貫いた「敵を愛するな」 B29搭乗の元米兵
2020年8月15日 05時00分 (8月15日 05時01分更新)
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米戦略爆撃機B29の搭乗兵として、一九四五年五月の名古屋空襲などに出撃したデービッド・フィッシャーさん(94)。終戦までの三カ月間で、岡崎(愛知県)、豊川(同)、半田(同)や岐阜など地方都市を中心に出撃回数は二十回以上に及んだ。まだ十九歳だった当時の心境を聞いた。
−各地への空襲で記憶に残っていることは
岐阜への空襲では夜間に焼夷弾(しょういだん)で市街地を攻撃した。日本では数多くの民家が(軍需品の)製造拠点になっている、と私たちは聞かされていた。民家や建物は木造が多く、燃えやすいことも知っていた。
岡崎も夜間、焼夷弾を落とした。対空砲火や敵機による迎撃はなかった。搭乗機のプロペラ四基のうち一基がオーバーヒートし、止めざるを得なかった。B29ではよくあった。空襲時の問題は、敵の迎撃よりもエンジンのオーバーヒートの方が多かった。
豊川は日中で、日本海軍の工廠(こうしょう)が標的。日中の空襲の特徴は、編隊を組んで攻撃する。本州沿岸沖の集合地点まで、各機が別々に飛んでいく。到達したら円を描きながら飛び、各機が定められた位置につ...
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