊女は、幼き日の作者に強い感銘を残している。その歌声の美しさとともに、彼女らが何処からともなくやって来て、何処へともなく去って行くように見えたのが神秘的な印象を強めたようだ。実際には、おそらく足柄明神にでも彼女たち遊行民の生活の拠点なり宿泊施設の如きものがあったのだろうが。

『枕草子』の「職の御曹司におはしますころ、西の廂に」の段に、「常陸の介」と綽名される胡散臭い尼法師が登場する。薄汚い恰好をしており、女房たちの求めに応じて、「夜はたれとか寝む。常陸の介と寝む。寝たる肌よし」「男山の峰のもみじ葉、さぞ名は立つや」などと何やらスケベな歌をうたい、踊ってみせる。この下品だが逞しいオバハンこそ、歩き巫女の類ではないかと思う。この段には、もう一人、大人しく品のある尼法師が登場して女房たちの同情を集めるが、これはダメだ。生命力がない。おそらく落ちぶれた貴族の女が、にわか遊行民となったものだろう。この「常陸の介」の歌は、『梁塵秘抄』の次のような歌と響き合っていないだろうか。

・恋ひ恋ひて邂逅(たまさか)に逢て寝たる夜の夢は如何見る、さしさしきしとたく[抱く?]とこそみれ。(460)

・雨は降る、往ねとは宣(のた)ぶ、笠は無し、蓑とても持たらぬ身に、忌々(ゆゆ)しかりける里の人かな、宿貸さず。(467)

・いざ寝なむ夜も明方に成りにけり、鐘も打つ、宵より寝たるだにも、飽かぬ心を、や、如何にせむ。(481)

・盃と鵜の喰ふ魚と女子は、はう[飽?]なきものぞいざ二人寝ん。(487)

思うに、彼ら遊行民の基本的性格は、今日の言葉で言えば、「宗教者」というよりは、「大道芸人」に近いだろう。確かにアニミズム的な呪術宗教という側面を有してはいるのだが、現代人の感覚で「宗教」と言えば厳粛な儀式の如きものを連想するし、「巫女」と言えば神社でお守りを販売する上品なお嬢さん(茶髪・ピアス不可)を連想しがちだ。それゆえ私は遊女の本質を「巫女」ではなく「芸能者」としておきたい。歩き巫女も広義の「芸能者」に含まれるという意味においてである。滝川政次郎『遊行婦女・傀儡女・遊女』によると、

 大道に施芸して、お立会いから投げ銭を貰って生活する大道芸人、戸毎に楽器を奏してその呼び入れを期待する門附けの徒は、これを乞食の類としてよい。万葉集に見える「乞食者」は、これをホカヒビトと訓むことになっているが、ホカヒビトは寿言(ほぎごと)を呈することによって「御祝儀」の志を受ける者の謂である。芸を施すことの報酬を求める者と、寿言を唱えて咒術を施すことの報酬を求める者との間に、性質の差を見出すことはできない。乞食が何等の利益を相手方に与えることなく、只管に食を乞う「物貰い」になったのは、後世のことである。遊女が河中に今様を唱って往来の船客から纏頭を受けるのは、正に乞食の所業である。源順はここに着眼して、遊女を乞盗類に入れたのであって、倭名類聚抄の分類は、決して不当ではないと思う。(P.131)

注意してほしいのだが、ここで滝川博士は遊女を侮辱しているのではない。本来の「乞食(こつじき)」は芸能者だったと言っているのであり、遊女も乞食も決して無為徒食の輩ではないと論じているのだ。ところが、大和岩雄『遊女と天皇』に言わせると、

 「帰化」人や山部・海部の婦女や、社会の落伍者の婦女が遊女になったとみる、遊女に対する露骨な差別観・蔑視観に立つ瀧川[政次郎]は、すでに故人だが、もし生きていたら、本書のタイトル[『遊女と天皇』]を見ただけで不快に思ったろうし、とりわけ、「天皇と遊女」ではなく、逆にしていることに激怒したであろう(瀧川は国学院大学教授で法学博士)。

素朴な疑問として思うのだが、この大和氏の言い方こそが、「社会の落伍者」に対する蔑視そのものではないのだろうか。また、網野善彦氏も遊女に言及するたびに同様の発言をしているが、例えば『蒙古襲来』によれば、

 しかしこの時代のこうした人々を、すぐに「体制から疎外された人々」ときめつけ、「卑賤視」されたとする見かたに、私は賛成できない。ここにあげた狭義の芸能民はみな宮廷に出入りして、天皇・貴族と接している。時代はさかのぼるが、後白河法皇が博奕を好み「院中、博奕のほか他事なし」といわれ、傀儡師・白拍子から今様を習ったことは周知の事実である。(小学館文庫版P.480)

どうも不思議なのは、網野氏が滝川氏の説を「女性蔑視」と考えているらしい点だ。何故そうなるのだろう。遊女が権力者から「賎民」と呼ばれていても、それは遊女の品性が卑しい事を意味しない(まして女性一般が卑しい事など意味しない)。むしろ人を賎民呼ばわりする権力者の品性の卑しさを示すものかもしれぬ。それはともかく、彼ら遊行民が宮廷に出入りしていたのは、網野氏が主張するように天皇から「特権を与えられ保護されていた」からだろうか。そんな勅令が出された事実でもあるのだろうか。それは単に「遊び者の推参は世の習い」(『平家物語』)だからではないのか。推参とは、呼ばれもしないのに訪問する事をいう。それが「世の習い」というからには、社会的慣習と考えられていたのではないか。白拍子は武家屋敷にも推参しているが、それは武士が天皇の勅命を尊重したためだろうか。単に、武士も天皇も社会的慣習に従っただけではないのだろうか。また、網野氏は遊女や白拍子が「内教坊と推定される部署を通じて朝廷に管理されていた」と主張するが、では、なぜ後白河法皇は乙前の歌を聞きたいと思った時に(『梁塵秘抄口伝集巻第十』)、内教坊を通じて出頭を求めなかったのか。遊女や白拍子は、宮廷で祭礼があると聞きつければ、勝手に「推参」してくるだけではないのか。その際、宮廷側の受入窓口の如きものは必要になろうし、それがおそらく内教坊であろう。また、淀川の警備を担当する検非違使が遊女から通行税の如き公事銭を取っていた可能性もあるが、これは検非違使が勝手に小遣い稼ぎとして行なっていたフシがある。いずれにせよ、「管理」と呼べるような事実は確認できないと思われる。

…いや、ちと話が横に逸れました。失礼。私は小谷野さんのような小物よりも、網野さんのような大物を批判したいので、つい。

さて、佐伯順子『遊女の文化史』では、仮名草子『露殿物語』を引いて、次のように述べている。

 極楽世界の「迦陵頻伽」を思わせる声は近世に至っても失われず、舞姿は天人の舞いになぞらえた霓裳羽衣の曲かと見紛うばかり。露殿は天女の袖の内に包まれたがごとく、魂も消しとんで、ただ茫然とこの世の極楽を味わうのである。
 遊女の舟遊びに、中世の人々は浄土の幻想を重ねた。目前に聖なる世界の遊びをくり広げてくれる遊女たちは、官能的、祝祭的宗教世界における女神であった。それが遊廓と言う舞台装置を得、太夫という神話的階級が成立することによって、一層文学の中に定着していったといえる。(P.87)

正直なところ、佐伯氏の文章はどこまで真面目に受け取ってよいのか量りかねる所があるが、もし大真面目に宗教性という事を言っているとすれば、やはり、それは少し違うように思われる。なぜなら、この『露殿物語』の末尾は次のように締め括られているからだ。

 さて人間に遊ぶ事、遊女の道にしくはなし。されども今の世の遊君は、人の皮着る狐なり。化かされ給ふな、人々よ。御用心、と呼ばはる声の下よりも、はや又恋ひしくなりぬれば、老いたるは老のなぐさみといひ、若きは若き習ひとて、われとわが身に道理をつけて、親にかくれ、子にしのび、貴賎老若おしなべて、狂はぬ人こそなかりける。南無三宝、ちやせんやこのさ、ちやせんやこのさ。

これは、社会通念に配慮して道徳的教訓を付け加えたとも取れなくはないが、遊里での遊びを茶化す視点を持っているとも受け取れるのではなかろうか。こうした遊里文学に描かれる性愛とは、「神婚」そのものと言うよりは、「神婚のパロディー」と受け取った方がよいのではあるまいか。例えば、これに先行するお伽草子『猿源氏草紙』に出てくる言葉、

公家門跡などの御娘ならば、いかなる料簡にも及ぶべかりしが、これは流れをたつる川竹の、遊女なれば、大名高家よりほかへは出でず。

なども、一種の悪ふざけとして、わざと価値転倒してみせたものとも考えられる。ポイントは「川竹」だ。私はこれら文学作品の成立年代を考証するだけの知識を持っていないのだが、謡曲に「川竹の卑しき身…」といったフレーズが現れた後のものではなかろうか。ところで余談だが、なぜ「川竹」は「卑しい」のだろう。滝川政次郎『遊女の歴史』によれば、

 私は朴の木を求めて深山幽谷を転々と移りあるくきじや(木地屋)、ロクロシ(轆轤師)も、サンカと同じく禾尺白丁の一種ではないかと考えている。日本には水辺に柳樹少なく、竹が多い。水辺に自生する無主物の柳の枝を採って柳器を作っていた白丁は、日本に渡って来てからは、水辺に自生する河竹(これも無主物)を採って、箕・ザル・茶筅等の竹器を作った。それがサンカである。禾尺白丁の一派は、深山に分け入って無主物の木材を採伐して、皿・盆・椀等の木器を作った。それがキジヤである。漂泊性を有すること、常民から婚姻を拒まれていることは、クグツもサンカもキジヤも同じである。クグツが通婚を嫌われていたことは、西宮の傀儡師笠井氏が通婚を嫌われていたという攝陽群談の記事によって推断することができる。(P.106)

としており、沖浦和光『竹の民俗誌』では竹取物語についての柳田国男の論考を引いて、

 ところで、竹の中から黄金を見つけて一夜にして長者になった竹取翁は、もともとはどのような境遇で暮らしていたのだろうか。古代から中世にかけて、竹伐りの仕事はどのような階層が担っていたのか。この竹取翁を、貧賎の身分とみたのは柳田国男であった。
 …(中略)…
 柳田は、そもそも「竹取り」稼業は、田園から衣食の資料を得る普通の「百姓」ではなかったと言う。すなわち、一般戸籍に編戸された斑田農民ではなくて、大宝令にいう「山川藪沢之利」によって生計を立てていた貧しい賎民であった。そして、「野山にまじりて」は、当時としては「極貧」を意味すると断じたのである。(P.178)

と述べている。「川竹」とは無主無縁の存在であり、竹細工師はかなり昔から農耕民より低い身分とされたようだ。古くは縄文時代にも竹の籠に漆塗りを施したものが交易の道具に使われており、その頃は竹は神聖視されていたのではないかと思うが、大和朝廷が成立すると、畿内に移住させられた隼人が竹細工の仕事を与えられており、この頃から竹は卑賤視されていったのかもしれない。なお、中世の遊女が水上で営業していた事から、海洋民である隼人との関連も疑われるが、はっきりしない。沖浦和光『瀬戸内の民俗誌』では、遊女と住吉大社との縁が深い事や古要八幡社の傀儡人形を手掛りに、やはり海洋民である宗像氏との関連を示唆しているが、これもはっきりしない。

またまた話が横に逸れたが、『猿源氏草紙』が書かれた頃には既に<遊女=無主無縁=卑賤=川竹>という社会通念が成立していたのではないか。だとすれば、「川竹の遊女なれば」高貴な人しか相手にしないというのは、一種の諧謔、滑稽と見るべきかもしれない。このような悪ふざけの精神は、『梁塵秘抄』の次のような歌とも相通じるものがあると感じるのだが、いかがだろうか。

・隣の大子(おおいこ)がまつる神、頭の縮(しじ)け髪、ます髪額髪、指の先なる拙髪(てづつがみ)、足の裏なる歩きがみ。(402)

・頭に遊ぶは頭虱、項のくぼをぞ極めて食ふ、櫛の歯より天降る、麻小笥の蓋にて命終る。(410)

・八幡へ参らんと思へども、賀茂川桂川いと早し、あな早しな、淀のわたりに舟浮けて、迎へたまへ大菩薩。(261)

・拘尸那(くしな)城の後より、十の菩薩ぞ出でたまふ、博打の願を充てんとて、一六三とぞ現じたる。(367)

こうして見てくると、大真面目な宗教性でないのは確かなのだが、「大真面目な宗教性」を茶化してしまう悪ふざけの中に、何かしら「祝祭性」とか「非日常性」といったものは認められるように思う。言ってしまえば、ドンチャン騒ぎの祝祭性である。それを「聖性」と言っても間違いではないと思うが、≪賎≫と表裏一体の≪聖≫である。

そうした、言わば猥雑な祝祭性のようなものは、先に引いた『夢殿物語』の末尾のフレーズ「ちゃせんやこのさ」にも(この「茶筅」から「川竹」を連想するのは穿ち過ぎにしても)、また、『心中天の網島』の冒頭のフレーズ「さん上ばっからふんごろのっころちょっころふんごろで」にも、お座敷小唄のフレーズ「溶けて流れりゃみな同じ♪」にも、活き活きと宿っていると私は思う。

私なども「馴染の姫さまが卒業されました」という言い方をし、あるいは女神や天女に例えたりもするが、真面目な信仰の対象としている訳ではない。だがその一方で、本物の神々や仏よりも生身の風俗嬢のほうが「ありがたい」「ご利益がある」という気持ちも少しあるのだ。ギャンブル好きな人はよく風俗嬢の下の毛を「お守り」にする。実は私も数本持っていて、家宝として崇め奉っている。女王様の「聖水」や「黄金」も、好きな人にとっては有難いものなのだ。

遊里の馬鹿騒ぎの祝祭性は、≪聖≫に純化された皇室の公式行事の如きものとは性質が違う。かと言って、「ええじゃないか」のような素朴で野卑な民間信仰ほどの圧倒的な熱狂もなく、どこか醒めているように思う。夢をみながら「これは夢だ」と悟っているような感じだろうか。

このような私の捉え方からすると、佐伯氏が近松門左衛門の『心中天の網島』を取り上げて、そこに登場する近松の分身と思しき生臭坊主の念仏について語る次の言葉には、少し違和感を覚える。

 青道心のふざけた念仏とはいえ椀久狂乱の道行を織りこんで悲恋を暗示するこの一鏈は、死すべき小春の鎮魂である。山姥が遊女にひかれて現われたごとく、小春の死の祝祭の女神としての運命に同調して「一丁目から なまいだ坊主が 転合念仏して来る」のだった。(P.197)

「ふざけた念仏とはいえ」ではなく、「ふざけた念仏だからこそ」なのではないか。このお茶らけた不真面目な念仏こそが、色道に惑う女と男の鎮魂には相応しいというべきではないか。茶化してはいるが、決して上から見下して馬鹿にしているのではない。近松=生臭坊主の視点は、色道に惑い地獄に落ちる二人よりも、なお低い所にあるからだ。そしてまた、

 したがって、遊女も金銭も、聖であり賎である両義的性格をわかちあっている。「いかな吾妻殿でも 太夫さまでも ひつきやう値段の高い惣嫁ぢやないか」(『山崎与治兵衛寿の門松』)と言われ、「傾城は売物買物」といわれる時は、遊女と金銭の双方が侮辱されている一方、富も遊女との逢瀬も、人々の憧れの的となっているわけである。
 金銭が心中劇の契機となるのは、決して「下賎」でも「特殊」でもなく、遊女の死のエロス的祝祭性を支える要因なのである。(P.194)

しかし「下賎」という要素もまた、祝祭性を支えているのではないか。遊廓という空間は、遊蕩にふける道楽息子が「殿様」として扱われ、貧しい農村から売られてきた娘が「姫君」として扱われる、作り事の世界だ。その哀しさと可笑しさを、遊里文芸の作者たちは皆、どこかで意識しているように思える。それでいて、思い切り遊んでみせる。描かれる男も女も滑稽だが、それを書いてる作者はもっと滑稽だという意識が、作者自身にある。その馬鹿馬鹿しさも含めて「祝祭」なのだと思う。

つまり私から見ると、性の祝祭性であれ死の祝祭性であれ、そこから≪聖≫だけを取り出して≪賎≫を削ぎ落としてしまう佐伯氏の論は、佐伯氏自身が批判する「確かに彼女たちは売春もした、しかし文化的貢献もしたのだ」という解釈(P.242)と、どこか似通った誤りを犯してしまっているように思えてならない。

