Contents | ■ はじめに |
■ 改めて「遊女の平均寿命」について | |
■ フーコー そして/あるいは クラウスについて | |
■ 佐伯順子『遊女の文化史』について | |
■ 梅暮里谷峨『傾城買二筋道』について | |
■ 田中優子『江戸の恋』について | |
■ 藤目ゆき『性の歴史学』、あるいは廃娼運動について | |
■ おわりに | |
■ 参考文献一覧 |
それでは以下に、貴方の著作が、本来ならば真面目に批判する程の価値もない、単なるゴミに過ぎないと断ずる根拠を述べさせて頂きます。
まず、貴書『江戸幻想批判』にあります「吉原の女郎の平均寿命が二十三歳だ」というトンチンカンな記述についてですが、既に訂正コメントを出されているとの由。そうとは知らず、失礼つかまつりました。
※この拙論を半ば書きかけた段階で、遅まきながら貴方と絶望書店主人氏との論争を拝見する機会を得ました。そこでの貴方の発言が「誤りを認めた」と言えるものかという点については、既に2ちゃんねる小谷野敦スレにて物笑いの種になっている様ですので、敢えて繰り返しません。
ですが、この間違いは「ちょっと考証不足だった」といったレベルの問題ではありません。貴方にはモノを書く資格すら無いと言っても過言ではない程の、致命的なミスだと思います。この「吉原の女郎の平均寿命は二十三歳」が、もし小学生の作文に書かれていたのであれば、私とて「よく調べたな!偉いぞ!」と誉めてあげます。しかし、それがもし中学生の作文であれば、私は「本当にそうかな。その数字はどうやって計算したんだろう。もっとよく調べてごらん」とアドバイスするでしょう。
第一に、西山松之助氏の算出された「22.7才」という数字は、例えば、牧英正『人身売買』(岩波新書(青版)801、1971)P.151 にも引用されています。これもお読みになっていないのでしょうか? では、より本格的な研究書をお読みになったのでしょうか、それともご自分で身売り証文などの一次史料にあたられたのでしょうか。
私は学者ではありませんので、貴方が言われる「先行研究を踏まえなければならない」というルールを共有しておりません。しかし、人様に対して「人身売買の悲惨さ」を説くからには、まず自らが人身売買について学ぶのは当然だろうと考えます。そして、もし貴方が本当に「近世の娼婦の悲惨な境遇」について真摯に学ぶ姿勢を持っておられたら、おそらくは何処かでこの「22.7才」という数字にも出会っていた筈だと思うのですが…?
なお参考までに、江戸時代の人の寿命について、鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』では次のように述べています(P.174)。
「人生僅か五十年」とは人の一生の短いことの譬えだが、江戸時代の日本人の寿命(出生時平均余命)はとてもそこまでは達していなかった。出生時平均余命が五〇歳を超えたのは、第二次大戦後の一九四七年であった。
…(中略)…
江戸時代にまで遡って全国規模の生命表を得ることはできないが、宗門改帳や過去帳を利用すれば、町村単位の平均余命を知ることができる。それから推計すると、一六〇〇年頃の寿命はよくてもせいぜい三〇歳程度であったであろう。
…(中略)…
年代を幅広くとって長期的な比較を横内村、湯舟沢村、飯沼村について行なってみると、十七世紀末以後、幕末までの二世紀間に、平均余命に相当大きな伸びのあったことを認めることができる。おそらく七年以上になるだろう。この三つの中部地方の村の例を参考に、出生時平均余命の長期的推移を描くならば、十七世紀にはニ〇代後半ないし三〇代そこそこだったものが、十八世紀には三〇代半ば、そして十九世紀には三〇代九版の水準を獲得して明治中期の水準につながったものと思われる。
ただし、鬼頭氏によると「宗門改帳は数え年二歳から登録されるのが普通」であるため、"間引き"を含む乳幼児の死亡をどう考慮するかが問題となります。鬼頭氏の出生時平均余命とは、この点を一定の仮説に基づいて補正した数値であり、死亡年令の単純平均に過ぎない「23歳」という数字とは単純に比較できません。
第二に、これが重要な点ですが、この「23歳」という数字を見た時に、「どうやって算出したのだろう?」「信頼できる数字なのか?」という疑問を持たなかったのかという点です。 学術論文や著作物に出てきた数字ならともかく、博物館の展示にあった数字に対して、何の疑問を持たずに無批判に飛びついたのだとすれば、学者としての資質を欠いていると言わざるを得ません。
思うに、これが例えば遊女の境遇の「裕福さ」を示すデータであれば、貴方は疑ってかかったのではないですか。遊女の境遇の「悲惨さ」を示すデータだから無批判に飛びついた、そして鬼の首を取ったように吹聴して回った、そういう事ではありませんか。
断っておきますが、私は別に「遊女の平均寿命は小谷野の言うほど低いものではない!遊女の境遇は悲惨ではない!遊女バンザイ!」などと能天気な事を言いたい訳ではないですよ。元となった西山氏の『くるわ』には、こう書かれています。
江戸時代のこの六冊の過去帳の中で、第一冊目の寛保三年から安永八年までの記録には、ところどころその死亡年齢が記されていて、それがはっきりわかる者だけを数えてみると六四名であるが、その平均はニニ・七歳で最年少が一五歳、最高四〇歳というのがある。これだけで推定することは危険だが、この年齢は興味深いのでその表をあげておこう。年季の最高年齢は大体ニ七歳とされていたが、前借がかさんで、いつまでも足を洗えないのがいたことは、この記録でも明瞭である。
年齢 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 39 | 40 |
死亡者数 | 1 | 3 | 5 | 6 | 7 | 2 | 2 | 6 | 8 | 7 | 4 | 2 | 2 | 2 | 2 | 1 | 1 | 2 | 1 |
西山氏はちゃんとした学者ですから、貴方のように「遊女の平均寿命はこんなに低かった!」などと短絡的に騒ぎ立ててはいません。むろん、若くして病に倒れ、ろくな看病も受けずに亡くなった遊女も少なくなかった。それも悲しいことだが、普通ならば年季の明ける二十七を過ぎても働き続けた遊女もおり、これもまた悲しいことだと言っているのです。
宮川曼魚『江戸売笑記』P.332 に、こんな話が紹介されています。
文政七年の五月には江戸じゅうの転び芸者と隠し売女の大検挙が行なわれて、三人以上の芸者並に茶汲女を置いた者が六十人、売色芸者が十三人、隠し売女四十一人、女の中宿三十六軒がお召捕りになった。隠し売女の連名のうちに、
上野町二丁目 町医祐伯妻 くめ(二十八)
池之端仲町 肴売吉五郎妻 たき(二十八)
馬喰町二丁目 金八女房 ひで(二十八)
という三人の人妻が見えているが、その年齢がひとしく二十八であるのはちょっと不思議な気がする。あとの三十八人は十四歳から二十歳前後の水茶屋の抱え女が多数を占めている。
思うに、宮川氏がこの「二十八」という年齢について「不思議な気がする」とわざわざコメントしたのは、「偶然ではないかもしれない」と考えながらも証拠が得られなかったためではないでしょうか。もし偶然ではないとしたら、まず遊女の「年季」との関連が疑われます。想像の域を出ませんが、三十を過ぎた人妻熟女の中にも、「吉原を卒業したばかりの28で~す♪」と称して営業していた者がいたのかもしれません。
遊女の年季について、滝川政次郎『吉原の四季』P.145 によれば、
…証文の年季は十年又は二十五年となっているが、十年は突出されて遊女となった者の年季であり、二十五年は禿立ちの遊女の年季であって、数え二十七となれば、「年明(ねんあけ)」と称して解雇せられるのが、江戸末期における吉原の不文法であったのである。
年明ともなれば、遊女は身の振り方を考えねばならない。あの男にお負さろうか、この男にしようかと、こんどは遊女の方から客を見立てることになる。
傾 城 が 客 を 見 立 て る 二 十 七
二 十 八 不 沙 汰 の 墓 へ 泣 い て わ び
などの句は、この吉原の不文法の存在を証拠立てている。遊女二十七に達すれば、代償を求めずして遊女を廓外に出すことは、楼主の仁慈なる如く見えるが、実は商品としての価値を失った女にいつまでも徒食されることを恐れての、利勘より出た不文法であって、酷薄の極みと言わざるを得ない。仲ノ町の桜も、花が散ればこれを根こそぎにして、廓外に運び去ってしまう不人情と一般である。
思うに、こうして遊郭を去った遊女の誰もが、堅気の亭主を持ってそれなりに幸せに暮らせた訳ではないでしょう。養ってくれる旦那も見つからず、さりとて手に職もなく、故郷に帰っても居場所がない女性も少なくなかった事でしょう。隠し売女となった者、夜鷹や舟饅頭となった者もいた筈です。
夜鷹には年増が多かった事、梅毒が多かったらしい事が知られていますが、梅毒によって死に至るまでの期間が約十年である事を考えれば、遊郭で感染したものが三十過ぎて本格的に発病し、「鼻欠け」の夜鷹として生涯を終えた者もいた事でしょう。おそらくは看取ってくれる者さえなく、無縁仏として処理されたか、烏や犬に喰われたか…。そのような女性たちの死亡年齢を示すデータなど、残っている筈がないのですよ。そもそも、彼女が吉原に居た事さえ誰も知らなかった、いや、たとえ自ら「あたしゃ先だってまで吉原に居たのさ、高尾太夫ってぇのは妹分さ!」などと言ってみても、誰も相手にしなかったでしょうから…。
もし貴方が、江戸に生きた遊女売女一人一人の境遇というものを思い遣っていたら、「23歳」という数字が全ての遊女の平均寿命を反映している筈のない事もまた明らかなのですよ、考証してみるまでもなく。ほんの少し、自分の頭で考えれば、「おかしい」と気付くはずです。
遊女たちは、足を洗えぬまま年老いてゆく「悲惨さ」を知っているからこそ、時には「指切」「爪剥がし」といった、貴方なら「残酷だ」「女性虐待だ」と騒ぎ立てるであろう手練手管を用いてでも、上客をつかもうとしたのでしょう。「遊女の境遇の悲惨さ」とは、貴方が考えているほど単純なものではありません。
こうした遊女たちの境遇の実情をよく研究した上での売買春批判なら、私も真剣に耳を傾けます。私自身は買春を肯定する者ですが、私なりに「より良い買春・売春のあり方」を考える上で、大いに参考になるからです。しかし、貴方は「遊女の境遇の悲惨さ」について、何を知っているのですか?
