書評・宮台真司『終わりなき日常を生きろ』(筑摩書房)

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 宮台真司は、今どきの「論壇」まわりでは福田和也と並ぶ“いじめられっ子”らしい。

 だが、僕は案外買っている。しなびたお勉強屋ばかりで世間離れした言葉を弄して恥じないこの国の社会学者の中で、動機はともあれひとまず身体ごと現実と取っ組みあわねばとまなじり決し、よせばいいのにブルセラ女子高生に突撃して七転八倒した、その馬鹿丸出しの純朴さと誠実さとは最低限すくいあげねばならないと思うからだ。

 ただそれは、同じく純朴さと誠実さの果てに「昭和維新」に到達したかつての青年将校たちにもどこか似ている。その程度に“青い”のだ。「朝生」オヤジたちに眼の仇にされる理由もひとつはそのへんだろうが、とは言え、そのような“青さ”を許容しながら可能性の相において読み、育んでゆく度量も今どきの「論壇」の世間になくなっていた、敢えて弁護的に言えばそこが彼の不幸だろう。

 オウム真理教にまつわる一連の事件の引き出した状況に呼応した一冊。“デカい一発”のこなくなった状況を耐えながら生きる知恵を持て、と説教する際の「まったり」というもの言いだけひとり歩きしてしまった観もあるが、大枠は極めて穏当な常識論であり、その限りで異論はない。

 もとをただせばシステム論者である。ということは、高みに立った操作的視点が本領なわけで、身構えがどこか官僚的政策的なのも当たり前。そこらへんは、一時期もてはやされた相関社会科学専攻も含めた東大駒場プランドの「知性」たるゆえんだろうが、他の可愛げのない手合いや坂元新之輔てなバグに比べりゃ、同じ「東大クン」でもこの宮台の“青さ”の方が、世間と関わろうとするだけはるかにましってもんだ。

 しかし、彼が葵の印篭にするブルセラ女子高生とは、浅羽通明が言うように「昔からそんなもの」であるような、言わば「常民」に過ぎない。彼女らに典型的だと言う「まったり」生きる知恵を称揚する彼自身、旧来の知識人パラダイムそのままに「民衆」を幻視する構造にはまり込んでいるかも知れないことをどこまで相対化し方法化するか。同時にまた、そのような「まったり」の生をつむいできた歴史性への視線をこの先どう取り込んでゆくか。「生きろ」とうっかり命令形で言ってしまう、その啓蒙的な姿勢に対する世間の違和感を乗り超える凄みをつけるためには、そのへんが当面の課題だろう。

*1:巣鴨にあった頃の外語大にあたしの後から着任してきて、あたしより先に当時の都立大に「栄転」(だろう、やっぱし)なさったブルセラ様だが、この前後あたりから一気に(゚∀゚)アヒャヒャヒャヒャ全開になっていったのはあれ、なんでだったんだろ。確かこの頃、対バンっぽいイベントで一度だけ同席したこともあったはずだけれども