そもそも、なぜ遊廓という空間が作り出されたのだろう。

中世の後半、遍歴・遊行の芸能民たちの社会的地位に何か異変が起こった。網野善彦氏に言わせれば、それまで「聖」視されていたものが突然「賎」視されたという事になるのだが、私としては釈然としない。これは被差別部落の成立にも関連する日本史上の大問題であり、とうてい私の理解は行き届かないのだが、ひとまず、沖浦和光/宮田登『ケガレ 差別思想の深層』所収の沖浦氏の論考で説かれる、次のような見方が妥当だと考えたい。

 遊女・傀儡子など、漂泊の遊芸の民の歌謡を集めた『梁塵秘抄』が、後白河法皇(1127~92)によって編まれたのは十二世紀後半でした。そのころは、法皇と遊女・乙前との人間的な交情にみられるように、貴人たちと卑賤視された遊芸民との間にはまだ絶対的な壁はありませんでした。
 しかし、密教と神道を通じて≪浄・穢≫観がしだいに広まるにつれて、古代からの≪貴・賎≫観にとって代わって、ケガレを不浄とみる思想がしだいに広がっていきます。
 …(中略)…
 こうなってくると、死穢・産穢・血穢などにまとわりつかれた<賎>の世界は、<貴>はもちろんのこと、<俗>界からもしだいに隔離されていくようになります。ケガレの伝播を恐れたのです。(P.60)

 毛皮を剥いで皮革を作る賎民こそ、宗教が成立する以前からのアニミズム的神事を執り行える呪能の持ち主とみなされた時代があったのです。
 しかし、そのような<聖>性の痕跡は、ケガレを不浄とみる思想が普遍化するにつれてしだいに消えていきました。近世に入ると、ハレの日の門付芸にしても、予祝行事ではあるが、他方では窮民たちの「乞食所行」とみなされるようになりました。(P.67)

本来ならば、江口・神埼の遊女や、宿々の傀儡子たちの後身は、夜鷹や惣嫁や辻君であり、舟饅頭や「おちょろ舟」のハシリカネであり、山猫や売り比丘尼であるはずだ。ところが、これらの女たちは皆、江戸幕府からは「売女(ばいた)」と呼ばれる。そして、公許遊廓の女郎だけが「遊女」と呼ばれるのである。これは奇妙ではないか。なぜ遊行しない女が「遊女」で、遊行する女が「遊女」ではないのか。

しだいに「不浄」視され忌避されるようになった遊行の民との差別化を図るためにこそ、遊廓は必要とされたのではないだろうか。しかも、まだ「聖でもあった」遊女たちの伝説の後継者に、「遊行しない遊女」を指名してまで…。近世の遊里文芸が、「歌舞の菩薩」といった美辞麗句を並べ立てて傾城を誉め称えるのも、そのためだったのではないだろうか?

だとすれば、佐伯氏の次の言葉はどうだろう。

 もちろん、ここで主人公の一目惚れしたクララなる娼婦が、娼婦の中で最下級のクラスに属する女であったということはある。しかし、やはり最下級の私娼である夜鷹が、高尾太夫を前に懇々と色道の何たるかを説く洒落本が存在する。

 そもそも夜鷹の遊びといふは、誠に色道の真をつねとし、欲をはなれ賎しき事なし。(『跖婦人伝』)

 格子女郎の妹と高尾太夫の二人に向かって夜鷹のせきは誇らかに説きはじめ、「正直なる心を以て、男と女のまじはりすれば、こゝが色道の根元にして、ちと洒落才ことながら陰陽自然の色道なり」と、虚飾に包まれた太夫の生活を批判する。かくして色道の極意を説く彼女は「神色容貌」を輝かせ、「江口は誠に普賢菩薩の化現なり。跖もまた察するに、鼻欠地蔵の権化なるべし」と讃えられるのである。性的交渉が色道哲学に裏うちされている時代は、婬を売ることは必ずしも軽蔑に直結しなかった。「鼻欠地蔵」などという表現や、「跖婦人伝」という老荘思想のパロディを狙った題名をみれば、滑稽がねらわれているのは確かなのだが、せきの力強い口吻からは、当時の「色道」の力がそのまま伝わってくるのである。(P.228)

この『跖婦人伝』はパロディーとして面白く、私は大好きなのだが、これが当時の夜鷹の実態を表していないのはもちろん、当時の遊び人のイメージや願望をすら表してはいないだろう。ここでの主題は遊廓の格式や、もったいぶった色道そのものを茶化す事であって、夜鷹は単に太夫を茶化すために引き合いに出されたに過ぎぬ。むしろ、これより半世紀ほど前に書かれたらしい『吉原徒然草』の次の一節のほうが、まだ実態を反映していよう。

   二十二段 万の事は月見るにこそ
 夜たかの能(よき)は、月夜に出るものなれ。…(中略)…仮粧は鼠壁(ねずみかべ)をあらそひて、燈灯(ちょうちん)を見れば心かなしく店下へ隠れ、人遠く行ば又出て、所々にまどひありきたるばかり、心のかなしき、此外はあらじ。(岩波文庫版P.38)

佐伯氏は「同じ近世文学でも、廓のレポートという性格の濃い洒落本では、筆致がリアルなだけに、文化史的象徴度は薄くなっている」(P.95)と述べているが、ちと洒落才ことながら、私の印象は違う。私は洒落本を少ししか読んでおらず知ったかぶりの域を出ないが、どうも洒落本は虚構性が高いような感じがするのだ。

近世初期の仮名草子を読むと、現代の風俗遊びにも通じるものがある。実戦に応用できる。ところが、洒落本はあくまでも読み物であり、実際の遊びの参考にならないと思う。これは買春者としての単なる勘に過ぎないが…。別の言い方をすれば、洒落本をそのまま真似したら、それは既に野暮なのだ。おそらく洒落本というのは、書いてる奴だけが粋なのだと思う。

ともあれ、なぜか洒落本は遊廓や太夫をあまり美化しなくなった。もっぱら茶化すようになった。その理由については私なりに考える事が無いでもないが、また長くなるので、ひとまず本題に戻ろう。佐伯氏が『遊女の文化史』の序章で述べている次の言葉、

 しかし、自ら遊ぶ女として、聖なる力を宿していた遊女たちは、やがて遊郭の中に囲いこまれ、さげすみと憧憬というアンビバレントな社会感情を身に受けつつ、ついには遊芸と売淫との分離によって、もっぱら前者を担う「文化」人と、後者に専念する娼婦へと二極分解してゆく……この変貌の過程はそのまま、人々が「神遊び」の背後に認めていた「聖なるもの」を見失い、快楽のみを独立して求めたゆえに、「遊び」の意味内容から「聖」が脱落して、低俗な性と高尚な文化、という価値観として正反対の概念が生ずる様相を呈しているのである。(P.4)

この問題意識そのものは、とても重要な点を突いていると私は思う。それだけに、本論の中でその「二極分解」のプロセスをしっかりと追いきれていない感があるのは、非常に残念に思う。


さて、やっと本題です。佐伯氏に対する貴方の批判は、以下の点において不当なものであると考えます。

(1) 「中世の遊女神聖論を近世に持ち込むことはできない」のか

ここまで述べてきた事は、あくまでも私の考え方、それも拙い素人考えに過ぎません。まるで間違っているかもしれないし、他にも様々な見解があるでしょう。しかし、様々な見解があるという点が重要です。「神聖」とか「聖性」というのが何を意味するのか、その点を論じてからでなければ、それを「近世に持ち込めるかどうか」を判断できないと思います。そして、おそらく貴方は「遊女神聖論」について定見を持っていないのでしょう。

 学術的にも、中世以前の遊女が持っていたとされる巫女性を近世の遊郭にまで持ち込むのは強引で、フェミニストでもなく、むしろ伝統的な遊女論の趣きのある大和岩雄の『遊女と天皇』(白水社)さえも、佐伯のこのやり方を「ついてゆけない」と評した。かつ、古代から中世までの遊女が神聖なものだったという議論じたいが、既に批判や議論の対象になっている。(P.37)

ご自分はどの説を支持してるんですか。貴方が言ってる事は要するに、「大和岩雄によれば遊女神聖論は近世には当てはまらないらしい。他に、遊女神聖論そのものを批判する説もあるらしい。どっちにせよ、近世の遊女は神聖ではない」という事ですよね。つまり貴方にとっては、「江戸幻想派」とやらを叩く材料が得られさえすれば何でもいいのでしょう。それをご自分では「学問」だと思っておられるのでしょうか。

(2) なぜ「人身売買」「悲惨な境遇」を持ち出す必要があるのか

「遊女神聖論が成立するか」という議論と「女郎の境遇の悲惨さ」とは別問題です。例えば「悲惨だからこそ悲劇のヒロインとして神格化された」といった見方もできなくはないからです。「そんな混同はしていない、ちゃんと読め」と反論する前に次の箇所をご確認下さいね。「私は女郎の悲惨さを知ってしまった」ゆえに「神聖性など認められない」という発想をされています。

 十年前のフェミニズムは、売春を、男による女の搾取としてほぼ全面的に否定していた。それが今では、「性的自己決定権」という言葉で、自由意志による売春は容認し、労働者として権利を保護していくべきではないかという方向へと転換しつつあるのである。  しかし、後者は、現代の、自由意志で売春を行なう女性の話であって、近世から明治・大正・昭和初期の娼婦が、人身売買による奴隷制の産物であることに変わりはなく、そこに「聖なるものとしての性」などを見て取ろうとする佐伯の姿勢が、かつて佐伯との対談で井上章一が的確に述べたように、「明るい面を理想化しすぎ」るのは今でも変わらない。(P.37)

 最初の本はほとんど書評してもらえなかったが、唯一好意的な書評をしてくれたのは佐伯さんであり、その後も私は数多くのことを佐伯さんに学び、刺激を受けた。そういう人たちに叛旗を翻すなど、鬼畜生のすることだ。だが、吉原の女郎の平均寿命が二十三歳だったという過酷な現実や、徳川後期文藝の女郎への眼差しの実態を知ってしまった私には、近世の女郎が「歌舞の菩薩」として崇められていたなどという、恣意的な引用から構成された説を容認するわけにはいかない。(P.78)

また、歴史的事実を元に批判するのであれば、ちゃんとした歴史学者の研究成果を紹介されては如何ですか。例えば、曽根ひろみ『娼婦と近世社会』では、丁寧に史料にあたった上で、次のように述べています。

 それらの史料に登場する私娼たちの現実は、性を共有される「色恋の菩薩」「色恋の女神」などという、文芸作品の中で美化されてとらえられる近世の遊女像と大きく隔たっていると言わねばならない。

この曽根氏の論考の初出は1990年です。貴方が「女郎の平均寿命」云々などという小学生レベルの話をしなくても、ちゃんと史料にもとづいて娼婦の境遇を論じ、佐伯氏を批判している歴史学者はいるのです。そのような、まともな歴史家の記述を引用すればいいのに、何故そうしないのですか。

もしかすると、「佐伯に対して、近世を専攻する歴史学者から、佐伯が依拠する文学作品では遊女は理想化されているかもしれないが、現実は悲惨なものだったという反論が寄せられもした」(P.38)というのが曽根氏の論考を指しているのでしょうか。だとしたら、なぜちゃんと名前をあげて内容を紹介しないのでしょう。曽根氏が廃娼運動の限界を批判しているのが気に食わないのですか?

(3) なぜ文学の領域で丁寧な議論ができないのか

よく知りもしない歴史的事実を論拠にするから墓穴を掘るのですよ。ご専門のはずの文学の領域で、やる事は沢山あるでしょうに。先ほど私も拙いながら、『露殿物語』や『猿源氏草紙』について「そんなに真面目なものではなかろう」という話をしてみました。また、滝川政次郎『遊行婦女・傀儡女・遊女』では次のように述べています。

 いかに衆生済度の方便とは申しながら、遊女が菩薩の化身というのは、ちとひど過ぎる。
   遊 女 と は あ ん ま り 派 手 な 化 身 な り
   現 じ や う こ そ あ る べ き に 遊 女 な り
は、この僧徒の方便を非難した柳句であり、
   菩 薩 さ ま 凡 夫 へ 向 き の よ い 済 度
   凡 人 へ 菩 薩 の 済 度 も つ て こ い
   二 十 五 の う ち に 傾 城 一 人 見 え
   う ら に 来 て 聞 け ば お と と ひ 象 に 乗 り
は、この話を茶化した柳句である。遊女を歌舞の菩薩と呼んだり、二人禿を随えた花魁を三尊来迎といったりするのは、みなこの話に源を発しているようである。
   緋 縮 緬 け だ し 菩 薩 の 済 度 な り
は、蓋しを蹴出しに利かせたもの、
   今 ど き の 傾 城 ク ゲ ン 菩 薩 な り
は、普賢(ふげん)を苦患(くげん)ともぢったものである。
   饅 頭 を 普 賢 も 象 に 度 々 見 ら れ
こうなっては、済度も何もあったものではない。(P.109)

法制史が専門の滝川氏が、こういう仕事をしてるのです。貴方にできない筈はないでしょう。それとも、できないのでしょうか。とりあえず、落語も大事でしょうけど川柳なども研究されてみては如何でしょうか。なお、貴方が「女郎への虐待」を示す文学作品として挙げておられる『傾城買二筋道』に対する貴方の解釈には疑問があります。これは重要な点ですので、節を改めて論じます。

(4) なぜ佐伯氏の人柄や私生活を持ち出すのか

貴方は『江戸幻想批判』の中で次のように述べています。

 上野[千鶴子]については前にも書いたことだが、佐伯[順子]もまた、近代的な厳しい性道徳をもった家庭で育てられ、その桎梏を感じるところから、前近代の性的自由に対して妙な幻想を抱くに至ったのだろう。もっとも二人が違うのは、上野が敢然とこういう近代的純潔イデオロギーに反発して「奔放」な生き方をしているのに対して、佐伯が、私の知るかぎりではかなりカタイお嬢さんであり続けているということである。しかしこの二人が共通しているのは、自分が徳川時代に生まれていても、やっぱり武家の娘だったら似たような状態だったろうという想像をあまりしないことである。上野の場合、それが特にはなはだしい。つまりこの二人は、自分がたまたま中流の上の方の厳しい家庭に育ったことへの怨みを、「近代」そのものにぶつけているのだ。(P.88)

 佐伯順子さんとは、歌舞伎の話や恋愛の話やストリップの話までした。彼女が人一倍、近代的な愛の理想に縛られた人であることも、なぜ自分がそうなったのか懸命に追及しようとしてああなってしまったことも、そんじょそこらのインタヴュアーだの新聞記者なんかより、私のほうがよく知っている。マスコミの要請でたくさんの雑文を書きながら、「中身がどんどん薄くなる」と自ら嘆いていたことも知っている。ただし、研究内容について私が異見してもほとんど聞き入れなかったけれど。(P.205)

ここでの貴方の発言は、名誉毀損罪に該当します。また、「カタイお嬢さん」云々という発言はセクシャル・ハラスメントにあたるのではないかと考えます。

【刑法230条(名誉毀損)】 公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する。

?@ まず、本条にいう「公然と」とは、「不特定または多数人が知ることができる状態」をいい、実際に貴方の著書が売れたかどうか、多数人に読まれたかどうかを問いません。

?A 次に、ここでいう「事実の摘示」には著書などで公開されている情報は含みませんが、「どのような家庭で育ったか」「私生活において奔放な生き方をしているかどうか」といった個人的に知り得た情報の開示は、「事実の摘示」にあたります。その事実が真実であるか虚偽であるかは問いません。

?B また、これらの事実の摘示は、上野・佐伯両氏の学問上の問題意識が私怨から生じたものであるという主張と結び付けられており、両氏の学者としての名誉を毀損するものであると言えます。なお、ここでいう「名誉の毀損」とは「人の社会的評価を害するおそれのある状態を発生させること」をいい、実際に貴方の発言によって社会的評価が害されたかどうかを問わないというのが通説・判例です。

?C よって、上記の貴方の発言は刑法230条の要件を満たすものです。

?D ただし、名誉毀損罪は親告罪とされています(刑法232条)。おそらく佐伯氏も上野氏も貴方を告訴する意思はないのでしょう。貴方は、今なお処罰されず社会的制裁をも受けずに済んでいる事について、佐伯・上野両氏の温情に感謝すべきですよ。