まず、「恥ずかしいとは思わんのだろうか」と揶揄したのは、私の失敗でした。もともと羞恥心を持たない人に「恥ずかしくないのか」と言っても仕方のない事でした。
次に、「佐伯順子『遊女の文化史』や田中優子『江戸の恋』を貴殿はどう評価するのか」とのお尋ねを頂きましたので、まず『遊女の文化史』について愚見を述べます。
さて、佐伯氏は『遊女の文化史』で、次のように述べる。
…これに対し、山上伊豆母氏が『巫女の歴史』で示された見解は、傾聴に価する。氏は、「巫女が遊女に転身していく要素は、じつは神霊の依り代であり自然神の降下をまつ原始巫女の時代から存した」として、巫女が「神妻となる」性格を有していたゆえに遊女は「聖婚」の相手として求められたと主張した。これは、遊女の"聖なる性"の可能性を説いた数少ない例として評価できるものであろう。ただし、氏の見解にもおとし穴がある。それは、「巫女が遊女に転身」という発想である。実はこの発想が柳田や滝川氏の誤りをも招いたものなのである。遊女は巫女の一種なのではない。遊女という表現そのものが、そのまま巫女という意味を、かつては有していたのである。(P.20)
この着想そのものは、大いに評価できると私は考える。私もまた巫女起源説に見られる「遊女は巫女が(生活のために)堕落したもの」といった見方に違和感を持つ者であり、もし佐伯氏が念頭に置く「巫女」が、「歩き巫女」の如き存在のみを指しているのであれば、全く同感である。しかし、遊女の性を「神婚儀礼」と同視し、古代バビロニアの「神聖娼婦」といったものを遊女の祖とする見方には異論がある。浅井虎夫『女官通解』によれば、
御巫よみてミカンノコといえり。その義は御神の子の義なりという。しかるに後世ミコと称えまたカンナギと称えて、禁厭などを行なえる者ありといえども、これらと御巫とは大なる差別あることを知らざるべからず。源順選するところの『和名抄』にも、巫覡という文字見えて、これを乞盗類に載せられたり。いわく、「巫覡、『説文』にいはく、巫反なく、和名かむなぎ、祝女(はふりめ)なり。『文字集略』にいはく、覡をのこかむなき男祝なり」とて、これを人倫の最下等なる遊女、乞児、偸児、群盗、海賊、囚人のごとき忌まわしき者に列したり。この巫覡は、すなわち、あからさまに宮中などに出でて、神祇を祭る御巫にはあらずして、卑賤きわまれる者なり。これらの巫覡はさまざまの禁厭などを行いて自活せる者にて、かの神おろし、湯立て、弓立てのごとき、みな巫覡の行うところなり。(P.140)
この浅井虎夫氏の整理に従えば、神聖娼婦に相当するのは「御巫」であり、中山太郎・大和岩雄・佐伯順子らの所謂「巫女起源説」とは、より正確には「御巫起源説」と呼ぶべきものであろう。しかし私は、中世の歩き巫女・遊女・傀儡子らは、「御巫」がドロップアウトした者ではなく、大和朝廷権力の成立当初から、言わばアウトロー的存在だったと考える。すなわち、杉山二郎『遊民の系譜』の整理によれば、
法外遊行の徒の弾圧は『続日本紀』を繙いてみると執拗に続いている。…(中略)…養老六年(A.D.723年)七月十日の太政官符に「近在京の僧尼、浅識軽智で罪福の因果を巧みに説いて戒律を練らず、都裏の衆庶を詐り誘惑して、内にあって聖教を黷け、外に向って皇猷を虧け遂に人の妻子を剃髪刻膚させ、ややもすると仏法と称して家庭を離れて、綱紀に懲ることなく親や夫を顧ることもなく、或は経を負い鉢を捧げて食を街衢の間に乞い、或者は偽って邪説を誦して村邑の中に寄宿し聚めて合宿するなど、妖訛が群をなすにいたる。初めは修道の様に似ているが、終には姦乱をおこすことになる。永くみて、その弊害を考えると特に早速禁断すべきだ」と。
これらの太政官符の発令は、綱紀を厳重にして管理したとするか、弊害矛盾の続出がこうした勅令となったのか、判断は難しい。けれど私度僧の増加と跳梁、またそれに追従する妖惑された大衆の浮浪、また山野に営まれたこれらの人たちの庵や岩窟の存在を見逃すことはできまい。(P.35)
このように朝廷からは怪しげな連中・危険分子として弾圧された人々の末裔が歩き巫女であり、また、彼らのうちで洗練された芸能を身につけた者が遊女だったのではないだろうか。野間宏/沖浦和光『日本の聖と賎 中世篇』によれば、
野間 宗教以前の世界では、"聖なるもの"であったのに、一挙に"穢れ"の領域に追いやられた。国家宗教が成立して、≪聖≫と≪俗≫が分離すると、彼ら呪術師は≪聖≫にもおれないし、≪俗≫の世界に住み着くこともできない。
沖浦 そうです。もはや安住の地がないので、それまでいろいろ因縁があったんだけど、≪聖≫からも≪俗≫からも追い出されて、泣く泣く≪穢≫の方へ叩き出される。
野間 国家宗教の段階では、政治権力を握った王権は宗教的祭祀権を完全にその手中に収めますから、このような前時代的呪術師の存在そのものが邪魔になってくる。
沖浦 神事呪術者は、もともと世俗的な日常性の世界に居場所はなかった。非日常的世界が活躍の場だった。だから、≪聖≫の世界で活躍できないとなると、その対極にある非日常の≪穢≫の世界で活躍するほかはない。
野間 非日常性がはっきりあらわれるのは、ハレの日の祝祭やその対極になる葬礼ですネ。これらの日には、いずれも過去の"聖なるもの"の痕跡を残しながら≪穢≫の領域から出てきた神事芸能者が活躍する…。(P.81)
大和朝廷は、このような民間の巫=シャーマンを単に弾圧しただけではなく、一方では権力内部に取り込み利用して行った。祟神天皇が、クニツカミである大物主神の祟りを畏れ、大物主の子孫とされる大田田根子をして祀らせたとする逸話は、このような事情を表していよう。
しかし、大田田根子の後裔たる遊部の女たちは、宮廷に囲い込まれた事により、次第に「巫」としてのパワーを失ってゆくのではないか、従って、そこからは遊女や傀儡子の躍動感あふれる芸能は生まれないのではないかと、私は考えている。山折哲雄『死の民俗学』によれば、
殯[もがり=死者の遺体をすぐに埋葬せず一定の期間をかぎって安置すること]の短縮と火葬の導入は、こうした「腐敗」にたいする観念を根本的に変化させることになった。死者の霊魂と社会の秩序を時間をかけて蘇生・復活させる、いわば触媒としての腐敗を結果的には否定することにつながったからである。その先鞭をつけたのがすでにみたように持統・文武・元明・元正の遺体にたいして適用された火葬の採用であった。そのことによって一代一宮制が崩れ、仏教イデオロギーが王宮の儀礼と観念のうちに急速に浸透していったのである。その変遷のなかでひそかに追及されていたテーマが、一つには死の穢れのなかでおこなわれる即位式から大嘗祭の清浄性を分離することであり、二つには、王の死から発する穢れそのものを最小限度の期間内に局限するということであった。換言すれば、王権の継承の場面からの死穢の排除という課題が、至上命令として追及されていたのだといっていい。(P.223)
アニミズム的世界において、「ハレ」と「ケガレ」は言わば表裏一体をなすものであったと考えられる。しかし、朝廷内部に取り込まれた巫は、国家宗教としての様式と教義が整備され、<聖>の側面に純化されるにつれ、本来の巫としての生命力を失ってゆくのではないだろうか。大江匡房や後白河法皇らが遊女・傀儡子と親しんだのは、貴族社会が失ってしまった「巫」のエネルギーを求めての事ではなかったか。特に、自ら占いをよくする陰陽師でもあった大江匡房には、そのような意識がはっきりとあったように思えてならない。杉山二郎『遊民の系譜』によると、
