3 『邂逅、緊張、そしてチキン南蛮』
「穂村ちゃんすまねぇ!」
「咲良ごめん!」
食堂に入ってみると既に人でごった返しており、席の確保に失敗した工藤と舞野の
「混んでるし仕方ないよ」
「穂村ちゃん優しい!」
「工藤くん席とれなかったんだから、これからの人生呼吸しないでもらえるかな?」
サラッと穂村が死刑宣告をしていたような気がするがそれはいつものことなのでどうでもいいとして……Wあさひが確保したのは長テーブルの横並びの3席だった。
このままだと誰かひとりが適当な場所に座ることになる。
何となくそういうのは俺の役目な気がしたので、日替わりのチキン南蛮定食を持って辺りを見回した。
程なくして外向きのカウンター席がひとつだけ空いているのを見つけ「あそこのカウンター席空いてるから俺行ってくるわ」と伝えてから、返事を待たずに移動を開始した。
「弓削~! すまねぇ!」
「ごめんね弓削くん!」
「弓削くん本当にチキン……」
謝罪、謝罪、からのおそらく罵倒。
こんな状況だというのに穂村は毒舌を吐かないと死ぬのだろうか?
しかもこの場合の「チキン」は俺がビビリであることを指しているのか、それともチキン南蛮定食を見て「本当にチキン好きなのね……まるで共食い……ぷーくすくす」的な意味なのか……。
……どっちにしろドS的思考であることに変わりわないが。
そんなことより今は目の前の食事に集中しよう。
立ち上る湯気には唾液分泌を促す香ばしい匂いが充満していた。
チキン好きなら共感してもらえるだろうが、もうこれだけで美味い。
やや大きめの鶏もも肉は南蛮漬けされた衣によってしっとりと黄金色に輝き、その上にはみじん切りされたゆでタマゴが入った特製のタルタルソースがかかっている。
思わず唾を飲み込んだ。
箸を手に取り「いただきます」とひとり呟いたところで横から声を掛けられた。
――えぇい! 俺は今この美味そうなチキン南蛮を食べることで頭がいっぱいだというのに! 誰だよふざけ……、
「――お隣よろしいかしら?」
聞き間違えることの無い透き通るような凛々しい声音。
顔を向けて見るまでも無く声の主が誰なのか分かった。
だからこそ俺は考えるよりも早く返答を口にしていた。
「も、もちろんです! どうぞ」
「ありがとう」
ゆっくりと顔を向けると隣の席に目の覚めるような美女が座っていた。
言うまでも無く
頭のてっぺんから指の先まで鳥肌が立った。……さすが俺はチキンなだけある。
魚介たっぷりのペスカトーレとサラダが載ったトレーをテーブルに置いた瀬能先輩が、こちらを見た。
感情が一切読めない不思議な瞳は澄んでいて、長時間目を合わせていたら吸い込まれそうなほど美しかった。
半ば意識を吸い込まれ呆然と瀬能先輩を見つめていたら、気を使ってくれたのか会話の口火を切ってくれた。
「入社式から1か月ぶりくらいかしら?」
「は、はいっ! そうです!」
ガチガチに緊張しているのが自分でも分かった。
下手したら新入社員代表の答辞をやった時よりも身体が強張っている気がする。
何も気の利いたことが言えず、せっかく瀬能先輩が話を振ってくれたというのに上手く言葉にならない。
こんなことは生まれて初めてのことだった。
聞きたいこと、話してみたいことは色々あるのに口だけが上手く動いてくれないのだ。
「どうしてそんなに緊張しているの?」
俺がカチコチに固まっていることがバレてしまったらしく、瀬能先輩が真剣な表情で問いかけてきた。
「あっ、いや……ちょっと自分でも分かりません」
「そう……確か今日の午後から辞令交付式だから緊張しているのね」
素直に告げたら瀬能先輩が冷静に自己完結してくれた。
……瀬能先輩が言うように今日は午後から正式な配属先が発表される辞令交付式があるのだ。
研修期間も残り数日。
今後は全新入社員の合同研修ではなく、各自配属先での実務的な研修に移る。
率直に言うとどの部署に配属されるかに対しては少なからず緊張しているが、今のこの状態はそれが原因ではない。
「それもありますが……瀬能先輩がカッコよかったので緊張しているんだと思います」
何言ってんの俺!? 何口走っちゃってんだよ俺!!
うまく思考回路が働かず、つい思っていたことが口から飛び出していった。
初めて入社式で瀬能先輩を見た時、容姿もさることながらその凛とした振る舞いや俺を勇気付けてくれた優しさに、社会人としてのカッコよさを感じていたのだ。
男としてどうなのか分からないが、そのカッコよさに惚れた。
人としても、社会人としても、お手本にしたいと思ってしまったのだ。
……この緊張はそんな憧れの人を前にしたものだったようだ。
下手にあれこれと考えられない状況だからこそ、自分が感じでいたことが素直に理解できた。
「……カッコイイ? ……私が?」
「は、はい」
「そう……ありがとうね」
そう言って瀬能先輩は顔を正面に向けてしまった。
日差しの関係か分からないが、横から見える耳が少し赤みがかっているようにも見える。
……うわぁ。絶対変なやつだと思われた! ほぼ初対面みたいなもので「綺麗です」とか「美人です」とかならまだしも、「カッコよかった」って女性相手に言うことじゃないだろ!!
瀬能先輩が前を向いてくれたので、冷静になった俺はひとりで悶々とした。
考えるまでも無く自爆である。
まごうことなき自滅である。
どう考えても自業自得だ。
あれほどまでに楽しみにしていたはずのチキン南蛮だったのに、今は見ているだけで胸焼けしそうになってくる。
「初めてカッコイイと言われたわ」
サラダを一口食べた瀬能先輩がぼそりと独り言のように呟いた。
……でしょうね。
俺みたいなアホじゃない限り面と向かって言うような人はいないと思います。誰か俺を殺してくれ。
「その……すみませんでした」
「……どうして? 謝る必要なんてないでしょう?」
「いや、勝手なこと言ってご迷惑をおかけした気がするので」
ダサい。ダサすぎるぞ俺。
ビビリにも程があんだろ。
「迷惑だなんて思っていないわ。だって弓削くんは本心から言ってくれたのでしょう?」
「えぇ、まぁ……はい。本心から瀬能先輩のことは人としても、社会人としても、カッコイイと思ってます」
この際どうにでもなれ! もうヤケクソだった。
今更言ったことを撤回するのはありえない。
別に嘘を言ったわけでもないので、逆にちゃんと伝えることが誠実だと思った。
そんな俺の言葉を聞いた瀬能先輩はこちらに向き直った。
小さく「んっ」と咳払いをしてから、真っ直ぐに俺を見つめて一言。
「嬉しい」
ただそれだけ。
だが途轍もない破壊力を持った一言だった。
瀬能先輩の纏う雰囲気はどことなく柔らかくなった気がする。
――そして何よりも衝撃的だったのは表情だ。
俺の見間違いでなければ、ほんの僅かに微笑んでくれたような気がするのだ。
実際のところはどうか分からないが、それだけで俺は充分だった。
「早く食べないとせっかくのチキン南蛮が冷めてしまうわよ?」
まるで幻であったかのように一瞬でいつもの冷静沈着な瀬能先輩に戻ると、すぐに正面を向いてしまった。
そんな瀬能先輩の耳は、今度は間違いなく朱に染まっていた……。