※ 貴方は絶望書店主人氏に対し、「『蛆蟲以下の唾棄すべき連中であります。』などという表現は立派に刑法上の名誉毀損罪を構成いたしますよ」と言っておられたようですが、ここでの絶望書店主人氏の発言は刑法230条にいう「事実の摘示」には該当しません。また、特定の人を名指したものでないため、同条の「人の名誉を毀損し」に該当しません。よって、名誉毀損罪は成立しません。知りもしない法律の話など持ち出さない方がよろしい。

さて、話を『遊女の文化史』に戻しますが、先に述べたように私は佐伯氏の「巫女が遊女に『転身』したという発想の誤り」「自ら遊ぶ女であった遊女が遊廓の中に囲い込まれ、遊芸と売淫との分離によって、もっぱら前者を担う文化人と、後者に専念する娼婦へと二極分解してゆく」という問題提起は重要なものであると思っています。それだけに、本論において「遊芸と売淫との分離」「二極分解」の過程がしっかりと論じられていないのは残念であると考えます。

ところが、貴方の佐伯氏に対する批判は、全くの誤りとまでは言えないにせよ余りにも粗雑であり、本質を突いていないだけでなく、私的に知り得た情報まで持ち出して執拗な人格攻撃を行なうものであります。そのような目に遭えば佐伯氏ならずとも真面目に反論するよりは貴方との関り合いを避けるでしょうし、この問題に関心のある他の論者もまた、貴方から個人攻撃を受ける事を恐れて参戦を見合わせるかもしれません。恐らくは、そのような事態が実際に起こっているのではないかと懸念します。

大切なのは佐伯氏の論に対する「きちんとした批判」であり、そのために貴方の存在は、障害であり、迷惑であり、邪魔なのです。

■ 梅暮里谷峨『傾城買二筋道』について

私は文学については全くの素人で(歴史についても素人ですが)、遊里文学に限定しても数えるほどしか読んでおりません。しかし敢えて浅学非才を顧みず述べさせて頂きます。貴方の『江戸幻想批判』によると、

 最初の本はほとんど書評してもらえなかったが、唯一好意的な書評をしてくれたのは佐伯さんであり、その後も私は数多くのことを佐伯さんに学び、刺激を受けた。そういう人たちに叛旗を翻すなど、鬼畜生のすることだ。だが、吉原の女郎の平均寿命が二十三歳だったという過酷な現実や、徳川後期文藝の女郎への眼差しの実態を知ってしまった私には、近世の女郎が「歌舞の菩薩」として崇められていたなどという、恣意的な引用から構成された説を容認するわけにはいかない。(P.78)

この一文の中の「女郎の平均寿命」については既に論じましたが、「徳川後期文藝の女郎への眼差し」についても疑義があります。この徳川後期文藝として、貴方が具体的にテクストを挙げて論じている洒落本『傾城買二筋道』の解釈についてです。

 私が博士論文の草稿を、審査の主査となるであろう教官に送ったとき、こういうことがあった。私が、十八世紀の洒落本『傾城買二筋道』(梅暮里谷峨作)の後半を指して、「女性虐待というに近い」と書いたのへ、その教官は「現代の価値観で過去を裁断してはならない」という意味のコメントを付したのである。私はこのコメントをあえて無視したので、詳しくは拙著『<男の恋>の文学史』を見てもらいたいのだが、簡単にいうと、一重という若い女郎の許へしげしげと通ってくる文里という男がいるのだが、文里が醜男だということもあってか、一重は相手にしない。すると姉女郎たちが寄ってたかって一重に異見するため、一重は泣きだし、いきなり小指を切って文里に詫びるのだが、文里は怒りだし、おめえのようじゃあこれからやっていけねえから、とくどくど説教するのである。最後には文里・一重は相愛の仲になりはするのだが、その過程でのこうした描写に私はぞっとして、こう書いたのである。(P.61)

「現代の価値観」云々については後で改めて触れるとして、私なりにこの作品を解釈してみます。

通人だが醜男の文里は、若く美しいが気の強い一重のもとに足繁く通うが、一重は「まだ年若のおぼこ気にて、此客を嫌ふ事いわんかたなし」という様子。ここを、文字通りに一重が文里を嫌っていたと受け取ったら、ミもフタもないでしょう。一重ちゃんは文里おじさんが好きだったんですよ、本当は。

先行する洒落本、例えば山東京伝の作品などを見ると、かなり複雑な心理的駆け引きが描かれている。当時の読者は、それなりに目が肥えている。「一重は文里を嫌っていたのに、姉女郎たちから説教されて、突然、文里を好きになった」などという強引な展開に、当時の読者がリアリティーを感じたとは到底思えない。まして、この作品は何度も版を重ねており、「美談」として愛読され人情本の嚆矢になったと位置付けられているのでしょう。

深切なお人だと思いつつも、顔を見れば何故だか無性に腹が立ち、つらく当たってしまう。優しくされればされる程、ますますイライラしてしまう。ところが、そんな文里がもう来ないと聞いて、せいせいするかと思いきや、なぜか心が乱れ泪が溢れる。もう文里に当り散らせない、もう我儘をぶつける相手がいない。そう思った時はじめて一重は、文里に甘えていた自分に、文里を必要としている自分に気が付いたのでしょう。

姉女郎の九重姐さんが一重を諭す台詞の中に、

九重「まあ文里さんをよぶ気はござんせんかへ。それじやァすみいすめへによ。そしてまあ不人情といふものでだんす」
一トえ、うつむき、ちりヲひねつている
九重「もつとも胸にもおぼへが有いせうが、あのよふに深切にしなんすほど、意地にかゝつて悪くしなんすが、…」

この九重の言葉「深切にしなんすほど、意地にかゝつて」は、一重が文里をただ単に嫌っているのではない事を言い当てているのではないでしょうか。どんな我儘を言っても意地悪をしてもニコニコと受け止めてくれる文里に、一重は心のどこかで甘えていたのです。たぶん一重ちゃんは少々ファザコンの気があるのかもしれない。

私の解釈は穿ちが過ぎると思われますか。しかし、ここを文字通り「一重は文里を嫌っていた」と取るならば、姉女郎の説得によって一重は突然、文里を好きになった(あるいは好きな振りをした)と解する他はなく、そんな下らないストーリーに当時の読者がカネを払ったとは私には信じられません。

貴方は「これが『泣き本』と呼ばれて人気を博し、人情本登場の下地をつくったというのだから、近世末期の女性観・恋愛観の頽廃は想像するだにすさまじい」(『<男の恋>の文学史』P.93)と言われますが、頽廃しているのは貴方の想像力の方ではないでしょうか。

さて、一重の心理を上のように解するとして、その後の展開を見てみましょう。

一重は自分の気持ちを整理できず、言葉にならない。「ごめんなさい、ごめんなさい、私、私…」と泣きじゃくり、小指を切って詫びる一重。ところが文里は「お面をかへて」怒り出し、「あどけねへ欲のねへ子だと思ふから、悪くされるもいとわづ来たが、うつて変つて、こう図太い仕打をされては、もふかんしゃくにさわる」と言い放つ。それでも「殺して殺して」と口走り髪剃を振り回す一重を、文里は慌てて止める。「そんなら堪忍しなんすかへ」「堪忍するよさ」と、めでたしめでたし。

この小指の切り方は現実的とは言い難い。何の準備もなく介添人もなしに、うまく小指が切れるものか。まして「しんこ細工の小指」もあった事は、先行する山東京伝の洒落本でも暴露されており、この時代には最早「指切り」は、読み物の中だけの話と考えた方がよいかもしれぬ。それよりも、「小指を切る」といった古典的な心中立てを茶化すのは洒落本の常道、それが本作では更に進んで「嘘である証拠」と見做され、手練手管を超えた本物の誠・人情の引き立て役として扱われている。

しかし、指切りを「読み物の中だけの話」と見るにせよ、ここで少々疑問が残る。

疑問?@:文里は「万事いきにして如才なき通人」として設定されている。されば手練手管にも通じていよう。指を切った一重に怒ってみせたのも、彼女の心を焚き付けるテクニックではなかったか。そもそも、姉女郎たちに別れを告げ、「これからもう少し客に愛想を見せるよう、一重に言ってやってくれよ」などと言ったのも、それに応じて姉女郎たちが一重を諭したのも、文里が書いたシナリオではないのか。

疑問?A:さらに、それを言うなら、一重が半狂乱になって「殺して殺して」と口走ったのも、手練手管と解する余地はないか。そもそも、文里を「嫌っていた」のも、かえって文里を本気にさせるテクニックではなかったか。

まず疑問?Aから検討すると、一重がそこまでテクニックを駆使するメリットが見当たらない。文里は醜男である。では金持ちなのか。しばしば遊廓に足を運ぶからには、他の遊客と同程度には金を持っていようが、特段に裕福であると読める記述は無い。すると、やはり一重の行動は打算ではなく「真情」によるものと見るのが妥当であろう。

次に疑問?@を検討しよう。文里は本当に人の良い男なのか、腹に一物ある男なのか。姉女郎たちが皆、文里と友達付き合いをし、「文里さん、文里さん」と慕っている。文里を「親切な良い人」と言っている。年若い一重は騙せても、海千山千の姉女郎たちまで騙されるだろうか。それとも、姉女郎たちもまた何か含む所があって、内心は良く思っていない文里を、一重とくっつけようとしているのだろうか。いや、姉女郎たちがそんな事をするメリットは、やはり見当たらない。してみると、やはり文里の人柄は姉女郎たちの言葉どおり「親切な良い人」と受け取るのが妥当であろう。

そもそも手練手管を弄して女郎を口説くような男は「半可通」として小馬鹿にするのが洒落本のお約束。文里の人物設定である「万事いきにして如才なき通人」という文句も、「手練手管の達人」ではなく「嫌味のない気配り心配りのできる人」という程の意味であろう。

文里は、人の良いのが取り柄の男なのだ。「いい人」として慕われる事はあっても、本気で惚れてもらえるタイプでない事は、誰より本人が自覚している。だからこそ、一重が指を切っても、俺なんぞに惚れてくれる筈がねぇ、これは打算に違いねぇ、と思ったのだろう。日頃モテない男の恨み哀しみも手伝って、「そこまで馬鹿にしてくれるな」と怒ったのだろう。「嘘のつけない裏表のない子だと思えばこそ、報われぬ片思いの恋でもいいと思い、通ったのだ。見損なった」というのは、文里の真情と読むべきだろう。

以上が、私なりの『傾城買二筋道』の解釈です。この話を面白いと思うかどうかは人それぞれですし、解釈も色々あり得るとは思うのですが、これを「女性虐待」「女性観の頽廃」とするのは、何か勘違いされているとしか思えません。

ところで、貴方は『江戸幻想批判』で自信たっぷりに述べておられますね。

 けれど、私は『<男の恋>の文学史』で、十七世紀の色道論には、本当に女郎を思うなら身請けしてやれ、というもっともな言葉が出てくるのに、十八世紀以降そういう発想はなくなり、十八世紀後期には女郎を蔑視しているとしか思えない振る舞いが現われることをテクストに基づいて論じたし、佐伯[順子]はそういう近世のなかでの変化さえ無視している、と言っているのだ。それとも、田中[優子]にとっては私のこうした分析さえも近代的な視点によるものと見えるのだろうか。(P.55)

十八世紀後期というのは『傾城買二筋道』の事ですよね。そこでの貴方の「分析」が近代的かどうかは知りませんが、十七世紀の色道論に出てくる「本当に女郎を思うなら身請けしてやれ」という言葉が、「もっともな言葉」とは私には思えません。『<男の恋>の文学史』の該当箇所を参照してみましょう(P.79)。

 延宝八(一六八〇)年刊行の、『色道諸分 難波鉦』は、「遊女評判記」としては破格の高い文学性をもつ。難波新町の傾城たちと商家のドラ(鉦)息子との問答形式をとって遊里での遊びのマナー(諸分)を教えるものだが、なかに女郎金吾の言葉として、次のような一節がある。

誓紙誓文は、可愛い女郎には、いらぬ事さうな。まして指切、爪放し、髪剪、入墨は、目の前に支離にさしやんすことなれば、なを胴欲でござる。よし愛しいがまことならば、根引にさんしたがよふござる。根引ほどありがたき起請はござるまひ(印問答)

「誓紙誓文」は、女郎の側から間夫(愛人)への誠実の証として示すものだが、ここで金吾は、もし男が真実その女郎を愛しく思うなら、そのようなものはいらぬこと、いわんや指、爪などを切り、体に傷をつけて誠を証し立てさせるなど惨たらしいことで、本当に愛しいなら身請けせよ、といっている。
 …(中略)…
 借銭の抵当として苦界に身を落としている女が、身請け話に首を縦に振らないなどとは、基本的に考えられない。彼女は失うべきものをもっていないのだから。失うものをもたない女を恋の対象にするとき、そして男が十分な金をもっているとき、金吾の「根引」せよという勧めは、男にある二律背反を引き起こす。つまりこの場合、男は、女によって自分がただひとりの男として選びとられたという確証をもてなくなるのである。

しかし私には、「借銭の抵当として苦界に身を落としている女が、身請け話に首を縦に振らないなどとは、基本的に考えられない」とは、基本的に考えられないのですが。貴方が「基本的に」と留保を付けたのは、「心中事件はどうなのだ」という反論を予期したものでしょうか。それについては後で触れるとして、同じ『難波鉦』の中から、「身請けの断り方」の例を見てみましょう。

「誰身上(たがみのうえ)」(岩波文庫版P.226)では、妻子のある男が高田という女郎に「其方の借銭は如何ほどあるぞ。何程ならば根引がなるぞ」と問います。「嬉しきことなれど、御内儀さまがござんす。お子達もあるげな。ならぬ事じや」と断る高田に、男は「女房とは別れる、子供は我が子と思って育ててくれぬか」と迫ります。すると高田は「追い出される御内儀様が可哀相です」と言い、また、次のように言います。

面白紛れに迎へさしやんす我が身の事なれば、秋風がたつまい物ならず。其時はまた今の御内儀さまの通りでござんす。棄てらるゝ我身よりは其方さまを、浮気らしういひましよ。

高田の言葉は「浮気なお人じや」で結ばれており、これがこの話のポイントです。こんな浮気な男と一緒になったとて、いつかは自分も飽きられて、今の奥様と同様に捨てられるやもしれぬ。「明日は我が身」というのが、この話のタイトル「誰身上」の意味する所でしょう。

この話を貴方はどう読むのですか。もし遊女が「誰でもいいから金のある男に身請けされたい」と思っているなら、どうして断る理由があるでしょう。たとえ子育てに苦労しようが元の奥さんに恨まれようが、借銭がきれいに無くなって遊廓から出られるのですよ。やがて飽きられて捨てられようが、人生をやり直せるのですよ。貴方の理論が正しければ、断る理由などない筈です。それとも、先ほどの「印問答」は真実を描いているが、この「誰身上」は絵空事だとでも言われますか。

では、「印問答」(岩波文庫版P.39)の話に戻りましょう。そもそも、この話は「正論」を説いたものではありません。

男=大臣は女郎=金吾に「女郎は真に好きでもない男に『好きよ』と起請誓文を書くが、よく罰が当たらないな」と意地悪を言う。金吾は「本心から書いた証文には神が宿りますが、無理に書かされた偽りの証文は神に無視されますから、罰も当たりませんよ」と理屈を言う。なおも大臣が「それにしても嘘を書くのは女郎に違いなかろう。男は真に女郎が愛しいから書かせるんじゃ。罰があたるのは女郎の方じゃ」と責めると、金吾は「約束を守ろうと思っても、浮世のならい、約束を果たせなくなる事はあるでしょう。すると罰があたるのは女郎です。どうして可愛いと思う女郎に、罰のあたる様な事をさせるのよ」と揚げ足を取り、「よし愛しいがまことならば、根引にさんしたがよふござる」と切り返す。

この話は要するに、「女郎は嘘つきだな」「男の方こそ浮気者でしょ」という、よくある痴話喧嘩のバリエーションなのですよ。私などもよく、久々に指名した姫さまに「どこで浮気してたのかな~?」なんて言われますよ。タイトルの「印問答」の「印」というのは、おそらく「愛の証」という程の意味でしょう。遊女と客との「誠実くらべ」です。問答の末に、男がギャフンと言わされて終わり。それも、大真面目に論争している訳ではなく、しょせんは床の間の戯言に過ぎません。