平安朝の四大絵巻は、源氏物語絵巻を始めとして、伴大納言絵詞、信貴山縁起絵巻、鳥獣戯画絵巻が挙げられる。源氏物語絵巻は今日冊子、帖仕立になっているが、人物描写は典型的な引目鉤鼻であって彩色は塗り絵である。そこには何らの個性的な活き生きした表情も表現もない。光源氏であろうが紫の上であろうが典型的な引目鉤鼻による無表情さは、伴大納言絵詞の応天門火災に驚き群がる男女の活き生きした表情と、何と懸隔のあることだろう。また信貴山縁起絵巻の飛倉の巻に見る男山八幡の油長者の人たちの狂乱する人びとの姿態と表情を見るがよい。この対比は宮廷内裏や貴族の深窓に生活する人たちと、街衢陋巷に暮す衆庶、大衆の生活感情の違いを象徴してはいないだろうか。没個性的なステレオタイプの表現には貴族生活の単調な、起伏のない雰囲気がただよっている。彼らが白日のもと、陽光のもとで男女をしげしげと識別したり認識することのない生活、衣冠束帯、十二単衣に綺羅を飾った職階制のなかでのみその人物を識別した世界、また男女が愛する対象として逢うのは暗闇、薄明りのなかで、香りと臭いと、触覚のまさぐりのなかでしか実体を把握できない世界、こうして貴族生活の一面を捉えてみると、源氏絵の引目鉤鼻の類型的造形表現が何となく理解できようというものである。
わたくしは四大絵巻を取り上げて、貴族の姿と中流、衆庶の姿の捉え方の違い、生活感情の懸隔を指摘してみた。確かに古代末の崩壊と新しい世界の胎動の響きが聞えてくる。そうしてこうした差異が伎芸、雑芸の世界にもあったとみたい。関白道長や頼通、また後白河院をして遊女、白拍子、傀儡子に親炙させたその底流に、活きた女性、生きた音楽、活発狂騒の跳舞への願望があったろうことである。今日の若者がロックに熱狂して日常性のたがを外すように。(P.241)
このように、貴族社会の文化が次第に生命力を失っていき、遊女たちから活力を得ていたのではないかとの認識は、遊女が天皇の直属民であるなどという珍奇な説を唱える網野善彦氏でさえも、不承不承ながら認めている所である。すなわち『日本論の視座』によると、
[大江]匡房は[菅原]道真のように、これらの遍歴民を貧苦に打ちひしがれた人びととして同情しているのではない。人びとに家を忘れさせ、その心を蕩し、神仙の境地に導く遊女の世界(『遊女記』)、「上は王公を知らず、傍牧宰を怕れず、課役なきをもて、一生の楽と為せり」(『傀儡子記』)といわれた傀儡子の生活は、むしろ日常の俗事にまみれなくてはならぬ匡房の心を強く魅きつけるものがあったのであり、それだけに、こうした人たちの異世界性・異種性・漂泊性がかえって強調される一面のあったことを知らなくてはならない。そしてその魅力が、貴族たちの与える祝儀の布絹を争って奪いあう遊女たちや、多くの贈り物で富裕になり、さらに、百神を鼓舞喧嘩して祭り、福を祈る傀儡子たちの野生に満ちた生命力にあることを、匡房はある程度は感じとっているのである。(P.166)
なぜ貴族ら定住民は、漂泊・遊行の民に生命力を感じるのか。広末保『悪場所の発想』の見解では、
だが、それにしても、なぜ河原者である歌舞伎役者が、その御霊神に扮し、舞台の上での祭式化をにないえたか。呪術宗教的な能力と芸能をもった、身分の低い神人(じにん)の存在をそこに考えなければならないであろう。
神の来訪を人の姿であらわすという宗教的な慣習は、民俗学者や民間信仰史の研究家によって指摘されているところだが、その神霊をにない、神語を説き、神に扮するものたちの多くは、遊行漂泊の民であり、少なくとも、定住農耕民とは異った生活形態と精神構造をもったものたちであった。定住民は、かれらを、その非定住的遊行性のゆえに賎視し、同時に、それのもつ呪術宗教的なもののために畏敬した。(P.252)
しかし、「賎視し、同時に、…畏敬した」という見方は、少し不正確なのではないか。「賎視」とは「畏怖」の裏返し、畏怖心を打ち消そうとする心の動きから「賎視」が生ずるのではあるまいか。少し戯画化して言えば、定住民が犬だとすれば遊行民は狼、定住民が豚だとすれば遊行民は猪だ。野山に分け入り、狩猟採集文明に近い生活を営む遊行民は、定住民から見れば、おそらく「霊力」とでも呼びたくなるような一種の存在感を有していたのではないだろうか。
だが彼らの芸能は、現代人が「宗教」という言葉から連想するような「厳粛」で「真面目」なものでないと同時に、「呪術宗教」という言葉から我々が連想するようなオドロオドロしい代物でもなかっただろう。
『更級日記』には三度にわたって遊女(あそび)が登場するが、その最初の足柄山の遊女は、幼き日の作者に強い感銘を残している。その歌声の美しさとともに、彼女らが何処からともなくやって来て、何処へともなく去って行くように見えたのが神秘的な印象を強めたようだ。実際には、おそらく足柄明神にでも彼女たち遊行民の生活の拠点なり宿泊施設の如きものがあったのだろうが。
『枕草子』の「職の御曹司におはしますころ、西の廂に」の段に、「常陸の介」と綽名される胡散臭い尼法師が登場する。薄汚い恰好をしており、女房たちの求めに応じて、「夜はたれとか寝む。常陸の介と寝む。寝たる肌よし」「男山の峰のもみじ葉、さぞ名は立つや」などと何やらスケベな歌をうたい、踊ってみせる。この下品だが逞しいオバハンこそ、歩き巫女の類ではないかと思う。この段には、もう一人、大人しく品のある尼法師が登場して女房たちの同情を集めるが、これはダメだ。生命力がない。おそらく落ちぶれた貴族の女が、にわか遊行民となったものだろう。この「常陸の介」の歌は、『梁塵秘抄』の次のような歌と響き合っていないだろうか。
・恋ひ恋ひて邂逅(たまさか)に逢て寝たる夜の夢は如何見る、さしさしきしとたく[抱く?]とこそみれ。(460)
・雨は降る、往ねとは宣(のた)ぶ、笠は無し、蓑とても持たらぬ身に、忌々(ゆゆ)しかりける里の人かな、宿貸さず。(467)
・いざ寝なむ夜も明方に成りにけり、鐘も打つ、宵より寝たるだにも、飽かぬ心を、や、如何にせむ。(481)
・盃と鵜の喰ふ魚と女子は、はう[飽?]なきものぞいざ二人寝ん。(487)
思うに、彼ら遊行民の基本的性格は、今日の言葉で言えば、「宗教者」というよりは、「大道芸人」に近いだろう。確かにアニミズム的な呪術宗教という側面を有してはいるのだが、現代人の感覚で「宗教」と言えば厳粛な儀式の如きものを連想するし、「巫女」と言えば神社でお守りを販売する上品なお嬢さん(茶髪・ピアス不可)を連想しがちだ。それゆえ私は遊女の本質を「巫女」ではなく「芸能者」としておきたい。歩き巫女も広義の「芸能者」に含まれるという意味においてである。滝川政次郎『遊行婦女・傀儡女・遊女』によると、
大道に施芸して、お立会いから投げ銭を貰って生活する大道芸人、戸毎に楽器を奏してその呼び入れを期待する門附けの徒は、これを乞食の類としてよい。万葉集に見える「乞食者」は、これをホカヒビトと訓むことになっているが、ホカヒビトは寿言(ほぎごと)を呈することによって「御祝儀」の志を受ける者の謂である。芸を施すことの報酬を求める者と、寿言を唱えて咒術を施すことの報酬を求める者との間に、性質の差を見出すことはできない。乞食が何等の利益を相手方に与えることなく、只管に食を乞う「物貰い」になったのは、後世のことである。遊女が河中に今様を唱って往来の船客から纏頭を受けるのは、正に乞食の所業である。源順はここに着眼して、遊女を乞盗類に入れたのであって、倭名類聚抄の分類は、決して不当ではないと思う。(P.131)
注意してほしいのだが、ここで滝川博士は遊女を侮辱しているのではない。本来の「乞食(こつじき)」は芸能者だったと言っているのであり、遊女も乞食も決して無為徒食の輩ではないと論じているのだ。ところが、大和岩雄『遊女と天皇』に言わせると、
「帰化」人や山部・海部の婦女や、社会の落伍者の婦女が遊女になったとみる、遊女に対する露骨な差別観・蔑視観に立つ瀧川[政次郎]は、すでに故人だが、もし生きていたら、本書のタイトル[『遊女と天皇』]を見ただけで不快に思ったろうし、とりわけ、「天皇と遊女」ではなく、逆にしていることに激怒したであろう(瀧川は国学院大学教授で法学博士)。
素朴な疑問として思うのだが、この大和氏の言い方こそが、「社会の落伍者」に対する蔑視そのものではないのだろうか。また、網野善彦氏も遊女に言及するたびに同様の発言をしているが、例えば『蒙古襲来』によれば、
しかしこの時代のこうした人々を、すぐに「体制から疎外された人々」ときめつけ、「卑賤視」されたとする見かたに、私は賛成できない。ここにあげた狭義の芸能民はみな宮廷に出入りして、天皇・貴族と接している。時代はさかのぼるが、後白河法皇が博奕を好み「院中、博奕のほか他事なし」といわれ、傀儡師・白拍子から今様を習ったことは周知の事実である。(小学館文庫版P.480)
どうも不思議なのは、網野氏が滝川氏の説を「女性蔑視」と考えているらしい点だ。何故そうなるのだろう。遊女が権力者から「賎民」と呼ばれていても、それは遊女の品性が卑しい事を意味しない(まして女性一般が卑しい事など意味しない)。むしろ人を賎民呼ばわりする権力者の品性の卑しさを示すものかもしれぬ。それはともかく、彼ら遊行民が宮廷に出入りしていたのは、網野氏が主張するように天皇から「特権を与えられ保護されていた」からだろうか。そんな勅令が出された事実でもあるのだろうか。それは単に「遊び者の推参は世の習い」(『平家物語』)だからではないのか。推参とは、呼ばれもしないのに訪問する事をいう。それが「世の習い」というからには、社会的慣習と考えられていたのではないか。白拍子は武家屋敷にも推参しているが、それは武士が天皇の勅命を尊重したためだろうか。単に、武士も天皇も社会的慣習に従っただけではないのだろうか。また、網野氏は遊女や白拍子が「内教坊と推定される部署を通じて朝廷に管理されていた」と主張するが、では、なぜ後白河法皇は乙前の歌を聞きたいと思った時に(『梁塵秘抄口伝集巻第十』)、内教坊を通じて出頭を求めなかったのか。遊女や白拍子は、宮廷で祭礼があると聞きつければ、勝手に「推参」してくるだけではないのか。その際、宮廷側の受入窓口の如きものは必要になろうし、それがおそらく内教坊であろう。また、淀川の警備を担当する検非違使が遊女から通行税の如き公事銭を取っていた可能性もあるが、これは検非違使が勝手に小遣い稼ぎとして行なっていたフシがある。いずれにせよ、「管理」と呼べるような事実は確認できないと思われる。
…いや、ちと話が横に逸れました。失礼。私は小谷野さんのような小物よりも、網野さんのような大物を批判したいので、つい。
さて、佐伯順子『遊女の文化史』では、仮名草子『露殿物語』を引いて、次のように述べている。
極楽世界の「迦陵頻伽」を思わせる声は近世に至っても失われず、舞姿は天人の舞いになぞらえた霓裳羽衣の曲かと見紛うばかり。露殿は天女の袖の内に包まれたがごとく、魂も消しとんで、ただ茫然とこの世の極楽を味わうのである。
遊女の舟遊びに、中世の人々は浄土の幻想を重ねた。目前に聖なる世界の遊びをくり広げてくれる遊女たちは、官能的、祝祭的宗教世界における女神であった。それが遊廓と言う舞台装置を得、太夫という神話的階級が成立することによって、一層文学の中に定着していったといえる。(P.87)
正直なところ、佐伯氏の文章はどこまで真面目に受け取ってよいのか量りかねる所があるが、もし大真面目に宗教性という事を言っているとすれば、やはり、それは少し違うように思われる。なぜなら、この『露殿物語』の末尾は次のように締め括られているからだ。
さて人間に遊ぶ事、遊女の道にしくはなし。されども今の世の遊君は、人の皮着る狐なり。化かされ給ふな、人々よ。御用心、と呼ばはる声の下よりも、はや又恋ひしくなりぬれば、老いたるは老のなぐさみといひ、若きは若き習ひとて、われとわが身に道理をつけて、親にかくれ、子にしのび、貴賎老若おしなべて、狂はぬ人こそなかりける。南無三宝、ちやせんやこのさ、ちやせんやこのさ。
これは、社会通念に配慮して道徳的教訓を付け加えたとも取れなくはないが、遊里での遊びを茶化す視点を持っているとも受け取れるのではなかろうか。こうした遊里文学に描かれる性愛とは、「神婚」そのものと言うよりは、「神婚のパロディー」と受け取った方がよいのではあるまいか。例えば、これに先行するお伽草子『猿源氏草紙』に出てくる言葉、
公家門跡などの御娘ならば、いかなる料簡にも及ぶべかりしが、これは流れをたつる川竹の、遊女なれば、大名高家よりほかへは出でず。
なども、一種の悪ふざけとして、わざと価値転倒してみせたものとも考えられる。ポイントは「川竹」だ。私はこれら文学作品の成立年代を考証するだけの知識を持っていないのだが、謡曲に「川竹の卑しき身…」といったフレーズが現れた後のものではなかろうか。ところで余談だが、なぜ「川竹」は「卑しい」のだろう。滝川政次郎『遊女の歴史』によれば、
私は朴の木を求めて深山幽谷を転々と移りあるくきじや(木地屋)、ロクロシ(轆轤師)も、サンカと同じく禾尺白丁の一種ではないかと考えている。日本には水辺に柳樹少なく、竹が多い。水辺に自生する無主物の柳の枝を採って柳器を作っていた白丁は、日本に渡って来てからは、水辺に自生する河竹(これも無主物)を採って、箕・ザル・茶筅等の竹器を作った。それがサンカである。禾尺白丁の一派は、深山に分け入って無主物の木材を採伐して、皿・盆・椀等の木器を作った。それがキジヤである。漂泊性を有すること、常民から婚姻を拒まれていることは、クグツもサンカもキジヤも同じである。クグツが通婚を嫌われていたことは、西宮の傀儡師笠井氏が通婚を嫌われていたという攝陽群談の記事によって推断することができる。(P.106)
としており、沖浦和光『竹の民俗誌』では竹取物語についての柳田国男の論考を引いて、
ところで、竹の中から黄金を見つけて一夜にして長者になった竹取翁は、もともとはどのような境遇で暮らしていたのだろうか。古代から中世にかけて、竹伐りの仕事はどのような階層が担っていたのか。この竹取翁を、貧賎の身分とみたのは柳田国男であった。
…(中略)…
柳田は、そもそも「竹取り」稼業は、田園から衣食の資料を得る普通の「百姓」ではなかったと言う。すなわち、一般戸籍に編戸された斑田農民ではなくて、大宝令にいう「山川藪沢之利」によって生計を立てていた貧しい賎民であった。そして、「野山にまじりて」は、当時としては「極貧」を意味すると断じたのである。(P.178)
と述べている。「川竹」とは無主無縁の存在であり、竹細工師はかなり昔から農耕民より低い身分とされたようだ。古くは縄文時代にも竹の籠に漆塗りを施したものが交易の道具に使われており、その頃は竹は神聖視されていたのではないかと思うが、大和朝廷が成立すると、畿内に移住させられた隼人が竹細工の仕事を与えられており、この頃から竹は卑賤視されていったのかもしれない。なお、中世の遊女が水上で営業していた事から、海洋民である隼人との関連も疑われるが、はっきりしない。沖浦和光『瀬戸内の民俗誌』では、遊女と住吉大社との縁が深い事や古要八幡社の傀儡人形を手掛りに、やはり海洋民である宗像氏との関連を示唆しているが、これもはっきりしない。