もし本当に身請けしてほしいと思っているなら、面と向って「身請けしてよ」なんて言う筈がないでしょう。そんな事を言ったら、普通、男は逃げてしまいますよ。さりげなく、男の方から「身請けさせてくれ」と言いたくなる様に持って行かなければいけない。「年季の明けるまで辛抱して、晴れて貴方と一緒になりたいけれど、もし嫌な男から身請け話があれば、断れないのが女郎の身の上、ああ、売りもの買いものの身の辛さよ…」と泣き落とすのが常道でしょう。

この大臣は恐らく、女郎に書かせた証文の枚数を遊び仲間と競い合うような手合いなのです。金吾もそれを判っていて、この浮気野郎に身請けしてほしいとは思っていない。大臣が「では身請けしよう」と答える筈のない事が判っているから、金吾も安心して冗談で「身請けしてよ」なんて言えるのです。

女郎が一般的に望む事は、「誰でもいいから身請けされたい」ではなく、「惚れた男、好きになれる男に身請けされたい」であろうと私は考えます。

貴方は「人身売買された女郎に自由など無い」と思い込んでいるのでしょう。なるほど、親の都合で売られて来て、身請けの相手方は親方に決められてしまう身の上。それでも、身請けされたくない相手は物日に呼びまくって散財させた挙句に口舌を起こして切ってしまう事も可能だし、身請けしてほしい相手には無駄金を使わせない様にして身代をつぶさせない配慮をする事も可能です。女郎は客を選ぶ事はできないが、その客を引っ張るか切るかは女郎の腕次第なのです。それでもどうにもならぬ時、最後の手段が心中(相対死)です。

近松門左衛門『心中天の網島』では、新地の女郎、小春が、独身で金持ちだが嫌味な太兵衛に身請けされるのを拒み、妻子持ちで軟弱だが優しい男、治兵衛と心中します。ところが貴方の『江戸幻想批判』によれば、

 よく考えてみるがいい。女郎だって何も好き好んで女郎をしているわけでもなく、客に惚れるのだって、悲惨な境遇からの精神的な脱出の試みとして惚れるのだ。心中なんかするより、少しぐらい嫌な男でも金があって身請けしてくれる男の女房になったほうがいいに決まっている。じっさい調べてみればホントに恋のために心中した女なんていないのである。絵空事、しかも不愉快な絵空事だ。それに比べて落語の『品川心中』なんか、実にいい。リアリズムだ。心中なんて実際はこんなもんだよと、ポーンと笑い飛ばしてくれる。落語には近松が描いたような嘘くさい女郎は出てこない。(P.82)

なるほど、貴方の理論によれば、治兵衛より金持ちの太兵衛のほうが「いいに決まっている」のですから、そりゃ近松にリアリティーを感じる筈もないでしょう。それは近松の文学的価値がどうのこうのではなく、単に貴方が「女郎=奴隷=自由など無い=恋などしない」と思い込んでいるからに過ぎません。「調べてみればホントに恋のために心中した女なんていない」というのは、何を調べましたか。例えば宇佐美ミサ子『宿場と飯盛女』では丁寧に史料をあたって心中事件の実態を調べていますが、貴方は本当に「調べた」のですか。三田村鳶魚『近松の心中物』によれば、

 情死は極端な例であるが、その情死も、遊廓よりも新地、公娼よりも私娼に多かった。規則立った場所だけに、遊廓に少く、格式を持つだけに、公娼に少いのである。同じ遊女でも、高級な太夫にはほとんどない。心中は資金の関係から発生するとのみ見做されていて、太夫の邀(むか)える嫖客は、概して富裕な者であるからだとも説明される。しかし太夫といわれる全盛な遊女ほど、借金が多かったのである。太夫には一種の名誉があり、格式があり、大尽といわれる嫖客も御同様で、赤裸になれないことも見逃されぬ。情死の多いというのも、大尽でない、太夫でない、お互いに赤裸になれる低級な公娼や、私娼が自由な恋愛のうちに、自分の心を正直にありのままに打ち明けるのであった。(中公文庫版P.237)

と述べていますが、このような見方を否定するだけの論拠を貴方は持っておられるのでしょうか。また貴方に言わせれば、

 これらの世話浄瑠璃では、男は、死ぬべき理由を持っている。だが、女のほうは、死なねばならない理由は薄弱だ。彼女たちは、なぜ死ぬのか。それは彼女たちが、女郎という、最底辺の職業を余儀なくされていることと密接に結びついている。不特定多数の客を相手に性行為を行ない、時には恋の真似事もしなければならず、借銭によって縛りつけられた職業。その絶望から、彼女たちは、性よりも、恋の相手たりうると見極めた男との死を選ぶ。もちろん、彼女たちにとって最も望ましいのは、この職業から解放されることである。
 近松の文章の美は、こうした社会背景の隠蔽の上になりたっている。同時に、近松の「美」なるものが、恋する男に従って死んでゆく女を美しいと感じる感性の上に立てられていることも、疑いない。(P.116)

しかし実際に近松の文章を見れば、『曽根崎心中』のお初といい、『重井筒』のお房といい、『天の網島』の小春といい、率先して死を決意するのは女郎ではないですか。近松が描くのは「男に従って死んでゆく女」ではなく、むしろ「男を従えて死を選ぶ女」の姿です。彼女たちが死を選ぶのは、「この職業から解放されること」以上に大切なものがあるからですよ。それは「自分の心を殺してまで生きていたくはない」という心意気であり、貴方が「女郎とはこういうもの」と思い込んでいる「自由の無い」「奴隷同然の」「金持ちなら誰でもいい」女郎にだけはなりたくないという思いでしょう。

近松が美化したのは、「死」ではなく、不本意な生き方を拒否する「心意気」です。

それにしても、近松が嫌いなら嫌いでいいのですが、近松が人気が無かったと盛んに主張されるのは奇妙ですね。没後は永らく上演されなかったと言われますが、確か、近松の晩年に「心中物」の上演は禁止されたのではなかったでしょうか。しかも、禁止されたのは「心中物」を真似た心中事件が相次いだからであり、それは正に近松の心中物が人気を博したからではなかったのですか。

そもそも近松の現代における価値を論ずるのに、人気の有無を持ち出す必要はないでしょう。仮に貴方の論旨に則して言えば、「近松の心中物は明治期に『自由恋愛の先駆け』として再評価されたが、借銭に縛られ将来を悲観した女郎の死を、明治時代の自由恋愛と同一視できるだろうか」とでも論じればいいし、「スキャンダラスでタイムリーな話題だったから当時は人気があったが、文学的価値は乏しい」とでも言っていれば済む事でしょう。なぜ無理に「人気が無かった」と言い張るのか、そこに貴方の品性の卑しさが現われているように思います。

さて、冒頭の『傾城買二筋道』に話を戻しますが、貴方の担当教官氏は「現代の価値観で過去を裁断してはならない」とコメントしたとの由。確かに、そのコメントは不適切です。『傾城買二筋道』を女性虐待だの女性観の頽廃だのと言うのは、貴方一人の価値観でしかない。貴方に現代の価値観を代表されては、他の全ての現代人が迷惑します。

貴方は「もし近世の遊里の慣習を現代的観点から批判してはいけないなら、いったいいつからが批判の対象になるのか」(P.65)と駄々をこねておられますが、「批判するな」と言われたのではないのでしょう。「裁断するな」と言われたのでしょう。もし貴方が、例えば「現代人である私の目には、この描写は女性虐待としか思えないのだが、当時の読者はこれを美談と受け取ったという。この違いは何なのか」といった言い方をすれば、それは「批判」になるでしょう。しかし「これは女性虐待に等しい」というのは「裁断」なのです。お判りになりますか?

要するに貴方の議論には、自己批判的な視点、自分を客観的に見ようという姿勢が欠けており、そのために何の説得力も無いという事です。貴方の担当教官氏も、「現代の価値観」などと言わず、端的に「説得力のない幼稚な論文だ」と言えばよかった。いや、もしかすると、内心はそう思っておられたのかもしれませんね。それをストレートに言わず、「現代の価値観」云々という言い方をされたのは、貴方に対する思いやりだったのかもしれませんよ。

平成15年1月17日、神戸の大手風俗店オーナーT氏が刺殺される事件が起きました。強盗殺人容疑で逮捕・起訴されたのは、Fという女性と、共犯の4人の男性。Fは帰国子女で、公立大学の学生であり、「人気フードル嬢として写真誌などに登場したことから、両親にバレて、フードル嬢はやめた」ものの「T氏の愛人兼秘書になった」(週間女性3/25号)。犯行の動機は「T氏から自由になり、(共犯者のKと)一緒になりたかった。何度も殺そうと考えた」(朝日新聞4/4朝刊)という。

私のサイトは小さなものですが、たまに現役風俗嬢から相談を受ける事もあります。ここでは生身の人間が相手です。傍から見て「どこがいいんだ」と思うような男に惚れてしまう女性もいれば、ストーカー紛いの客に悩まされる女性もいます。貴方が『江戸幻想批判』で言われるような、

 たとえば『芝浜』という人情噺がある。人情噺として評価が高いのだが、私はいつしかこの話が嫌いになっていた。腕はいいのに酒飲みの貧乏魚屋、それを女房がうまく騙して表店を持てるまでにする、というご存じの噺。なんだか私は想像してしまうのだ。この男にこの女房は勿体ないんではないか。近代的な教育制度の許に置いてやればこの女房はもっとましな夫を持てたのではないか。妻が夫を支える、というイデオロギーが、美談の影から匂ってきて、鼻につくのである。(P.80)

などという空理空論は何の役にも立たない、それが現実の世界です。「近代的な教育制度の許に置いてやれば」とは、何ともはや、お気楽なことで。さしずめ、先にあげたF嬢のケースは、現代の教育制度が生んだ悲劇であり、「近代」の教育制度なら彼女は救われたとでも言われますか?

…ふざけるのも大概にしろよ。ガキが。

■ 田中優子『江戸の恋』について

次に、田中優子『江戸の恋』について愚見を述べます。この本で田中氏は次のように書かれています。

 …すべての遊女は廓言葉を話せるようになり、その結果、出身地がわからなくなる。遊女の反対語が「地女」であるのは偶然ではない。遊女は「土地」からも「日常」からも浮上した天上の女なのである。西鶴が書き『色道大鏡』にも書かれた遊女の手くだ、生き方、人への接し方は、なるほど理想である。皆が皆実現していたとは言えない。しかしそれをめざそうとしたことは間違いがない。そう書くと、「遊女を理想化しすぎている」とか「遊女を聖なる者のように言うのは間違っている」と言われることがある。しかしそこに夢を見ようとしているのは、私ではなく、当時の人々なのだ。批判する暇(いとま)に、なぜ人が性に夢を託そうとするのか、それを考えたほうがずっといいように思う。(P.101)

…私はこの意見に100%賛成です。以上。

さて、以下は付け足しです。

貴方が『中庸、ときどきラディカル』で提出されている幾つかの論点、例えば「男色は江戸時代が終わるまで発展することはあっても衰えることはなかった」(『江戸の恋』P.123)に対する批判などについては、私も特に異論はありません。

私は男色の問題には疎いのですが、『守貞謾稿』には「しかして年々衰へ、遂に天保に至りて男色業も官禁ありて、今は亡びたり」(岩波文庫『近世風俗志(三)』P.405)とあり、滝川政次郎『遊女の歴史』でも「幕末、天保の頃には、芳町の子供茶屋わずかに二軒、陰間十人、湯島二十二人、芝神明十一人であったというから、殆ど廃絶に瀕していたといってよい。陰間が女装していたことは、すでに美少年が美少年として愛せられなくなった証拠である」(P.220)としています。田中氏がこれを覆す証拠を持っておられるのか、或は田中氏の勘違いなのか知りませんが、中世の戦争では盛んだったとされる男色が近代の戦争では「戦意を喪失せしめるもの」として排斥された点などは、戦争の在り方の変化を示すものかもしれず、興味深い所です。

しかし、貴方が田中氏や佐伯順子氏に「江戸幻想派」なるレッテルを貼って攻撃されている主たる論点は「江戸の性愛の明るい面のみを強調している」という点でありましょう。この点については、「何が悪いのか」と言わざるを得ません。この『江戸の恋』には、確かに「遊女の悲惨な境遇」の話は、あまり出てきません。見方によっては、「軽視している」と言えるかもしれません。…で、それがどうしたのでしょう。何か問題がありますか?

そもそも本書は「遊女の境遇の悲惨さ」をテーマにしたものではありません。田中氏はそういう問題を研究している学者ではありません。「悲惨さ」を取り上げなければ江戸の遊女を語れないと考えるのは貴方の勝手ですが、世の中には貴方とは違う問題意識を持っている人もいる、それだけの話です。

田中氏に専門外の研究を求めなくても、日本には「遊女の境遇の悲惨さ」を研究している学者が何人もいます。いわゆる「女性史」の立場から、人身売買の悲惨な実情を研究している人が何人もいるではありませんか。そういう人に「もっと一般の読者に売れるものを書け」とアドバイスする方が現実的だとは思いませんか。史料やデータを羅列するのでなく一人一人の遊女の生涯にスポットを当てて、彼女たちが如何に苦難の多い生涯を送ったか、いくぶん想像も交えつつ読み物風に書けば、貴方の言う「江戸幻想」モノに負けないくらい多くの読者を得られると思いますよ。

あるいは、そういう物を自分で書けばよろしい。「これこそが江戸の遊女の実像だ!」という物をね。田中氏や佐伯氏を叩いているだけの本より、ずっと売れますよ。

もしくは、田中氏が言うように当時の人が「そこに夢を見ようとした」理由を論じてみてはどうですか。「江戸遊里文学は、こういう悲惨な状況の下で描かれた夢物語に過ぎないのだ!」という風に。

いや、貴方には遊女に憧れる男性の気持ちは理解できないのでしたね。では、女性はどうでしょう。自ら遊女になろうと考えた江戸時代の女性。…そんな女性は存在しないと貴方は思い込んでいるようですね。しかし、間違いなく存在したと私は考えます。むろん、本当に好き好んで「遊女になりたい」というのではないでしょうが、「それでも今の暮らしよりはマシ」という、ギリギリの選択としてです。

先に引用した『江戸の恋』の「すべての遊女は廓言葉を話せるようになり、その結果、出身地がわからなくなる」という記述について、西山松之助『くるわ』では、次のように説かれています。

 源氏名も同じで、一つは遊女の過去と完全に断ち切るためであった。そして同時にそれは教養ある芸能人であり立派なサーヴスガールとしてのひびきを感じさせる秘密がこめられていた。遊女がその前身である生まれ故郷での貧乏生活をただよわせていたのでは、楽しみのための商品として買い遊ぶ遊客にとっては、いい商品とはなりえない。やはり高雅で有福な貴族のお姫様のような女性が、商品としても高級でありえたのである。  そのために、多くは貧乏人の子供たちであった遊女は、その生々しい過去をぷっつりとたち切ってしまう必要があったのである。海・山の猟師や百姓の貧家の娘が、遠い北国や南海のかなたから売られてきても、年月を経ずして、このような高級商品たる遊女になるためには、美しい衣装や、立派な源氏名や、定紋が必要であったのであるが、どうしても短日月の間には矯正することの出来ないことばの問題を、さとことばで解決したのである。(P.122)

これに対し、滝川政次郎『吉原の四季』では、次のように論じています。[なお、文中にいわゆる「差別」「偏見」とも受け取れる表現がありますが、これを言い換えてしまうと問題が覆い隠されてしまう恐れもあるため、学術研究の場では、できれば言い換えや伏字は避けたいと考えます。思うに、研究書や歴史資料の場合は読み手にも相応の素養が求められる訳ですから、読み手の側が心の中で「カギカッコ」を付して読む事で対応できないか?と提案します。]