またまた話が横に逸れたが、『猿源氏草紙』が書かれた頃には既に<遊女=無主無縁=卑賤=川竹>という社会通念が成立していたのではないか。だとすれば、「川竹の遊女なれば」高貴な人しか相手にしないというのは、一種の諧謔、滑稽と見るべきかもしれない。このような悪ふざけの精神は、『梁塵秘抄』の次のような歌とも相通じるものがあると感じるのだが、いかがだろうか。
・隣の大子(おおいこ)がまつる神、頭の縮(しじ)け髪、ます髪額髪、指の先なる拙髪(てづつがみ)、足の裏なる歩きがみ。(402)
・頭に遊ぶは頭虱、項のくぼをぞ極めて食ふ、櫛の歯より天降る、麻小笥の蓋にて命終る。(410)
・八幡へ参らんと思へども、賀茂川桂川いと早し、あな早しな、淀のわたりに舟浮けて、迎へたまへ大菩薩。(261)
・拘尸那(くしな)城の後より、十の菩薩ぞ出でたまふ、博打の願を充てんとて、一六三とぞ現じたる。(367)
こうして見てくると、大真面目な宗教性でないのは確かなのだが、「大真面目な宗教性」を茶化してしまう悪ふざけの中に、何かしら「祝祭性」とか「非日常性」といったものは認められるように思う。言ってしまえば、ドンチャン騒ぎの祝祭性である。それを「聖性」と言っても間違いではないと思うが、≪賎≫と表裏一体の≪聖≫である。
そうした、言わば猥雑な祝祭性のようなものは、先に引いた『夢殿物語』の末尾のフレーズ「ちゃせんやこのさ」にも(この「茶筅」から「川竹」を連想するのは穿ち過ぎにしても)、また、『心中天の網島』の冒頭のフレーズ「さん上ばっからふんごろのっころちょっころふんごろで」にも、お座敷小唄のフレーズ「溶けて流れりゃみな同じ♪」にも、活き活きと宿っていると私は思う。
私なども「馴染の姫さまが卒業されました」という言い方をし、あるいは女神や天女に例えたりもするが、真面目な信仰の対象としている訳ではない。だがその一方で、本物の神々や仏よりも生身の風俗嬢のほうが「ありがたい」「ご利益がある」という気持ちも少しあるのだ。ギャンブル好きな人はよく風俗嬢の下の毛を「お守り」にする。実は私も数本持っていて、家宝として崇め奉っている。女王様の「聖水」や「黄金」も、好きな人にとっては有難いものなのだ。
遊里の馬鹿騒ぎの祝祭性は、≪聖≫に純化された皇室の公式行事の如きものとは性質が違う。かと言って、「ええじゃないか」のような素朴で野卑な民間信仰ほどの圧倒的な熱狂もなく、どこか醒めているように思う。夢をみながら「これは夢だ」と悟っているような感じだろうか。
このような私の捉え方からすると、佐伯氏が近松門左衛門の『心中天の網島』を取り上げて、そこに登場する近松の分身と思しき生臭坊主の念仏について語る次の言葉には、少し違和感を覚える。
青道心のふざけた念仏とはいえ椀久狂乱の道行を織りこんで悲恋を暗示するこの一鏈は、死すべき小春の鎮魂である。山姥が遊女にひかれて現われたごとく、小春の死の祝祭の女神としての運命に同調して「一丁目から なまいだ坊主が 転合念仏して来る」のだった。(P.197)
「ふざけた念仏とはいえ」ではなく、「ふざけた念仏だからこそ」なのではないか。このお茶らけた不真面目な念仏こそが、色道に惑う女と男の鎮魂には相応しいというべきではないか。茶化してはいるが、決して上から見下して馬鹿にしているのではない。近松=生臭坊主の視点は、色道に惑い地獄に落ちる二人よりも、なお低い所にあるからだ。そしてまた、
したがって、遊女も金銭も、聖であり賎である両義的性格をわかちあっている。「いかな吾妻殿でも 太夫さまでも ひつきやう値段の高い惣嫁ぢやないか」(『山崎与治兵衛寿の門松』)と言われ、「傾城は売物買物」といわれる時は、遊女と金銭の双方が侮辱されている一方、富も遊女との逢瀬も、人々の憧れの的となっているわけである。
金銭が心中劇の契機となるのは、決して「下賎」でも「特殊」でもなく、遊女の死のエロス的祝祭性を支える要因なのである。(P.194)
しかし「下賎」という要素もまた、祝祭性を支えているのではないか。遊廓という空間は、遊蕩にふける道楽息子が「殿様」として扱われ、貧しい農村から売られてきた娘が「姫君」として扱われる、作り事の世界だ。その哀しさと可笑しさを、遊里文芸の作者たちは皆、どこかで意識しているように思える。それでいて、思い切り遊んでみせる。描かれる男も女も滑稽だが、それを書いてる作者はもっと滑稽だという意識が、作者自身にある。その馬鹿馬鹿しさも含めて「祝祭」なのだと思う。
つまり私から見ると、性の祝祭性であれ死の祝祭性であれ、そこから≪聖≫だけを取り出して≪賎≫を削ぎ落としてしまう佐伯氏の論は、佐伯氏自身が批判する「確かに彼女たちは売春もした、しかし文化的貢献もしたのだ」という解釈(P.242)と、どこか似通った誤りを犯してしまっているように思えてならない。
そもそも、なぜ遊廓という空間が作り出されたのだろう。
中世の後半、遍歴・遊行の芸能民たちの社会的地位に何か異変が起こった。網野善彦氏に言わせれば、それまで「聖」視されていたものが突然「賎」視されたという事になるのだが、私としては釈然としない。これは被差別部落の成立にも関連する日本史上の大問題であり、とうてい私の理解は行き届かないのだが、ひとまず、沖浦和光/宮田登『ケガレ 差別思想の深層』所収の沖浦氏の論考で説かれる、次のような見方が妥当だと考えたい。
遊女・傀儡子など、漂泊の遊芸の民の歌謡を集めた『梁塵秘抄』が、後白河法皇(1127~92)によって編まれたのは十二世紀後半でした。そのころは、法皇と遊女・乙前との人間的な交情にみられるように、貴人たちと卑賤視された遊芸民との間にはまだ絶対的な壁はありませんでした。
しかし、密教と神道を通じて≪浄・穢≫観がしだいに広まるにつれて、古代からの≪貴・賎≫観にとって代わって、ケガレを不浄とみる思想がしだいに広がっていきます。
…(中略)…
こうなってくると、死穢・産穢・血穢などにまとわりつかれた<賎>の世界は、<貴>はもちろんのこと、<俗>界からもしだいに隔離されていくようになります。ケガレの伝播を恐れたのです。(P.60)
毛皮を剥いで皮革を作る賎民こそ、宗教が成立する以前からのアニミズム的神事を執り行える呪能の持ち主とみなされた時代があったのです。
しかし、そのような<聖>性の痕跡は、ケガレを不浄とみる思想が普遍化するにつれてしだいに消えていきました。近世に入ると、ハレの日の門付芸にしても、予祝行事ではあるが、他方では窮民たちの「乞食所行」とみなされるようになりました。(P.67)
本来ならば、江口・神埼の遊女や、宿々の傀儡子たちの後身は、夜鷹や惣嫁や辻君であり、舟饅頭や「おちょろ舟」のハシリカネであり、山猫や売り比丘尼であるはずだ。ところが、これらの女たちは皆、江戸幕府からは「売女(ばいた)」と呼ばれる。そして、公許遊廓の女郎だけが「遊女」と呼ばれるのである。これは奇妙ではないか。なぜ遊行しない女が「遊女」で、遊行する女が「遊女」ではないのか。
しだいに「不浄」視され忌避されるようになった遊行の民との差別化を図るためにこそ、遊廓は必要とされたのではないだろうか。しかも、まだ「聖でもあった」遊女たちの伝説の後継者に、「遊行しない遊女」を指名してまで…。近世の遊里文芸が、「歌舞の菩薩」といった美辞麗句を並べ立てて傾城を誉め称えるのも、そのためだったのではないだろうか?
だとすれば、佐伯氏の次の言葉はどうだろう。
もちろん、ここで主人公の一目惚れしたクララなる娼婦が、娼婦の中で最下級のクラスに属する女であったということはある。しかし、やはり最下級の私娼である夜鷹が、高尾太夫を前に懇々と色道の何たるかを説く洒落本が存在する。
そもそも夜鷹の遊びといふは、誠に色道の真をつねとし、欲をはなれ賎しき事なし。(『跖婦人伝』)
格子女郎の妹と高尾太夫の二人に向かって夜鷹のせきは誇らかに説きはじめ、「正直なる心を以て、男と女のまじはりすれば、こゝが色道の根元にして、ちと洒落才ことながら陰陽自然の色道なり」と、虚飾に包まれた太夫の生活を批判する。かくして色道の極意を説く彼女は「神色容貌」を輝かせ、「江口は誠に普賢菩薩の化現なり。跖もまた察するに、鼻欠地蔵の権化なるべし」と讃えられるのである。性的交渉が色道哲学に裏うちされている時代は、婬を売ることは必ずしも軽蔑に直結しなかった。「鼻欠地蔵」などという表現や、「跖婦人伝」という老荘思想のパロディを狙った題名をみれば、滑稽がねらわれているのは確かなのだが、せきの力強い口吻からは、当時の「色道」の力がそのまま伝わってくるのである。(P.228)
この『跖婦人伝』はパロディーとして面白く、私は大好きなのだが、これが当時の夜鷹の実態を表していないのはもちろん、当時の遊び人のイメージや願望をすら表してはいないだろう。ここでの主題は遊廓の格式や、もったいぶった色道そのものを茶化す事であって、夜鷹は単に太夫を茶化すために引き合いに出されたに過ぎぬ。むしろ、これより半世紀ほど前に書かれたらしい『吉原徒然草』の次の一節のほうが、まだ実態を反映していよう。
二十二段 万の事は月見るにこそ
夜たかの能(よき)は、月夜に出るものなれ。…(中略)…仮粧は鼠壁(ねずみかべ)をあらそひて、燈灯(ちょうちん)を見れば心かなしく店下へ隠れ、人遠く行ば又出て、所々にまどひありきたるばかり、心のかなしき、此外はあらじ。(岩波文庫版P.38)
佐伯氏は「同じ近世文学でも、廓のレポートという性格の濃い洒落本では、筆致がリアルなだけに、文化史的象徴度は薄くなっている」(P.95)と述べているが、ちと洒落才ことながら、私の印象は違う。私は洒落本を少ししか読んでおらず知ったかぶりの域を出ないが、どうも洒落本は虚構性が高いような感じがするのだ。
近世初期の仮名草子を読むと、現代の風俗遊びにも通じるものがある。実戦に応用できる。ところが、洒落本はあくまでも読み物であり、実際の遊びの参考にならないと思う。これは買春者としての単なる勘に過ぎないが…。別の言い方をすれば、洒落本をそのまま真似したら、それは既に野暮なのだ。おそらく洒落本というのは、書いてる奴だけが粋なのだと思う。
ともあれ、なぜか洒落本は遊廓や太夫をあまり美化しなくなった。もっぱら茶化すようになった。その理由については私なりに考える事が無いでもないが、また長くなるので、ひとまず本題に戻ろう。佐伯氏が『遊女の文化史』の序章で述べている次の言葉、
しかし、自ら遊ぶ女として、聖なる力を宿していた遊女たちは、やがて遊郭の中に囲いこまれ、さげすみと憧憬というアンビバレントな社会感情を身に受けつつ、ついには遊芸と売淫との分離によって、もっぱら前者を担う「文化」人と、後者に専念する娼婦へと二極分解してゆく……この変貌の過程はそのまま、人々が「神遊び」の背後に認めていた「聖なるもの」を見失い、快楽のみを独立して求めたゆえに、「遊び」の意味内容から「聖」が脱落して、低俗な性と高尚な文化、という価値観として正反対の概念が生ずる様相を呈しているのである。(P.4)
この問題意識そのものは、とても重要な点を突いていると私は思う。それだけに、本論の中でその「二極分解」のプロセスをしっかりと追いきれていない感があるのは、非常に残念に思う。
さて、やっと本題です。佐伯氏に対する貴方の批判は、以下の点において不当なものであると考えます。
(1) 「中世の遊女神聖論を近世に持ち込むことはできない」のか
ここまで述べてきた事は、あくまでも私の考え方、それも拙い素人考えに過ぎません。まるで間違っているかもしれないし、他にも様々な見解があるでしょう。しかし、様々な見解があるという点が重要です。「神聖」とか「聖性」というのが何を意味するのか、その点を論じてからでなければ、それを「近世に持ち込めるかどうか」を判断できないと思います。そして、おそらく貴方は「遊女神聖論」について定見を持っていないのでしょう。
学術的にも、中世以前の遊女が持っていたとされる巫女性を近世の遊郭にまで持ち込むのは強引で、フェミニストでもなく、むしろ伝統的な遊女論の趣きのある大和岩雄の『遊女と天皇』(白水社)さえも、佐伯のこのやり方を「ついてゆけない」と評した。かつ、古代から中世までの遊女が神聖なものだったという議論じたいが、既に批判や議論の対象になっている。(P.37)
ご自分はどの説を支持してるんですか。貴方が言ってる事は要するに、「大和岩雄によれば遊女神聖論は近世には当てはまらないらしい。他に、遊女神聖論そのものを批判する説もあるらしい。どっちにせよ、近世の遊女は神聖ではない」という事ですよね。つまり貴方にとっては、「江戸幻想派」とやらを叩く材料が得られさえすれば何でもいいのでしょう。それをご自分では「学問」だと思っておられるのでしょうか。
(2) なぜ「人身売買」「悲惨な境遇」を持ち出す必要があるのか
「遊女神聖論が成立するか」という議論と「女郎の境遇の悲惨さ」とは別問題です。例えば「悲惨だからこそ悲劇のヒロインとして神格化された」といった見方もできなくはないからです。「そんな混同はしていない、ちゃんと読め」と反論する前に次の箇所をご確認下さいね。「私は女郎の悲惨さを知ってしまった」ゆえに「神聖性など認められない」という発想をされています。
十年前のフェミニズムは、売春を、男による女の搾取としてほぼ全面的に否定していた。それが今では、「性的自己決定権」という言葉で、自由意志による売春は容認し、労働者として権利を保護していくべきではないかという方向へと転換しつつあるのである。 しかし、後者は、現代の、自由意志で売春を行なう女性の話であって、近世から明治・大正・昭和初期の娼婦が、人身売買による奴隷制の産物であることに変わりはなく、そこに「聖なるものとしての性」などを見て取ろうとする佐伯の姿勢が、かつて佐伯との対談で井上章一が的確に述べたように、「明るい面を理想化しすぎ」るのは今でも変わらない。(P.37)
最初の本はほとんど書評してもらえなかったが、唯一好意的な書評をしてくれたのは佐伯さんであり、その後も私は数多くのことを佐伯さんに学び、刺激を受けた。そういう人たちに叛旗を翻すなど、鬼畜生のすることだ。だが、吉原の女郎の平均寿命が二十三歳だったという過酷な現実や、徳川後期文藝の女郎への眼差しの実態を知ってしまった私には、近世の女郎が「歌舞の菩薩」として崇められていたなどという、恣意的な引用から構成された説を容認するわけにはいかない。(P.78)
また、歴史的事実を元に批判するのであれば、ちゃんとした歴史学者の研究成果を紹介されては如何ですか。例えば、曽根ひろみ『娼婦と近世社会』では、丁寧に史料にあたった上で、次のように述べています。
それらの史料に登場する私娼たちの現実は、性を共有される「色恋の菩薩」「色恋の女神」などという、文芸作品の中で美化されてとらえられる近世の遊女像と大きく隔たっていると言わねばならない。
この曽根氏の論考の初出は1990年です。貴方が「女郎の平均寿命」云々などという小学生レベルの話をしなくても、ちゃんと史料にもとづいて娼婦の境遇を論じ、佐伯氏を批判している歴史学者はいるのです。そのような、まともな歴史家の記述を引用すればいいのに、何故そうしないのですか。
もしかすると、「佐伯に対して、近世を専攻する歴史学者から、佐伯が依拠する文学作品では遊女は理想化されているかもしれないが、現実は悲惨なものだったという反論が寄せられもした」(P.38)というのが曽根氏の論考を指しているのでしょうか。だとしたら、なぜちゃんと名前をあげて内容を紹介しないのでしょう。曽根氏が廃娼運動の限界を批判しているのが気に食わないのですか?