 西山氏は、遊女の生家を克明に追求し、その結論として…(中略)…廓においては遊女の出自をあいまいにしておくことが掟となった原因は、貧乏人の娘とわかっては客が興ざめてしまうからであるといっている。  しかし、これは日本の社会の底辺の深奥部に何があったかということを突きとめていない、皮相な見解である。江戸時代の社会の底辺にあったものは、「水呑」と呼ばれた小作人であるが、その底辺の深奥部にあったものは、穢多、非人と呼ばれた賎民である。これらの賎民は、一般常民から通婚を嫌われているのみならず、同火をも嫌われている。穢多が煙草の火を呉れといった場合には、煙管をポンと敲いて火を地面に落し、それを拾って吸いつけさすのを作法とした。もし遊女の出自がわかって、それが同火すら許されない穢多非人の娘であることが知れれば、どんなことになったかは、絮説するまでもないことであろう。故に廓において遊女の身元を洗い立てすることは、タブー中のタブーである。従ってその事が文献の上に現われることは皆無であるといってよい。明治時代の芸娼妓や私娼に特殊部落の女が多かったことは、世間公知の事実であるが、大正七年の米騒動で部落問題がやかましくなってからは、学者評論家も口を緘してその事を言わなくなった。
 …(中略)…
 故に江戸時代に御家人株を買うことが、町人百姓が武士となり得る唯一の抜け穴であったように、穢多非人が遊女になることは、穢多非人が良民の中へもぐり込む唯一の抜け穴であったのである。幕府の役人は、勿論それを知っていた。知っていたればこそ、女衒が買い取った女を次々と鞍替(転売)して、女の親元をわからなくしてしまうことを禁じなかったのである。「見て見ぬふりをする」それができなければ役人は勤まらぬといわれた、江戸時代の政治の要諦などは、西山氏には到底わかってもらえまい。(P.35)

この滝川氏の論は近代の状況から発想されているように思えます。近世においてこうした事が「廓ことば」を生んだ主原因となるほど頻繁にあったかどうかは、いささか疑問の余地があります。なぜなら、「えた」の娘が遊女となる事は禁じられていたからです。しかし、その禁令が度々破られたのも事実のようで、斎藤洋一+大石慎三郎『新書江戸時代2・身分差別社会の真実』によれば、

 たとえば、市右衛門という江戸の武士方辻番人は、「えた長左衛門娘せんと申す一七歳にまかりなり候女、辻番所差し置き、遊女いたさせ候由」という理由で、元禄五年(一六九ニ)一一月ニ七日に、幕府によって「死罪」にされている。この手引きをした長兵衛も、翌一ニ月ニ五日に「死罪」にされているが、長兵衛は弁明のなかで、せん女から「何とぞ人間にいたし、奉公にも出しくれ候ようにと頼」まれたので、市右衛門にあずけたのだといっている。
 しかし、こうしたことはその後も後を絶たなかったようで、幕府は寛政八年(一七九六)七月に、「えたの身分をわきまえながら、素人(=平人)の交わりいたさせ候段不届きに候」という理由で、「えた」の娘を「売女」などにした者をきびしく処罰すると通達している。(P.87)

なお、近代の被差別部落については高橋貞樹『被差別部落一千年史』に次のように書かれています。

 部落の女は残酷な虐げから脱するため、普通民との婚姻を命にかけて希望している。どんなに貧乏でもいいから普通民の嫁になりたいのである。このあさましい、しかし人間らしい女の希望が、どんなに多くの悲劇を生んだか知れぬ。部落に生まれ部落の青年を忌避する。娼妓になっても国を出たい。親兄弟と水盃を交わし戸籍を抜いてまで「普通民」の名に憧憬れて行く。
 大阪その他の大都市では、部落の娘が、娼妓、芸妓、女給等として出て行っているのが甚だ多い。爛れた肉の漂うた醜悪な遊郭のなかを、その柳暗花街のおどろしい魔手のなかを、彼女らは呪わしきその出生の村よりもなお好ましいものとして、したい行くのである。朝鮮、満州等にまで出稼ぎしているものもある。そして彼女らは、しばしその苦悩を忘れ去るに過ぎない。いつかはまた、悲しい破滅の日に面するのである。(P.205)

あるいは貴方は、このような状況のもとで行なわれる選択は「自由意志」によるものとは言えないと主張されるかもしれない。しかし私は、いかに自由が制限されていても、そこに僅かでも選択の余地がある限り、自由は「ゼロではない」と主張します。

例えば貴方は大学の非常勤講師をされているようですが、その仕事は誰かに強制されたものでなく、ご自分の意志によって選択されたのでしょう。しかし、もし仮に目の前に「有名大学の教授」という選択肢があったら、そちらを選ぶのではないですか。どんな裕福な家庭に生まれても、「何でも好きな道を選べる」という事はなく、必ず制約はあります。それゆえ「100%の完全な自由」という状態は存在しないと私は考えます。同時に、「0%の自由」という状態も、存在しないと考えます。いわゆる奴隷の境遇や、ある種の精神病棟でベッドに縛り付けられている患者の状況が、「自由が限りなくゼロに近い」状態であるとは思いますが、それでもゼロではないと私は思います。

おそらく貴方の中には、「遊女にも自由はあったと主張すると、自由を制約する行為を正当化する事になる」という発想があるのではありませんか。それは全く違いますよ。一例を挙げますと、宇佐美ミサ子『宿場と飯盛女』では、「飯盛女をめぐる事件」という章の中で次のように述べています。

 飯盛女が自由になるのは逃亡か身請けである。ただし、自発的に「――からの自由」を得ることは、よほどの覚悟がないと危険をともなう。逃亡した本人はもちろん、人主・請人・親類にまで罪科が及ぶとなると容易に実行することはできない。(P.174)

 結局、飯盛女は商品としての価値があればいいわけで、飯盛女の雇傭形態は「性労働」とはいうものの、心身を呪縛された「性奴隷」「販売商品」であったといわざるをえないだろう。(P.179)

しかし、宇佐美氏は飯盛女たちの逃亡や心中事件を丁寧に追い、自由と誇りを失うまいと懸命に生きた姿を克明に描いた上で、その自由が著しく制約された状態をもって「奴隷」と表現しているのであって、だからこそ私の如き買春者の心にさえ訴えかけるのです。貴方のようにロクに調べもせず頭から「人身売買=自由など無い」と決め付けるのとは全く違います。宇佐美氏のような真面目な学者の尻馬に乗って、その結論だけ借りてきて「そらみろ、女郎の境遇は悲惨なのだ」と吹聴する事はどんな馬鹿にもできますが、そんなものに何の説得力もありません。

ちなみに、牧英正『人身売買』は、次のように締め括られています。

 昭和三十二年五月一日から売春防止法は施行され、日本の公娼制度はここに終止符をうつことになった。
 何をもって禁止すべき人身売買とみるかは、過去それぞれの時期に応じて違ってきた。関西のある旧遊郭でむかしの証文や契約書類をみせてもらっていたとき、女将が「自分達は一家心中でもする以外に道のない人にお金を渡し、娘に人なみの生活をさせてやったのだから、人助けをしたと思っている」と語ったのが印象にのこっている。(P.224)

貴方にはこの女将の言葉が「偽善」「嘘」「単なる言い訳」と映るのでしょうか。それもいいでしょう。この女将の気持ちなど、おそらく貴方には一生理解できないでしょうから。貴方は『恋愛の超克』の中で、こう書いていますね。

 徳川時代から昭和期にかけての娼婦たちの多くは、親の貧しさを救うため、みなこのように、辛い勤めと知りながら売られていったのだ。ところが松沢[呉一]によれば、泣き叫び、抵抗し、監禁され、売春を強要されない限り、本人の意思だ、ということになってしまう。確かに松井[やより]は、自由意志での売春は「宿題にしましょう」と言っているが、この様子では松沢は、本人の同意があれば人身売買も許される、と言いだすのではないかと思える。(P.185)

松沢氏がどう答えるか知りませんが、私の答えは、もちろん「YES」です。私は「人身売買」イコール「悪」とは思いません。

飢饉にあって生活に窮している農業民の一家がいるとします。幼い子供もいるが、このままでは食べさせて行けない。そこに、一人の商人が通りかかり、利口そうな子だったので、「この子を養子にもらえないか。我が子として大切に育て、後継者にしたい」と申し出たとします。幼い子はまだ何も判らないが、その子の両親は、「このままでは餓死させてしまうかもしれない」と考え、「おじさんと一緒に行きなさい」と言い聞かせる。商人は子供を連れて帰り、商売を仕込んで一人前の商人に育てる。…これは、「悪」でしょうか。

では次に、その商人が、その子の両親にお金を払ったら、どうでしょうか。「少ないが、生活の足しにして下さい」「こんなお金は受け取れません」「いや、私も後継者ができて得をするのだから、それに見合うお金は支払わせてほしい」。…これは、「悪」でしょうか。

それでは、通りかかったのが平安時代の遊女だったら、どうでしょう。顔立ちも声も美しいと見て、「この子を養子にもらえないか。我が子として大切に育て、後継者にしたい」と言い、歌や舞を仕込んで一人前の遊女に育てる。もちろん売色もします。これは、「悪」なのでしょうか。

あるいは、その遊女がその子の両親にお金を払ったら、「悪」になるのでしょうか。

『梁塵秘抄口伝集巻第十』に登場する乙前が、傀儡女の目井の養女となったとき、金品の授受があったかどうか定かではありません。しかし乙前を歌の名手に育て上げるために、目井は、厳しく指導すると共に、我が子のように愛情を持って見守ったのではないでしょうか。乙前が語った言葉として、「目井やがて一つ家にいとをしくして置たりしに」(岩波文庫版P.99)とあるからです。では、もし目井が乙前の両親にお金を払っていたら、どうでしょう。その行為は「悪」になるのでしょうか。只で引き取るよりも…?

もちろん現実の人身売買には悲惨な事例が多い事は、私も承知しています。しかし、悪いのは困っている人の足元を見て安く買い叩き不当に利益を得る事であり、仕事の大変さを事前に告知していない事であり、買ってきた子供を酷使する事であり、前借金に法外な利息を上乗せして長期的に拘束するといった事なのであって、「人身売買」そのものが直ちに「悪」なのではないと私は考えます。

それでもなお、「人身売買」と「売春」が結びつくとき、貴方の中には「やはり許せない」あるいは「何か納得できない」「割り切れない」といった思いが湧き上がるのではないでしょうか。私はそのような感情を否定するものではありません。それはそれで自然な感情だと思います。しかし、その思いを正当化しようとすれば、例の「性というものは人格と切り離せないから、売買の対象にしてはいけない」といった、判ったような判らないような妙ちくりんな理屈を持ち出す他はないと思います。そのあたりを今一度よく考えてみるとよろしい。

ところで、これは余談ですが、もし仮にですよ。田中氏や佐伯氏が嘘八百を並べ立てて、ありもしない綺麗事を書いていると仮定しましょう。それで何が問題なのでしょう。何か実害でもありますか。それを読んだ女の子が遊女に憧れて、短絡的に吉原のソープに就職するとでも思っているのですか。

元風俗嬢で作家の菜摘ひかる氏(故人)が「現役」時代に書いたホームページ上の日記をまとめた『恋は肉色』という本に、こんな話が出てきます。

 ところでうちには、風俗のヘビーユーザーだけでなく、風俗にはすごく興味があるけど実は一度も行ったことがない、行くこともたぶんないでしょうねっていう方からも、メールが来る。あと、風俗嬢ではないんだけど、風俗の仕事に興味津々でーすって女子からも。
 わたし、「興味があるけど行ったこと(やったこと)がない」っていうの、ちょっとわかんないんだよね。風俗に興味があるなら試しにどんなもんか行ってみればいいし、風俗の仕事に興味があるならやってみればいいし、よくなかったらその後やんなきゃいいんだし、なんでとりあえずやってみないんだろうか、って。
 …(中略)…
 風俗に少しでも興味があるなら、こんなとこでクソ生意気な風俗嬢のホームページなんか眺めてる場合ちゃうで。最初は酔った勢いでもなんでもいいから、まず友達連れて風俗誌片手に繁華街に繰り出してみろや。あるいは『てぃんくる』あたりを買って、店に電話の一本かけてみろや。「興味アリマース」は、それから聞く。(P.183)

貴方にはピンと来ないかもしれませんが、風俗で働く気もないのに「風俗に関心あるんです!」と能天気な調子で風俗サイトを訪れる女性が時々いて、あまり能天気だと私なども「だったらやってみれば?」と言いたくなるのですが、なかなか自分ではやらないようです。思うに、貴方の言う「江戸幻想」モノを読んで単純に「私も江戸時代に生まれたらよかったなー!」と言うのは、そういった類の女性ではないでしょうか。

もしタイムマシーンがあったら、彼女たちは「江戸時代を見てみたーい!」と言うかもしれませんが、「行ったら二度と帰って来れない」という事なら、絶対に行きませんよ。それは多分、決して楽しいばかりじゃない事を、薄々は知っているからです。そんな女性たちが、言ってみれば「レディース・コミックやハーレクイン・ロマンスの高尚なの」ぐらいの感覚で田中優子氏や佐伯順子氏の本を読んだとして、何が問題だと言うのでしょうか。夢のある楽しい本を読んで、明日も元気に学校や会社に行けるなら、結構な事じゃないですか。

現役風俗嬢の中にも、江戸の遊女に関心を持つ人は時々いて、たぶん田中優子氏の本なども読まれているかもしれません。しかし、彼女たちが田中氏の本を読んでも、短絡的に「昔の吉原の太夫は客を自由に選べたんだ!いいなぁー!」などとは決して思いません。

客を「振る」というのも手練手管の一種で、わざと客をヤキモキさせ、ヤキモチを焼かせて熱くさせるテクニックです。もし文字通りに自分の好みの客しか相手にしなかったら、どうなるでしょう。「あの太夫は性格が悪い!手抜き姫だ!」などと噂を立てられ、たちまち人気を失うでしょう。それでも、その好みの客がカネを持っている間はいいが、そいつが身代を食いつぶしたら、終わりです。現役風俗嬢が江戸モノの本を読めば、その程度の裏事情は透けて見えますよ。

それでも現役風俗嬢が江戸の太夫に憧れるとすれば、それは太夫の「強さ」に憧れるのです。

江戸遊里文学に「傾城の鑑(かがみ)」として描かれる太夫の姿は男の側の理想に過ぎないでしょうが、現実の太夫たちがその理想像を演じ抜くには、大変なエネルギーを必要とした筈です。高いプライドと夢を抱き、常に自分を鼓舞して気持ちを強く持っていなければ、トップは張れなかった。生き抜いては行けなかった。それを男の側から描いたのが、「意気」「張り」という言葉ではないでしょうか。

現代の風俗でも、夢を持って前向きに頑張っている風俗嬢が多くの客から支持されています。

■ 藤目ゆき『性の歴史学』、あるいは廃娼運動について

続いて、「そのような境涯から娼婦たちを救おうとし、女郎屋の用心棒とも戦った山室がなぜ偽善者か」というご質問にお答えすると共に、関連する論点にも少し触れたいと思います。

まず『江戸幻想批判』の次の記述について。

 藤目ゆきの『性の歴史学』(不二出版)は、近代日本における廃娼運動や産児制限の問題を扱った労作だが、これも間接的に「江戸幻想」に加担している恐れがある。藤目はここで、これまで女性解放運動の一環として評価されてきた明治期以降の廃娼運動が、実は中産階級の者たちによって担われ、彼らが娼婦を「醜業婦」という言葉で呼んだりして、現実には娼婦に対する蔑視を助長していた、と論じている。これは一九九七年に上梓され、高い評価を得た。恐らくフェミニズムが、売買春そのものに反対するという姿勢から、売春者の権利を擁護しようという方向へ向かったのは、この本の影響が大きいのだろう。(P.30)

 明治中期の廃娼運動は、男女同権を掲げながら娼婦や藝者を蔑視の対象としており、フェミニストたちが引っかかったのは第一にこの点だったのである。しかしながら、では近世において娼婦は蔑視されていなかったかというと、そんなことはないのである。『忠臣蔵』で女郎となったお軽は、「親夫の恥なれば」と述懐しているではないか(『新潮日本古典集成 浄瑠璃集』)。網野善彦のような歴史家も、娼婦などの職業への蔑視は中世中期から始まったと論じている。服藤早苗はさらに十一世紀まで遡っている。(P.38)

しかし「売春」という行為そのものが蔑視の対象となったのは、やはり廃娼運動に一因があると思います。

まず、網野善彦氏が論じているのは「遍歴民に対する蔑視」の問題です。氏の『日本論の視座』によれば、中世前期まで遍歴の芸能民は天皇に保護されており、南北朝の動乱あたりを境に天皇及び神仏の権威が低下し、そのため芸能民は賎視されるようになったと論じています。また、『中世の非人と遊女』では仏教の五障三従説に基づき女性を穢れた存在とする見方が現れたと論じていますが、これも「対価を得て性を売ること」に対する蔑視ではありません。

また、服藤早苗氏の説というのは、『平安朝の女と男』の中で『新猿楽記』を取り上げて論じている個所の事を言っておられるのでしょうか。そこで服藤氏が述べているのは、「遊女が職業として確立された」という事と、「女性(特に年配の女性)の性欲が揶揄の対象となった」という事です。また、明衡が「十六の女(遊女)」を茶化した言葉、