(3) なぜ文学の領域で丁寧な議論ができないのか
よく知りもしない歴史的事実を論拠にするから墓穴を掘るのですよ。ご専門のはずの文学の領域で、やる事は沢山あるでしょうに。先ほど私も拙いながら、『露殿物語』や『猿源氏草紙』について「そんなに真面目なものではなかろう」という話をしてみました。また、滝川政次郎『遊行婦女・傀儡女・遊女』では次のように述べています。
いかに衆生済度の方便とは申しながら、遊女が菩薩の化身というのは、ちとひど過ぎる。
遊 女 と は あ ん ま り 派 手 な 化 身 な り
現 じ や う こ そ あ る べ き に 遊 女 な り
は、この僧徒の方便を非難した柳句であり、
菩 薩 さ ま 凡 夫 へ 向 き の よ い 済 度
凡 人 へ 菩 薩 の 済 度 も つ て こ い
二 十 五 の う ち に 傾 城 一 人 見 え
う ら に 来 て 聞 け ば お と と ひ 象 に 乗 り
は、この話を茶化した柳句である。遊女を歌舞の菩薩と呼んだり、二人禿を随えた花魁を三尊来迎といったりするのは、みなこの話に源を発しているようである。
緋 縮 緬 け だ し 菩 薩 の 済 度 な り
は、蓋しを蹴出しに利かせたもの、
今 ど き の 傾 城 ク ゲ ン 菩 薩 な り
は、普賢(ふげん)を苦患(くげん)ともぢったものである。
饅 頭 を 普 賢 も 象 に 度 々 見 ら れ
こうなっては、済度も何もあったものではない。(P.109)
法制史が専門の滝川氏が、こういう仕事をしてるのです。貴方にできない筈はないでしょう。それとも、できないのでしょうか。とりあえず、落語も大事でしょうけど川柳なども研究されてみては如何でしょうか。なお、貴方が「女郎への虐待」を示す文学作品として挙げておられる『傾城買二筋道』に対する貴方の解釈には疑問があります。これは重要な点ですので、節を改めて論じます。
(4) なぜ佐伯氏の人柄や私生活を持ち出すのか
貴方は『江戸幻想批判』の中で次のように述べています。
上野[千鶴子]については前にも書いたことだが、佐伯[順子]もまた、近代的な厳しい性道徳をもった家庭で育てられ、その桎梏を感じるところから、前近代の性的自由に対して妙な幻想を抱くに至ったのだろう。もっとも二人が違うのは、上野が敢然とこういう近代的純潔イデオロギーに反発して「奔放」な生き方をしているのに対して、佐伯が、私の知るかぎりではかなりカタイお嬢さんであり続けているということである。しかしこの二人が共通しているのは、自分が徳川時代に生まれていても、やっぱり武家の娘だったら似たような状態だったろうという想像をあまりしないことである。上野の場合、それが特にはなはだしい。つまりこの二人は、自分がたまたま中流の上の方の厳しい家庭に育ったことへの怨みを、「近代」そのものにぶつけているのだ。(P.88)
佐伯順子さんとは、歌舞伎の話や恋愛の話やストリップの話までした。彼女が人一倍、近代的な愛の理想に縛られた人であることも、なぜ自分がそうなったのか懸命に追及しようとしてああなってしまったことも、そんじょそこらのインタヴュアーだの新聞記者なんかより、私のほうがよく知っている。マスコミの要請でたくさんの雑文を書きながら、「中身がどんどん薄くなる」と自ら嘆いていたことも知っている。ただし、研究内容について私が異見してもほとんど聞き入れなかったけれど。(P.205)
ここでの貴方の発言は、名誉毀損罪に該当します。また、「カタイお嬢さん」云々という発言はセクシャル・ハラスメントにあたるのではないかと考えます。
【刑法230条(名誉毀損)】 公然と事実を摘示し、人の名誉を毀損した者は、その事実の有無にかかわらず、三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する。
?@ まず、本条にいう「公然と」とは、「不特定または多数人が知ることができる状態」をいい、実際に貴方の著書が売れたかどうか、多数人に読まれたかどうかを問いません。
?A 次に、ここでいう「事実の摘示」には著書などで公開されている情報は含みませんが、「どのような家庭で育ったか」「私生活において奔放な生き方をしているかどうか」といった個人的に知り得た情報の開示は、「事実の摘示」にあたります。その事実が真実であるか虚偽であるかは問いません。
?B また、これらの事実の摘示は、上野・佐伯両氏の学問上の問題意識が私怨から生じたものであるという主張と結び付けられており、両氏の学者としての名誉を毀損するものであると言えます。なお、ここでいう「名誉の毀損」とは「人の社会的評価を害するおそれのある状態を発生させること」をいい、実際に貴方の発言によって社会的評価が害されたかどうかを問わないというのが通説・判例です。
?C よって、上記の貴方の発言は刑法230条の要件を満たすものです。
?D ただし、名誉毀損罪は親告罪とされています(刑法232条)。おそらく佐伯氏も上野氏も貴方を告訴する意思はないのでしょう。貴方は、今なお処罰されず社会的制裁をも受けずに済んでいる事について、佐伯・上野両氏の温情に感謝すべきですよ。
※ 貴方は絶望書店主人氏に対し、「『蛆蟲以下の唾棄すべき連中であります。』などという表現は立派に刑法上の名誉毀損罪を構成いたしますよ」と言っておられたようですが、ここでの絶望書店主人氏の発言は刑法230条にいう「事実の摘示」には該当しません。また、特定の人を名指したものでないため、同条の「人の名誉を毀損し」に該当しません。よって、名誉毀損罪は成立しません。知りもしない法律の話など持ち出さない方がよろしい。
さて、話を『遊女の文化史』に戻しますが、先に述べたように私は佐伯氏の「巫女が遊女に『転身』したという発想の誤り」「自ら遊ぶ女であった遊女が遊廓の中に囲い込まれ、遊芸と売淫との分離によって、もっぱら前者を担う文化人と、後者に専念する娼婦へと二極分解してゆく」という問題提起は重要なものであると思っています。それだけに、本論において「遊芸と売淫との分離」「二極分解」の過程がしっかりと論じられていないのは残念であると考えます。
ところが、貴方の佐伯氏に対する批判は、全くの誤りとまでは言えないにせよ余りにも粗雑であり、本質を突いていないだけでなく、私的に知り得た情報まで持ち出して執拗な人格攻撃を行なうものであります。そのような目に遭えば佐伯氏ならずとも真面目に反論するよりは貴方との関り合いを避けるでしょうし、この問題に関心のある他の論者もまた、貴方から個人攻撃を受ける事を恐れて参戦を見合わせるかもしれません。恐らくは、そのような事態が実際に起こっているのではないかと懸念します。
大切なのは佐伯氏の論に対する「きちんとした批判」であり、そのために貴方の存在は、障害であり、迷惑であり、邪魔なのです。
私は文学については全くの素人で(歴史についても素人ですが)、遊里文学に限定しても数えるほどしか読んでおりません。しかし敢えて浅学非才を顧みず述べさせて頂きます。貴方の『江戸幻想批判』によると、
「現代の価値観」云々については後で改めて触れるとして、私なりにこの作品を解釈してみます。
さて、一重の心理を上のように解するとして、その後の展開を見てみましょう。
しかし、指切りを「読み物の中だけの話」と見るにせよ、ここで少々疑問が残る。
ところで、貴方は『江戸幻想批判』で自信たっぷりに述べておられますね。
面白紛れに迎へさしやんす我が身の事なれば、秋風がたつまい物ならず。其時はまた今の御内儀さまの通りでござんす。棄てらるゝ我身よりは其方さまを、浮気らしういひましよ。
では、「印問答」(岩波文庫版P.39)の話に戻りましょう。そもそも、この話は「正論」を説いたものではありません。
女郎が一般的に望む事は、「誰でもいいから身請けされたい」ではなく、「惚れた男、好きになれる男に身請けされたい」であろうと私は考えます。
近松門左衛門『心中天の網島』では、新地の女郎、小春が、独身で金持ちだが嫌味な太兵衛に身請けされるのを拒み、妻子持ちで軟弱だが優しい男、治兵衛と心中します。ところが貴方の『江戸幻想批判』によれば、
と述べていますが、このような見方を否定するだけの論拠を貴方は持っておられるのでしょうか。また貴方に言わせれば、
近松が美化したのは、「死」ではなく、不本意な生き方を拒否する「心意気」です。
次に、田中優子『江戸の恋』について愚見を述べます。この本で田中氏は次のように書かれています。
あるいは、そういう物を自分で書けばよろしい。「これこそが江戸の遊女の実像だ!」という物をね。田中氏や佐伯氏を叩いているだけの本より、ずっと売れますよ。
もしくは、田中氏が言うように当時の人が「そこに夢を見ようとした」理由を論じてみてはどうですか。「江戸遊里文学は、こういう悲惨な状況の下で描かれた夢物語に過ぎないのだ!」という風に。
先に引用した『江戸の恋』の「すべての遊女は廓言葉を話せるようになり、その結果、出身地がわからなくなる」という記述について、西山松之助『くるわ』では、次のように説かれています。
なお、近代の被差別部落については高橋貞樹『被差別部落一千年史』に次のように書かれています。
結局、飯盛女は商品としての価値があればいいわけで、飯盛女の雇傭形態は「性労働」とはいうものの、心身を呪縛された「性奴隷」「販売商品」であったといわざるをえないだろう。(P.179)
ちなみに、牧英正『人身売買』は、次のように締め括られています。
松沢氏がどう答えるか知りませんが、私の答えは、もちろん「YES」です。私は「人身売買」イコール「悪」とは思いません。
あるいは、その遊女がその子の両親にお金を払ったら、「悪」になるのでしょうか。
元風俗嬢で作家の菜摘ひかる氏(故人)が「現役」時代に書いたホームページ上の日記をまとめた『恋は肉色』という本に、こんな話が出てきます。
それでも現役風俗嬢が江戸の太夫に憧れるとすれば、それは太夫の「強さ」に憧れるのです。
現代の風俗でも、夢を持って前向きに頑張っている風俗嬢が多くの客から支持されています。
続いて、「そのような境涯から娼婦たちを救おうとし、女郎屋の用心棒とも戦った山室がなぜ偽善者か」というご質問にお答えすると共に、関連する論点にも少し触れたいと思います。
しかし「売春」という行為そのものが蔑視の対象となったのは、やはり廃娼運動に一因があると思います。
於戯、年若之間、自雖過売身、色衰之後、以何送余命哉。(ああ、年の若い間は自ら身を売って世を過ごしているが、年をとり容色が衰えてからは、いかにして余命を送るのか)
ところで余談だが、なぜ『新猿楽記』にはこんな妙な事が書かれているのだろう。これより先に書かれたはずの大江以言(955-1010)『見遊女序』には、次のような描写があるではないか。
少者脂粉歌咲、以蕩人心、老者担笠擁棹、以為己任。(若い者は化粧を施して歌い、男たちの心をとろけさせ、年老いた者は若い遊女に笠をさしかけ舟の棹を取って、自らの勤めとしている)
・京より下りしとけのほる、島江に屋建てゝ住みしかど、そも知らず、打捨てて、いかに祭れば百太夫、験なくて、花のみやこへ帰すらん。(375)
さて、近世になると「色を売る」という行為への蔑視は現れるでしょうか。
ただし、そのような武家の価値観が次第に庶民大衆にも広がって行き、それがやがて娼婦稼業への蔑視が成立するための下地となったという事は、十分に考えられると思います。宇佐美ミサ子『宿場と飯盛女』によると、
基督教系の廃娼運動家が「貞操を売る行為自体が罪深い事だ」と主張して初めて、売色に対する漠然とした嫌悪感に、形が与えられたのだと私は考えます。
公娼制度について、貴方は『江戸幻想批判』で次のように述べています。
娼妓稼業そのものが公認を要するとされた近代公娼制度こそが、「公娼」制度と呼ばれるに相応しいと私は考えます。
その上で私は、廃娼運動の如き「上からの救済」というものは、「救済」される側にとっては必ずしもプラスにならない、せいぜいトントンか、あるいは廃娼運動があった事によって「より悪くなった」と考えています。
まず明治の初頭、娼妓解放令が出た直後の状況を見てみましょう。牧英正『人身売買』によると、
では次に、明治33年の状況を、朝日新聞社編『朝日新聞の記事にみる 奇談 珍談 巷談 [明治]』で見てみましょう。
◆"自由廃業したのはよいがナントシヨ"(明33.11.29)
明治33年1月から約半年間、毎日新聞に連載された『社会外之社会』(谷川健一編『近代民衆の記録3 娼婦』所収)から、英備生記「布哇(ハワイ)に於ける我姉妹の惨状」という文章を見てみましょう。
伊藤野枝が矯風会を批判した文章「傲慢狭量にして不徹底なる日本婦人の公共事業について」(堀場清子編『「青鞜」女性解放論集』所収)に見られる次の言葉に、私は全く同感です。
売買春肯定派がよく槍玉にあげる神近市子の『サヨナラ人間売買』の一文を確認しておきます。
私共は、いろいろ各方面の方々の教えを乞うた。その中で、とくに私共の考えの基礎になったのは、左のような事柄だった。
「2」については既に述べたように、はっきりと売春という行為そのものが悪と見做されるようになったのは、やはり近代になってからであり、これを「日本の伝統」とまでは言えないと考えます。
「3」についても、なぜ反省や教育を必要とするのが売春婦であって神近ではないと頭から決め付けるのか。なぜ神近は、売春婦より自分の方が頭がいいと信じて疑わないのだろう。
では最後に、『恋愛の超克』の次の主張を検討して、終わりにしましょう。
その二つの命題を、貴方自身が「真である」と思っているのかどうか知りませんが、もちろん二つとも「偽」です。
それどころか、「売春者を差別してはいけない」と言いながら、売春者を差別する事も可能です。