於戯、年若之間、自雖過売身、色衰之後、以何送余命哉。(ああ、年の若い間は自ら身を売って世を過ごしているが、年をとり容色が衰えてからは、いかにして余命を送るのか)

というのは一見すると遊女の職業そのものを馬鹿にしているようにも見えますが、若い遊女については賞賛の言葉しか書かれていませんから、娼婦一般を蔑視しているとまでは言えません。服藤氏はちゃんとした学者ですから、そんな勇み足はしていません。

ところで余談だが、なぜ『新猿楽記』にはこんな妙な事が書かれているのだろう。これより先に書かれたはずの大江以言(955-1010)『見遊女序』には、次のような描写があるではないか。

少者脂粉歌咲、以蕩人心、老者担笠擁棹、以為己任。(若い者は化粧を施して歌い、男たちの心をとろけさせ、年老いた者は若い遊女に笠をさしかけ舟の棹を取って、自らの勤めとしている)

この「老者」は、後の『梁塵秘抄』に出てくる「艫取女(ともとりめ)」であり、「遣り手」の前身である。古来、遊女が一線を退くと後輩のフォローを引き受けるのが伝統だったと思われる。『新猿楽記』の作者は藤原明衡(989-1066)と考えられているが、彼はこれを知らなかったのだろうか。いや、そんなはずはない。なぜなら、『見遊女序』が収録されている『本朝文粋』の編者が、他ならぬ藤原明衡なのだから。すると、どう考えればいいのか。

?@ 『見遊女序』から『新猿楽記』までの数十年の間に情勢が変わり、「艫取女」の風儀は廃れてしまったのだろうか。『梁塵秘抄』に艫取女が歌われているのは古典的レパートリーであり、過去の風儀だったのではないか。ちなみに『新猿楽記』と『梁塵秘抄』の間に書かれた大江匡房『遊女記』では艫取女に触れていない。

?A 土地柄の違いだろうか。江口神崎の遊女は言わば高級娼婦である。『新猿楽記』の舞台である京都では、遣り手や禿を引き連れていない下級の遊女が多かったのではないか。これについては『梁塵秘抄』の次の歌がヒントになる。

・京より下りしとけのほる、島江に屋建てゝ住みしかど、そも知らず、打捨てて、いかに祭れば百太夫、験なくて、花のみやこへ帰すらん。(375)

「とけのほる」は語義不明(一説には「でくのぼう」かと言う)だが、遊女には違いなかろう。百太夫は、むろん男も祭っただろうが、文学的表現としては「百太夫と言えば遊女」が定番フレーズであろう。その百太夫が「験なくて」とは、上客がつかずお茶を引いていたのだろう。この「とけのほる」は芸に秀でていなかったに違いない。それを「百太夫への信仰が足りなかったからだ」と茶化したのが、この歌ではないか。

あるいは、この?@と?Aは関連しているかもしれない。飢饉などで生活に困った定住民の女性が、にわか遊女となって、遣り手や禿を連れずに一人で細々と営業するようなケースが増えたとは考えられないか。鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』によると、十世紀ごろから日本の人口は停滞局面に入り、近世に至って再び増加に転じるという。人口が停滞した理由として鬼頭氏は、?@農地開拓の限界、?A気温上昇による旱害、?B疫病、?C土地私有の普及、をあげている。

同様の事情は、他のジャンルの芸能民にも生じただろう。これといった芸能の技術を持たない貧相な「にわか芸能民」が増加し、それが賎視を強める一因になったのではなかろうか。更に、結核やハンセン病、そして1512年に日本に上陸した梅毒など、感染症の流行が拍車をかけたかもしれぬ。他にもまだ様々な要因が絡み合っているのだろう。太平の世が訪れ、景気が良くなっても、芸能民の社会的地位は回復しなかった。むしろ身分差別は固定化されてゆく…。

さて、近世になると「色を売る」という行為への蔑視は現れるでしょうか。

私は『忠臣蔵』を読んでおらず芝居も見ていないのですが、武士や富裕な町人層の男性に、おのれの妻女がどこの馬の骨とも判らぬ男に抱かれるのを「恥」とする風潮があったというのは、何となく理解できます。でもそれは「売春」に対する蔑視とは少し違うと思います。彼らが「自分の妻女を奪われる事は男の恥だ」と考えていたからと言って、娼婦一般を蔑視していたとは言えません。自分と関係の無い、例えば百姓の娘が女郎になる事を、彼らはどう考えたか。「卑しい商売だ」と思ったか。「娘を女郎屋に売るような父親は、男として恥ずかしくないのか」と考えたか。いや、ただ単に、何とも思わなかったのではないでしょうか。他人事だからです。

ただし、そのような武家の価値観が次第に庶民大衆にも広がって行き、それがやがて娼婦稼業への蔑視が成立するための下地となったという事は、十分に考えられると思います。宇佐美ミサ子『宿場と飯盛女』によると、

 文政七年閏八月二十四日、熊谷宿で飯盛女の「新規取立」を宿役人が藩に願い出たとき、忍藩領内の石原村他一一カ村の名主たちは「飯盛女新規取立中止」について、飯盛女設置による弊害を微細に認め、その弊害とは次のような事実だと述べているのである。
 ・人気遊惰に陥る。
 ・遊芸、呑喰、驕りが増長する。
 ・稼業・商売が怠惰になる。
 ・無駄な消費が多くなり、物価が上昇する。
 ・物価上昇の結果、商売が減少する。
 ・商売減少の結果、商人は困窮し、宿は疲弊する。
 ・色道をもっぱらとし若者は遊芸にふけり怠惰となる。
 ・他人の金品を騙し、奪う者が続出する。
 ・上下のみさかいなく、年長者は若者の不埒を制する権利を喪失する。
 ・諸銭をうしない、欲ばかり増長する。
 ・仁・義・礼・智・信すべて守れなくなる。
 ・家内すべて盗心を造成する。
 ・自然驕り、わがままが増長する。
 ・出奔、退転、潰れ百姓が創出される。
 ・無宿者が横行する。
 ・悪業盗賊が横行する。
 ・博奕・喧嘩が絶えない。
 ・稼業はしだいに衰微する。
 ・商店では出入帳・小遣帳を不正に記録するようになる。
 ・親・子・女・老年にいたる者まで盗心を養成するようになる。
以上、彼らの主張する弊害を箇条書きに整理してみたが、これらの言説は、全項目近世封建社会秩序に反する事象で、「売女一条企候ハ悪罪盗賊より猶重かるべき哉」と述べ、人倫道徳にはずれる行為として厳戒している。(P.89)

ここに見られる「飯盛女設置による弊害」には、「売色」そのものが悪い事だという主張は現れていません。あくまでも「買色」する側の男たちが遊蕩にふけり商売を疎かにし、ならず者が横行すると言っているだけです。しかも、内容がダブっているものもあれば、コジツケ臭いものもある。でも、このように思いつく限りの理由を並べ立てる背景には、何かしら「うまく言えんが、わしらは色を売る女に来てもらっては迷惑なんぢゃ!」という漠然とした嫌悪感のようなものが生じているようにも思えます。

それでも、ここではまだ、はっきりと「売春そのものが悪い事だ」という観念は成立していません。「買色にふける徒」を戒める言葉は近世初期からある。また、遊廓の主人は関東では「穢多頭弾左衛門配下」とされ卑賤視されたが、遊女は被差別身分であってはならないとされていた。売色稼業そのものが悪い事とされたのは、近代に至って「賎業婦」「醜業婦」という言葉が生まれ、「貞操を売る」行為が「罪深き商売」とされてからではないでしょうか。

基督教系の廃娼運動家が「貞操を売る行為自体が罪深い事だ」と主張して初めて、売色に対する漠然とした嫌悪感に、形が与えられたのだと私は考えます。

もちろん廃娼運動のみに原因を求める事はできません。近代公娼制度を作り出した政府の側にこそ、「醜業婦の存在は近代国家として恥になるから閉じ込めておけ」という発想があった。その上で、廃娼運動家は「閉じ込めるだけでは不十分だ、廃止せよ」という立場を取ったものであって、娼婦に対する蔑視という点では同じ穴のムジナだというのが、藤目ゆき『性の歴史学』の主張であり、また私の主張でもあります。

公娼制度について、貴方は『江戸幻想批判』で次のように述べています。

 ところが、藤目[ゆき]や深見[史]に共通している点が一つあって、それは日本の公娼制度があたかも明治期以降に始まったかのように論じている点である。この二人と立場を異にする秦郁彦の『慰安婦と戦場の性』(新潮選書)もそのような記述をしている。確かに、明治期以降の公娼制度が近世のそれよりも巧妙に統制されていたのは事実だろう。だが、公娼制度は豊臣秀吉が大坂三郷遊里、続いて京の六条三筋町に遊里を公認したときに始まり、近世を通じて定着したものである。藤目の著書を読みつつ一抹の危惧を感じるのは、近代の廃娼運動の暗黒面を指摘するのに急なあまり、娼婦を解放しようという動きさえなかった近世が「よりまし」であったかのように思わせる働きがあるのではないか、と思うからである。(P.31)

私は深見史という人を知らないのですが、藤目ゆき『性の歴史学』について言えば、「日本の公娼制度があたかも明治期以降に始まったかのように」論じてはいません。藤目氏は明確に「日本には前近代から公娼制度はあった」(P.88)と述べています。普通に日本語が読める人であれば、貴方のような誤読をする余地はありません。その上で藤目氏は「欧州の売春統制を学び、これをモデルとして公娼制度を近代的に再編成した」(P.89)とし、その特質として「強制性病検診制度」と「娼妓の自由意志による『賎業』を国家が救貧のために許容するという欺瞞的偽善的なコンセプト」を挙げています。

ただし、私自身は、厳密に考えれば近世の公許遊廓制度を「公娼制度」と呼ぶのは適切ではないと考えています。近代公娼制度の特質には、もう一つ「娼妓の鑑札制度」があります。フランスやイギリスの公娼制度を真似たものでしょうが、これを導入した理由は「個々の娼妓そのものを管理・統制の対象とする必要がある」との認識が生まれていたからでしょう。

近世において、遊廓営業者は卑賤視されたものの、遊女は被差別身分であってはならないとされていたのが、近代に至ると娼妓も「醜業婦」と呼ばれるようになる。近世において統制の対象は遊廓営業者であり、幕府が直接に遊女を統制するものではなかったが、近代に至ると一人一人の娼婦も統制の対象となる。この二つは、決して無関係ではないと思います。鑑札制度は木または紙の札一枚のことで、さして管理の実効性があったとも思えませんが、しかし娼妓稼業そのものが「醜業」視されるようになった事を象徴する出来事ではないでしょうか。

娼妓稼業そのものが公認を要するとされた近代公娼制度こそが、「公娼」制度と呼ばれるに相応しいと私は考えます。

藤目氏が近世の公許遊廓制度を「よりまし」と考えているかどうか私は知りませんが、論調からすれば、近代に至って「より悪質になった」と考えているのかもしれません。藤目氏の立場は「帝国主義」を糾弾するものであり、近代の存娼論も廃娼論もともに「帝国主義に加担するもの」として批判されています。私は「帝国主義」という概念そのものについて大した知識を持っていませんので、その点についての論評は控えたいと存じます。

ところで貴方自身は、近代のほうが「よりまし」と思っておられるのでしょうか。おそらく、「娼婦の境遇そのものは同じぐらい悲惨だが、廃娼運動があった分だけ、近代のほうがましである」というのが貴方の主張でありましょう。

娼婦の境遇について「どちらがマシか」と単純に比較できるものではありませんが、私の印象では、中世→近世→近代と時代を下るにつれ、客単価が下がって行ったのではないか、その分だけ娼婦の稼業は苦労の多いものになったのではないか、という気がしています。娼婦の労働環境がより劣悪になったからこそ、廃娼運動のような動きが出てきたという見方もできるのではないでしょうか。

その上で私は、廃娼運動の如き「上からの救済」というものは、「救済」される側にとっては必ずしもプラスにならない、せいぜいトントンか、あるいは廃娼運動があった事によって「より悪くなった」と考えています。

貴方にとっての「善」が、私にとっては「悪」です。これは、どちらが正しいという事ではありません。目的が違うからです。娼婦の存在が「社会の害悪」であり「罪深き商売」であるという観点からは、「廃娼」=「善」である事を疑う余地はありません。間違いなく廃娼運動は娼妓の廃業に尽力し、「社会の害悪」を除去する事に貢献しました。しかし私にとっては、目的は「廃娼」ではありません。

私は、しがない買春者にすぎません。風俗嬢を「救済」する立場にもなければ、その能力も持ちません。ただ、私に幸せな時間を提供してくれた風俗嬢に対しては、「彼女も幸せになってほしいなぁ」という感情を持ちます。そしてまた、会った事もない近世の遊女売女や近代の娼妓芸妓に対しても、同様の感慨を抱かずにはおれません。それが私の立場です。私の如き遊蕩の徒にとって、「社会の秩序」とか「国家の対面」といったものは、他人事なのです。

まず明治の初頭、娼妓解放令が出た直後の状況を見てみましょう。牧英正『人身売買』によると、

 芸娼妓の解放は各地でおこなわれた。芸娼妓の借金は帳消しにされた。旧抱主で旧奉公人から貸金をとりたてて処罰されている者もあった。明治六年三月の『郵便報知新聞』は、内藤新宿三丁目の貸座敷渡世八杉弥助なる者が先頃解放した抱女の身代金ならびに貸金十両を同人の親から強いて取立てた料により、司法省にて御糺の上、違令律を適用して懲役四十日とし、右の金子は親に返却せしめた、と報じている。
 一方で「吁(ああ)籠鳥の女子、此聖代に在ずして、得難しとも又得難かるべき、其身は元来其親兄弟の歓喜怎生(いかんか)ばかりなりけんかし。所謂手の舞足の踏む所を知らぬも理りなり」という喜びの他面には「新吉原町遊女屋龍ヶ崎抱女某、此度ノ御改革ニテ身元へ引取シガ、老母一人ニテ固ヨリ貧窶ノ暮シナレバ、往々ノ糊口モ覚束ナキニ当惑シ、不図無常ノ風ニ誘ハレ母子共重ナリ合ヒ東橋ヨリ身ヲ投テ死セリト」(『新聞雑誌』)という悲劇もあった。「素ヨリ親元窮迫ノ余リ、金談ノ上子女ヲ身売同様ノ所業サセ候儀ニ付、今般当人ヘ引渡候テモ、家内人数相増シ其日暮シノ者厄介相殖ヘ、差向難渋…」(『東京日日』)の者が多かったのである。明治七年六月に和歌山県は司法省に、娼妓の親で解放を求めない者を処罰すべきかと問うているが、これに対し地方官の教諭が足らないからだ、とのみ指令している。(P.197)

では次に、明治33年の状況を、朝日新聞社編『朝日新聞の記事にみる 奇談 珍談 巷談 [明治]』で見てみましょう。

◆廃業娼妓の将来(明33.9.22)

 自由廃業問題も喧しくなりてより娼妓中救世軍其他のために既に廃業の素志を貫きたる者数名に及びたるが同軍は未だ廃業を以て満足せず彼等が再び苦界へ陥らざらん様将来の策をまで立てゝやる考へなるも彼等の多くは只目前の苦境を脱するに甘じ正業に就くの志は聊かもなく現に廃業を遂げたる者の母親に対し将来身の振方に就ての考へを聞きしに最早女郎にはしませんが芸妓にしては如何でせうと答へしより問者は呆然されば死地に入りて彼等を救助するものゝ是を思へば慨嘆に堪へずと同軍の某は語れり

◆"自由廃業したのはよいがナントシヨ"(明33.11.29)

 老妓小せんの筆ずさみ 檜垣の媼卒塔婆小町扨は又梅干も皺が出来ては色も香もなく昔しの花をしのぶのみなる美人の末路難いかな夫(それ)は年寄ゆゑ左(さ)もあらんが今の自由廃業娼妓は年寄の癖に終りを完うせず大概の者は地獄となり甚だしき者は窃盗を働くと聞いて吉原仲の町の老妓小せん大いに慨嘆し斯うもあらうかとて一句あり
   泥 水 を は な れ て 痩 せ る か は づ か な
   手 に 取 つ て 見 れ ば ぶ ざ ま な 南 瓜 哉
 洵に遣らずの雨を呼んで後朝の別れを惜しむ蛙のやうなおいらんも楼主の前に手を突いて束縛さるゝを悲しがりヒヨコヒヨコ廓を飛出して却て娼妓に劣る程の境界に陥るを見れば此句あるも無理とは言へずこれを引取る色男も手に取れば南瓜かなど打驚き振捨る者も多かるべければ南瓜は愈々ぶらぶらと彷徨き不都合を働くには至るなり是に付いて同人は一層世の体を浅猿しがり昨今廓内にて流行するストライキ節に倣つて左の如き小唄を新作したり
 自由廃業したのはよいがナントシヨ 惚たお方に宅がない、しのゝめのストライキ
 思ひおもふて廃業したがナントシヨ ぬしと二人で屑拾ひ、しのゝめのストライキ

◆廃業の娼妓 屑拾となる(明33.11.9)

 先頃来日々何人となく各遊廓より自由廃業娼妓を出す事なるが是等の娼妓が皆正業に復するならば至極結構の事なれど中には誰さんも廃業したから私もやると自由廃業をお茶の子の様に心得廃業の暁に至り身の振方に困るもの最と多し是も其類なるべし昨今下谷万年町辺の紙屑拾ひを便り来るものあり現に吉原京盛楼の小式部、同錦糸、西岡楼の小勝、横浜遊廓の小三、八王子遊廓の松次外十余名は万年町に流れ込み紙屑拾ひとなるもあれば遊人の女房同様になるもあり其状甚だ悲惨なりといふ

更に、明治39年刊の大久保葩雲『花街風俗志』によれば、

 娼妓に廃業の自由を与へて、救済の活路を開く素より可なり、又此自由を利用して一面に不法を働く楼主を挫ぐも亦可なりであるが、娼妓の申請を黙認して、言ふが儘に廃業せしめ、事実の調査をも尽すことなしに、之を手放すは恰かも虎を野に放つが如くではあるかいか。果たして其虎の監督を厳にし得らるるであらうか。今の現行法が娼妓に外出の自由を与へて居ぬは、畢竟何が為めであるか、風俗警察の必要から此制裁があるのではないか。娼妓と、娼妓を自廃した婦女とは同一である。其間に敢て径庭は無い。其品行動作は益益自由を得るだけに堕落に陥るのみならず、之が為めに風俗と衛生とに及ぼす危害は幾何であらうか。現に浅草公園を中心として、其左右の地域内に密売淫を恣まにするの婦女は約三千と唱えられ、其二割以上は自廃の娼妓上りなることは、吾人の耳目に触れて居るではないか。実際彼等は一度泥水の味を覚えた身の上、淡白な清水に其腹を洗浄ことは不可能である。殊に淫猥な所業に日夜を騒ぎ暮らした果、正業に就くの志想も無く、又た其端緒を得るの途も無い。忽ち糊口に窮する処からと、多少の経験ある処からとで、淫売の娼法を開始するが多い。例の自廃の率先者綾衣の中村八重が、正業に就きしや否や、また三十七年中、吉原遊廓より出でし三百以上の自廃娼妓の近状はどうであるか、其筋の調査を竣つ迄もなく、其消息は公園通や、他の軟派側に於て認められて居るのである。(P.257)

娼妓を廃業しても他に仕事はなく、街娼となって売春していた女性も少なくないようです。ここで確認したいのは、「廃業さえすれば自動的に幸せになれる訳ではない」という事です。もちろん、それに対して廃娼運動家が何もしなかったとは言いません。救護所を設け、職業紹介のような活動を行なった事は私も聞いています。その援助の手が全ての娼妓にまで行き届かなかったからといって、廃娼運動を責める事はできません。

また、しっかりした考えを持って廃業を切望していながら、楼主や警察の理解が得られないために廃業できずにいた女性もおり、そうした女性たちに助力して訴訟を起こすなど支援した活動については、私も大いに敬意を払うものです。「廃業したい」と望む女性を支援するだけであれば、廃娼運動を否定するつもりはありません。

私が廃娼運動に反対するのは、まず第一に、彼女たちに「娼婦を続ける」という選択肢を与えなかったという点です。もし彼女たちの生活の改善を第一に考えるなら、「より搾取される事の少ない良心的な店で娼婦として働き、お金を貯めてから廃業する」という選択肢もあっていい筈です。「廃業後は自分の経験を生かして遊廓や売春宿の女将になる」という選択肢もあっていい筈です。行く宛も無く廃業して、なし崩し的に街娼となるよりも、その方が良かったかもしれない。

明治33年1月から約半年間、毎日新聞に連載された『社会外之社会』(谷川健一編『近代民衆の記録3 娼婦』所収)から、英備生記「布哇(ハワイ)に於ける我姉妹の惨状」という文章を見てみましょう。

 楼主が抱え娼妓に対する待遇は惨刻(ざんこく)にして、例へば一人一夜の収入三弗以下なるときは、翌日の食量を半減するなどは往々耳にする処なり、甚しきは鞭撻を加ふる事さへあり、之に反して独立娼妓の多くは、夫と相談づくにて醜業を為すものなれば、主人持ちの娼妓と異なり、前の如き苦痛を受くる事絶てなし、今抱え娼妓と自由娼妓との比較を為さば、抱え娼妓が身躰を束縛され、時々無惨なる折檻を受くるに比し、自由娼妓にありては是等の苦痛毫もなく、彼れは毎夜の収入をば全て楼主に捲上げられ、僅かの貯金を為すさへ思ふに任せざるに比し、此れは其収入の全部己れの自由なれば、貯金も容易なり、一は契約年期間は是非とも勤めざるべからざるも、他は貯金の出来次第何時にても廃業し得る自由あり、彼れは契約年限を了りて自由の身となるも元より貯金のあるべき筈なければ、一時生計の為め若くは日本に帰る旅費を貯ふる迄再び自由娼妓となるの已むを得ざるも、此れは其の必要なし、詮するに独立娼妓は比較的幸運なるも、抱え娼妓に至りては実に憐れむべき不幸の深淵に浮沈しつゝあるなり、何ぞ一日も早く救済の策を講ぜずして止むべけんや。

これは廃娼運動をアシストするために書かれた記事ですが、それでも「自由娼妓はまだマシだ」という認識を示しています。私の願いは社会から売買春を追放する事ではなく娼婦が幸せになる事ですから、「まず廃業ありき」という運動を肯定する事はできません。もちろん、「遊廓を出たい」と願う女性たちに自由廃業の途を保障する事は間違ってはいない。しかし、「自由廃業とともに自由営業を!」と主張します。

もし私が明治時代にタイムスリップしたら、そしてもし私に資金があったら、私娼窟を作るつもりです。カフヱーの全国チェーンを作るかもしれない。そして、自由廃業した元娼妓に声をかけます。「うちで稼いでみないか。売上の7割は店が取る。官憲への賄賂や地回りへのミカジメを払わねばならないからだ。その代わり3割は嘘偽りなく貴女のものだ。好きに使っていい。だが老後の事を考えるなら貯金をしろ。この仕事は何時までも続けられるものではないからな。検黴は強制しない。自分の健康のために良いと思うなら受けろ。必要なら俺が良い医者を探してやる。本気で稼ぎたいなら俺に着いて来い!」とね。

私が廃娼運動に反対するもう一つの理由は、「罪深い商売だから」という理由で廃業を勧める点です。「お前がやってきた事は醜業なのだ」と言われて、その女性が胸を張って新たな人生を歩めるだろうか。「お前は汚れている」と言われて、新たな仕事に、新たな環境に飛び込んで行く勇気が持てるだろうか。もし彼女たちの生活の改善を第一に考えるなら、今まで労苦の多い仕事を勤めてきた忍耐力を誉めてあげるべきではないか。「客の中には貴女に感謝している男性も沢山いるんだよ」と言ってあげるべきではないか。

「醜業婦」と呼ばれ「罪深い商売だ」と言われて廃業して、それでも自信と希望を持って生きて行ける女性がいるとすれば、それは基督教に改宗した女性だけではないだろうか。「罪」を告白し「悔い改める」という事に特殊な意味付けを与える基督教イデオロギーによってのみ、「罪深き商売」から足を洗うという行為そのものを、美化する事ができる。だが、基督教に改宗する気の無い女性にとって、廃娼運動家の言葉は自分の今までの人生を否定するものでしかない。

伊藤野枝が矯風会を批判した文章「傲慢狭量にして不徹底なる日本婦人の公共事業について」(堀場清子編『「青鞜」女性解放論集』所収)に見られる次の言葉に、私は全く同感です。

 基督教徒たる夫人の大半は教養ある人々である。そしてもっとも「高尚な精神」というような事を口にする婦人たちである。しかるに私の目から尤もキザにして軽薄な偽善的階級に属する婦人はこれらの人の中に最も多く発見する。彼女らは謙遜らしく振舞ってはいるが実は非常に傲慢で寛大らしく見えて実はもっとも狭量で偏屈で苛酷である。一番彼女らが不用意にそういう欠点を現わす場合をあげて見ると彼女らがその宗教の教徒以外の人に対する時である。彼女らは、まずこの宗教のありがた味を知らぬ者に対して可愛想だという。不幸だという。そして導き入れようとする。それが未だ宗教を信ずることを知らぬ者であったときには当然のことではあるが反対に既に何らかの信条を自分で把持して立派に宗教をもっている人に対してすら彼女は彼女たちの神様をしらぬ者はかあいそうだというようなことをいう。しかしこの場合は彼女は自省を欠いている。そして相手を侮辱しているのである。

以上、私が廃娼運動が「悪」であると考える理由を述べてきました。山室軍平が人柄としては高潔で誠実な人物である事を私も認めます。少なくとも貴方のような卑劣漢ではない。しかし、「醜業だから」「社会の害悪だから」「罪深き商売だから」という理由で廃業を勧める事は、私の価値観のもとでは「悪」なのです。貴方は堂々と(?)「自分は売春者を差別する」と言明しておられますから、私にとって貴方は単なる「悪人」です。しかるに、山室は「娼妓を救う」という綺麗事を付け加えていますから、単なる悪人ではなく「偽善者」です。

貴方には理解できないでしょうが、相手を見下して行なわれる「上からの救済」というものは、差別を助長するものだと私は考えます。「あの人たちは救済してあげなければいけない可哀相な人たちだ」という眼差しそのものが、「救済」される側にとっては差別だからです。高橋貞樹『被差別部落一千年史』の次の言葉も、貴方には理解できないのでしょうね。

 かような同情的差別撤廃運動、改善運動の類の言い分は、特殊部落民が理由のない侮辱を受けているのは可愛想だし、その品位を向上し実力を涵養して、一般民との融和を図ってやらねばならぬと、結局のところ部落を救ってやろうの同情から発したものである。また部落民中の一部の人々の、運動を助けてもらいたい、縋って行こうの運動であった。上からは救ってやろうと来、下からは救ってもらおうと来る、差別の上に立つ差別撤廃運動であった。(P.227)

単純な話、同情されるってのは苦痛だと思いませんか。貴方だって、「貴方は『もてない男』だそうですね。お可哀相に。貴方を受け入れてくれそうな心の広い女性を紹介してあげましょうか」と言われたら、口惜しいんじゃありませんか。それとも嬉しいですか。ところで、貴方は『恋愛の超克』でこう言っていますね。

 藤目ゆきは、矯風会のような廃娼団体の成員が、自分自身や家族が売春者になることのない中産階級の女性であり、売春者の視点には立てなかった、と言う。では現代において、売春者の立場に立てる者とは、誰なのか。それは売春者自身だけであるか、さもなくば「愛のないセックス」を実践し、自分の娘に「売春は立派な職業だ」と言える者のみなのである。繰り返すが、「自分はたまたま愛する人とだけセックスするけど、売春者を蔑視してはいけない」という立場が、果たして彼らの言う「矯風会的偽善」とどれほど違うのか、私には疑問である。(P.152)

貴方に「どれほど違うのか」理解できないのは、「同情」と「共感」の違い、「救済」と「共闘」の違いが理解できないからでしょう。藤目氏は、廃娼運動家が売春者の声を聞こうともしなかった事、中産階級の価値観を一方的に押し付けるものであった事を批判しているのであって、「中産階級の女性だから売春者の視点に立てない」という事ではありません。「娼婦たち自身のためと言うならば、まず娼婦が何を望んでいるかを聞き、どうすればよいか共に考えるのが筋ではないか」という事です。

例えば、私は貴方の立場に立てません。でもそれは、「小谷野敦の立場に立てるのは、小谷野本人か、さもなくば『自分の娘を小谷野の嫁にくれてやってもよい』と言える者のみである」という理由によるのではなく、単に、貴方の主張に全く説得力が無く、いくら耳を傾けても共感のしようが無いからなのです。

売買春肯定派がよく槍玉にあげる神近市子の『サヨナラ人間売買』の一文を確認しておきます。

 私共は、いろいろ各方面の方々の教えを乞うた。その中で、とくに私共の考えの基礎になったのは、左のような事柄だった。

 売春をする人々は、貧困とかブローカーの誘惑、欺瞞の犠牲者であるという考えは、成立するだろう。つまり、売春婦は被害者とみてもよい。しかし、今日のように多数が公然と売春をする結果は、その社会に害毒をながすから、それは準自然犯の要素をそなえて来ている。四千万の主婦の生活を守るために五十万と想定される売春婦の処罰は止むをえない。
 日本の伝統は、売春を自然犯として扱って来ている。遊廓は存在した。しかし、それはあくまで特例として存在を許されたのであって、自然犯と見ていた証拠は、遊廓以外における私娼は、いつでも弾圧掃蕩されていたことによって明らかである。
 婦人に売春を止めさせて更生させようとする時に、その婦人自身に反省が生じなければ、どんな努力も効は生じない。法律は、半ば教育の効果をもつもので、こんな行為をすれば罰しられるという規定は、それ自身が婦人の反省をまず誘発させるので必要である。

 この理論と実際との両方面にわたる指示は、私には大変よい参考になった。
 それと、私の理論上の最大の疑問は、売春行為が処罰に値しないのなら、公然勧誘することがなぜ悪なのかということだった。また、売春をさせてこれを搾取することと、労働をさせてこれを搾取するのとどこが違うのかという点だった。要は売春行為が、相手となる男子と売春婦自身との間に秘密でなされるならこれは咎められないのなら、この法律は何を根絶しようとするのか?(P.107)

よく「1」のみが引用されますが、それでは貴方に言わせればアンフェアだろうと思い、やや長めに引用してみました。この「1」について言えば、私の如き遊蕩の徒にとって「四千万の主婦の生活」など他人事であり、「文句はまず自分の亭主に言えよ」としか思えません。それ以前に、廃娼派の女性議員が「四千万の主婦」を代弁する立場にあるのだろうか?という疑問もありますが。

「2」については既に述べたように、はっきりと売春という行為そのものが悪と見做されるようになったのは、やはり近代になってからであり、これを「日本の伝統」とまでは言えないと考えます。

「3」についても、なぜ反省や教育を必要とするのが売春婦であって神近ではないと頭から決め付けるのか。なぜ神近は、売春婦より自分の方が頭がいいと信じて疑わないのだろう。

例えば、最後の段落で「公然勧誘することがなぜ悪なのか」と言っていますが、上記「1」においても「多数が公然と売春をする」ことが「害毒」であるとして、それを処罰の根拠としているではありませんか。更に、神近自身が本書で次のように述べています。

 最近の温泉旅館には、売春婦が客をとる目的をもって、廊下に立ちまたうろつくのを到るところで発見する。ある人は、同伴者の男子が他地方の者であり、婦人がその土地の者である場合は、売春行為があると見て検挙してよいと語った人があったが、それも一案ではあろう。しかし、少なくも廊下に売春婦をうろつかせることは、いかに商売繁昌を願うからといって行過ぎである。何らかの規正を加うべきである。(P.198)

ここでは、公然と勧誘する行為そのものを処罰すべきだと主張しています。それなのに、「売春そのものを処罰すべし」という議論の中では、「売春そのものが悪でないなら、なぜ売春の勧誘が悪になるのか」と主張しています。意図的に議論をすり替えているのか、単に自分の矛盾に気付いていないだけなのかは不明ですが、このような人物が「売春婦には教育が必要だ」と主張するのは笑止千万です。

私はフェミニズムの動向についてよく知りませんが、近年フェミニストが売春者に対して「容認」の態度を取るようになってきた理由は、神近のような傲慢で押し付けがましい態度への反省であり、神近のような考え方に基づく活動が本当に売春者のためになっているのかという反省であり、売春者の声に真摯に耳を傾けようと努めてきたからでしょう。

しかも、藤目ゆき『性の歴史学』が出版されるずっと前、1987年のいわゆる「池袋事件」の際に、「このような売春者への差別を放置して、何のためのフェミニズムか」という声が高まったのではないでしょうか。例えば、1991年に出た角田由紀子『性の法律学』では、そのような姿勢を示しています。ですから、『江戸幻想批判』における次の主張には賛成しかねます。

 ところで、藤目ゆきの『性の歴史学』(不二出版)は、近代日本における廃娼運動や産児制限の問題を扱った労作だが、これも間接的に「江戸幻想」に加担している恐れがある。藤目はここで、これまで女性解放運動の一環として評価されてきた明治期以降の廃娼運動が、実は中産階級の者たちによって担われ、彼らが娼婦を「醜業婦」という言葉で呼んだりして、現実には娼婦に対する蔑視を助長していた、と論じている。これは一九九七年に上梓され、高い評価を得た。恐らくフェミニズムが、売買春そのものに反対するという姿勢から、売春者の権利を擁護しようという方向へ向かったのは、この本の影響が大きいのだろう。(P.30)

『恋愛の超克』を拝見すると、フェミニストには「売春する気もない者が売春者の立場に立てるのか」と言い、売買春肯定派には「売春者を差別するなと言えるのは自分の娘が娼婦になってもよいと言える者だけだ」と言って、必死になってフェミニストと売買春肯定派の分断を画策しておられますねぇ。何ともはや、ご苦労なこった。売買春肯定派と共闘してくれるフェミニストなんて、いるんですかね。せいぜい、「やっと議論らしい議論ができる様になった」という段階ではないですかね。おそらく貴方は、双方からこっぴどく批判されたせいで、「奴等はグルになっている」という被害妄想を抱くに到ったのでしょう。

では最後に、『恋愛の超克』の次の主張を検討して、終わりにしましょう。

 宮台真司は、「『おれは絶対、妻や娘の売春は許さん、しかし、売防法はなくせ。売春は合法化しろ』って言えるでしょ」と発言している。確かに、これはいえる。だが、「妻や娘の売春は許さん、だが売春者を差別してはいけない」とは言えないだろう。それはほとんど「娘が黒人と結婚すると言ったら反対する、だが黒人差別をしてはいけない」と言うのに等しい。ではなぜ私を「差別者」として非難する松沢[呉一]が、宮台と共闘できると思うのか、それが不思議である。
 …(中略)…
 どうやら松沢は、売春防止法のような法律で禁じられているから蔑視が生まれるとか、明治から昭和期にかけての廃娼運動が娼婦への蔑視を生んだと考えているようだが、それは事実とは違う。遊女への蔑視は中世中期に始まったというのが網野善彦の説であり、服藤早苗説ではさらに十一世紀に遡る。
 …(中略)…
 だから、
 一、売春の法律的な禁止と売春者への日常生活での差別には相関関係はない。
 二、もし売春者への差別をなくすべきだと考えるなら、「娘が売春婦になってもいい」と言えなければならない。
 という二つの命題が真であると認めるなら、「売春婦への差別をなくせ」と主張する者と、「娘が売春婦になるのは許さんが、売春防止法はなくせ」と主張する者は、共闘できるはずはないのである。(P.172)

その二つの命題を、貴方自身が「真である」と思っているのかどうか知りませんが、もちろん二つとも「偽」です。

命題「一」について。

ある法律ができたからといって、突然に差別が生まれたり消えたりするものではありません。しかし、「相関関係はない」などとは考えられません。法律は、少なくとも、差別を強めたり弱めたりはします。そうでなければ、憲法で「人権」について規定する意味は無いという事になります。

息子が元(現役でもいいが)風俗嬢と結婚すると言い、父親(母親でもいいが)が反対するという場面を想定しましょう。こういう場面でよく「売春は犯罪じゃないか!」と言う人がいます。単純売春は「違法」ではあっても「犯罪」ではないのですが、それはともかく、「法律で禁じられている」という事を持ち出す事によって、この父親は強気に出る事ができます。逆に、もし売春が合法であれば、父親が内心は「けしからん」と思っていても、言い淀んでしまう事は十分に考えられます。

また、ある高名な学者さんが、次のように主張しておられます。

 戦前は「姦通罪」というのがあったが、これは、夫のある女性が別の男と性行為をすることのみを罰するという男女不平等なものであった。だから男が娼婦や藝者と関係してもそれが罪だという考え方が生まれなかったのである。

これは小谷野敦という偉い先生が『もてない男』という本に書かれている事です。この意見をどう思われますか。「それが罪だという考え方」と「日常生活における差別」との間には相関関係がないと思われますか。それとも、「姦通」と「売春」では何か事情が違うのでしょうか。

※ちなみに貴方は「絶望書店」主人氏に対して、「書き換えたとおっしゃいますが、『蛆蟲以下の唾棄すべき連中であります』などという表現は立派に刑法上の名誉毀損罪を構成いたしますよ」と言っておられますが(これが名誉毀損罪に該当しない事は既に述べましたが)、もし日本に名誉毀損罪というものが無かったら、貴方はこのような言葉で相手を威嚇する事はできなかった筈です。法律による禁止の有無によって、人は強気になったり弱気になったりするものです。特に、権威というものに弱い臆病な人は…。

命題「二」について。

例えば、自分の娘に売春をさせて、客を斡旋している父親なら、「売春者を差別するな」と主張する資格があるという事でしょうか。しかし、娘に売春をさせている父親にも、「社会に貢献する立派な仕事だ。大変だが頑張れよ」と心から応援する者もいれば(実際に存在するかどうかはともかく、可能性としては考えられるという意味です)、「お前は汚れた女だ」と娘を蔑視する者もいるのではないでしょうか。しかも現実には後者のケースが多いでしょう。人は、自分の娘に売春を許しながら、売春者を尊敬する事も、売春者を蔑視する事もできます。

同様に、自分の娘には売春を許さない父親にも、売春者を尊敬する者もいれば、売春者を蔑視する者もいると思います。「売春は社会に貢献する立派な仕事だが、お前はブスだから通用しないぞ」という理由で反対する父親は、ブスを差別しているかもしれないが、売春者を差別してはいないでしょう。「売春は立派な仕事だが、とても大変な仕事だ。お前は精神的に弱いから無理だ」という理由で反対する父親は、娘に対して過保護であるかもしれないが、売春者を差別してはいないでしょう。

それどころか、「売春者を差別してはいけない」と言いながら、売春者を差別する事も可能です。

「売春は立派な仕事だ。職業に貴賎は無い。売春者を差別するような奴は人間の屑だ。だが、それでも俺はお前を売春者にはしたくない。売春によってお前が『汚れてしまう』という思いが頭を離れない。売春は決して『汚い仕事』ではない。それは判っている。頭では判っているが、お前がどこの誰とも知れぬ男に抱かれる事には耐えられない。それは俺の我儘だ。単なる独占欲に過ぎない。俺は矛盾している。酷い人間だ。ずるい男だ。俺はそんな自分を許せない。罰せられても構わない。だが、それでも俺はお前には売春をしてほしくないんだ…。」

おそらく、実際に娘の売春に反対する父親の多くが、また息子と売春者との結婚に反対する父親の多くが、このような矛盾した気持ちに苦しんでいるのではないかと、私は考えています。だからこそ、矛盾していて苦しいからこそ、「法律で禁じられているじゃないか」等の理屈を持ち出して自分を守ろうとするのでしょう。「俺は偏見など持ってはいないが、世の中には現に差別があるのだから…」等と言い訳をするのでしょう。

そのような父親は、売春者を差別した事になるのだろうか。そうかもしれない。そうだとしても、私には彼を「差別者」として糾弾する気持ちにはなれない。それは、「自分も同じ立場だったら同じ事を言うかもしれないから」ではない。その父親の辛い気持ちも理解できるからだ。少なくとも、公然と「売春者を差別して何が悪い」と主張して憚らない貴方のような人間よりは、はるかに人間としてマトモだと私は思う。

「歌舞伎町ビル火災」で亡くなったキャバクラ嬢の父親が、「ソープでなくてよかった…」と呟いたという。この言葉を、現にソープに勤める女性が聞いたら、とても悲しい気持ちがするだろう。自分の父親の事を思い出し、胸が切り裂かれるように痛むだろう。それでも私には、その父親を責める気持ちにはなれない。また、私の知る限りでは、現にソープに勤める女性からその父親を責める言葉を聞いた事はない。おそらく、彼女たちはその父親を責めない。そんな女性たちの気持ちの一かけらでも、貴方に理解できるだろうか。

人は、自ら風俗で働きながら、風俗嬢である自分を蔑視する事もできる。それがどんなに悲しく辛い事か、貴方に想像できるだろうか。その気持ちを想像もできない人間だけが、「だったら辞めればいいだろう」と言えるんだ。だが、そんな人間の言葉に、何の説得力もありはしない。

人は、自らは風俗で働く事を拒みながら、風俗嬢に敬意を払う事もできる。それでも、その人に、真剣に風俗嬢の声に耳を傾け、少しでも理解しようという姿勢があるならば、風俗嬢もまた「あんたに何がわかるんだ」とは言わないと思う。その人は、風俗嬢の気持ちを完全には理解できないだろうが、「全く理解できない」という訳でもない。「売春者の立場に立つ」という事は、そういう事だ。

人間ってのは、矛盾した生き物なんだよ。売買春の現場ってのは、そういう人間の抱える矛盾の吹き溜まりみたいなもんだよ。それは、あんたのような世間知らずのお坊ちゃんには、一生かかっても理解できない世界だ。悪い事は言わない、あんたが首を突っ込む世界じゃない。お家に帰ってマスでもかいてなよ、坊や。

■ おわりに

以上、貴方様からのご質問にお答えするとともに、貴方の著書『江戸幻想批判』が単なるゴミであると断ずる根拠を述べて参りました。ま、所詮は素人の戯言、二次史料・三次史料をも平気で「史料」と呼び、三次史料を二次史料と突き合わせる事をもって「考証」と称していますが、こんなものは本物の歴史家から見れば「考証ごっこ」の域を出ないものでしょう。しかし、貴方の議論が「考証ごっこ」のレベルにすら達していない事もまた明らかだと考えます。

この『江戸幻想批判』は燃えるゴミですので、不燃ゴミの日に出してはいけません。ゴミ出しの際には、近所の小学生が本書の帯の宣伝文句を目にして、「へぇー、吉原の女郎の平均寿命は23才だったんだぁ」などと誤解するといけませんから、帯はシュレッダーにかけてから処分するのが、教育上は望ましいでしょう。「わたしオトナになんかなりたくないなぁ。女郎さんになったら23才で死ねるのかぁ。じゃあわたしも女郎さんになりたいなぁ」などと夢見る純真な少女がいないとも限らないからです。

ゴミに出す代わりに自宅の庭で焼却するのもいいですが、その場合には、前もって近所の人に「焚き火をしますから」と声をかけておきましょう。火事と間違えられて消防車を呼ばれてしまうと、自分が恥ずかしいだけでなく、大勢の人に迷惑をかけるからです。なお、燃やした際にダイオキシンが発生するかどうか私は知りませんが、パルプ資源の無駄である事は間違いのない所です。

でもどうかお気を落とさないで下さい。私は貴方が学者失格だと申しているだけで、貴方の一般向けエッセイが無価値だという事ではありません。貴方の次の著書を楽しみにしているファンの方も何人かはおられるようです。貴方が高名な学者に喧嘩を吹っかける姿を「痛快だ」と思う人もいれば、その無謀なドンキホーテぶりに大笑いしている人もいるでしょう。そんな人々に娯楽を提供するのも、立派な仕事ですよ。自信を持って下さいね。だって佐伯順子『遊女の文化史』や田中優子『江戸の恋』なども、一般向けの「楽しい読み物」に過ぎないんですから。

では、貴方がこれ以上、恥の上塗りを重ねる事のないよう祈りつつ。

かしこ。

■ 参考文献一覧(順不同)

<と!>●小谷野敦『江戸幻想批判 「江戸の性愛」礼賛論を撃つ』(新曜社、1999)
<と!>●小谷野敦『もてない男』(ちくま新書、1999)
<と!>●小谷野敦『<男の恋>の文学史』(朝日選書590、1997)
<と!>●小谷野敦『恋愛の超克』(角川書店、H.12)
<と!>●小谷野敦『中庸、ときどきラディカル 新近代主義者宣言』(筑摩書房、2002)

●浅井虎夫『女官通解』(所京子校訂、講談社学術文庫、1985)
●朝日新聞社編『朝日新聞の記事にみる 奇談 珍談 巷談 [明治]』(朝日文庫、1997)
●網野善彦『日本中世の民衆像』(岩波新書、1980)
●網野善彦『無縁・公界・楽』(平凡社ライブラリー、1996)
●網野善彦『日本論の視座』(小学館ライブラリー、1993、原著は1990)
●網野善彦『蒙古襲来』(小学館文庫、2001、原著は1974)
●宇佐美ミサ子『宿場と飯盛女』(同成社・江戸時代史叢書6、2000)
●大久保葩雲『花街風俗志』覆刻版(日本図書センター、S.58、原著はM.39)
●大和岩雄『遊女と天皇』(白水社、1993)
●沖浦和光『竹の民俗誌』(岩波新書、1991)
●沖浦和光/宮田登『ケガレ 差別思想の深層』(解放出版社、1999)
●神近市子編『サヨナラ人間売買』(現代社、S.31)
●鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』(講談社学術文庫、2000)
●斎藤洋一+大石慎三郎『新書江戸時代2・身分差別社会の真実』(講談社現代新書、1995)
●佐伯順子『遊女の文化史』(中公新書、1987)
●杉山二郎『遊民の系譜』(青土社、1992)
●曽根ひろみ『娼婦と近世社会』(吉川弘文館、2003)
●高橋貞樹著『被差別部落一千年史』(沖浦和光校注、岩波文庫、1992)
●滝川政次郎『遊女の歴史』(至文堂・日本歴史新書、S.40)
●滝川政次郎『遊行婦女・傀儡女・遊女 ―江口・神埼の遊里―』(至文堂・日本歴史新書、S.40)
●滝川政次郎『吉原の四季 ―清元「北州千歳寿」考証―』(青蛙房、S.46)
●田中優子『江戸の恋』(集英社新書、2002)
●谷川健一編『近代民衆の記録3 娼婦』(新人物往来社、S.46)
●角田由紀子『性の法律学』(有斐閣選書、1991)
●菜摘ひかる『恋は肉色』(光文社文庫、2000)
●西山松之助『くるわ 廓』(至文堂・日本文学新書、S.38)
●野間宏/沖浦和光『日本の聖と賎 中世篇』(人文書院、1985)
●広末保『悪場所の発想』(三省堂、S.45)
●服藤早苗『平安朝の女と男 貴族と庶民の性と愛』(中公新書、1995)
●藤目ゆき『性の歴史学』(不二出版、1999)
●堀場清子編『「青鞜」女性解放論集』(岩波文庫、1991)
●牧英正『人身売買』(岩波新書(青版)801、1971)
●松沢呉一+スタジオ・ポット編集『売春肯定宣言 売る売らないはワタシが決める』(ポット出版、2000)
●三田村鳶魚『近松の心中物・女の流行』(中公文庫、S.50)
●宮川曼魚『江戸売笑記』(批評社、S.2)
●宮台真司ほか『<性の自己決定>原論』(紀伊国屋書店、1998)
●山室軍平『社会廓清論』(中公文庫、S.52)

●『日本思想体系8 古代政治社会思想』(岩波書店、1979)
●『日本思想体系60 近世色道論』(岩波書店、1976)
●『日本古典文学大系38 御伽草子』(岩波書店、S.33)
●『日本古典文学全集37 仮名草子集 浮世草子集』(小学館、S.46)
●『日本古典文学大系49 近松浄瑠璃集 上』(岩波書店、S.33)
●『日本古典文学全集47 洒落本 滑稽本 人情本』(小学館、S.46)
●『新 日本古典文学大系27 本朝文粋』(岩波書店、1992)
●『梁塵秘抄』(佐々木信綱校訂、岩波文庫、1933)
●『吉原徒然草』(上野洋三校注、岩波文庫、2003)
●酉水庵無底居士『色道諸分 難波鉦』(中野三敏校注、岩波文庫、1991)
●喜田川守貞『近世風俗志(三)(守貞謾稿)』(宇佐美英機校訂、岩波文庫、1999)
●藤原明衡『新猿楽記』(川口久雄訳注、平凡社・東洋文庫424、1983)

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