日本が戦争に敗れて、きょうで75年である。
筆舌に尽くせぬ惨状を経て、この国は戦争の愚かさと平和の貴さを学んだ。
二度と過ちを繰り返さない。その誓いとともにあったのは、「民主主義の世の中」に変わるという国民の意識だった。
国に民が仕える国家主義ではなく、民が主権者として進路を決める民主社会へ。
その変革は、どこまで達せられただろうか。人々がそれぞれ等しく個人として尊重される世の中になっただろうか。
世界は折しもコロナ禍に直面し、人間の安全が問われている。そのなかで戦後日本の現在地はどこにあるのか考えたい。
■人間の自立を説く
広島港沖の瀬戸内海に浮かぶ人口約750人の似島(にのしま)。この小島の歴史は、近代日本がたどった浮沈を映している。
19世紀末の日清戦争で、日本は近代国家として初めて感染症の水際対策を迫られた。帰還兵の検疫・隔離のための施設がつくられたのが、似島だった。
大陸進出が広がるにつれ施設は拡充されたが、やがて対中、対米戦争へと突入。そのころには戦線が延びきり、検疫を受ける部隊はいなくなった。
敗戦の夏、8月6日。原爆に焼かれた1万人超が、空いていた検疫所に運ばれた。
「殺到してくる死に瀕(ひん)した真っ黒な人々に、せめて仰向けに寝る場をあたえることで精一杯であった」。軍医の錫村(すずむら)満が、島の惨劇を「似島原爆日誌」にそう書き残している。
似島を日本の検疫拠点にしたのは、明治・大正期の政治家、後藤新平である。医学で身を立て、開明的な発想で医療衛生の近代化に尽力した。
後藤が残した言葉に、「自治三訣(さんけつ)」がある。「人のお世話にならぬよう 人のお世話をするよう そして報いを求めぬよう」。国民の健康と人間の自立を尊んだ後藤は、自身の亡き後に日本がたどった戦争の果ての破局をどう見ただろうか。
■政治を見極めてこそ
「我々は戦争状態にある」とマクロン仏大統領が語れば、中国の習近平(シーチンピン)国家主席は「人民戦争だ」と民衆を鼓舞する。
ことしのコロナ禍を受け、一部の政治指導者は事態を戦争に例える発言をした。社会を不安や不満が覆うとき、政治家が勇ましい言葉で求心力を高めようとすることは珍しくない。
だがしかし、そんな時こそ、国民は神経を研ぎ澄まし、政治を冷静に見極める必要があることを、歴史は教えている。
ドイツ出身の哲学者ハンナ・アーレントは、「凡庸な悪」というべき平凡な人間の思考停止がナチスの大罪を支えた、と論じた。それは当時の日本にも通じるものだろう。
「これは大へんなことになったと思いながら、しかし一方ではなにがしかの解放感があった」。日米開戦での心境を、文芸春秋にいた池島信平は著書「雑誌記者」に書いている。
中国戦線に加え、先が見えぬ不安。戦争の無謀さを感じつつも、「頭を押さえられている鬱屈(うっくつ)した気持が一時に破れた」。
治安維持法などにより、言論が厳しく取り締まられた時代である。軍部が情報を操作し、朝日新聞を含むメディアは真実を伝えず、国民は多くを知らないまま一色に染まった。
個人を尊重する戦後民主主義の理念は、あの戦争から学んだ社会の安全装置なのである。
一人ひとりの意識が問われるのは、コロナ禍も同じだろう。感染拡大を防ぐうえで、ある程度の社会の統一行動が求められるのはやむをえないにしても、最終的に大切なのは個々の判断に基づく行動だ。
日本の検疫制度を築いた後藤のいう人間の自立と他者への思いやりは、いまも示唆的な意味を持つ。政府の最大の務めは、情緒的な言葉の発信ではなく、国民が自ら理解し行動するための情報開示と説明であろう。
■憲法に背向ける政権
いま世界では、多様さを認める自由社会と、画一性を強いる強権社会がある。米中「新冷戦」と呼ばれる覇権争いが起きている現実は嘆かわしい。
しかし、先行きが不透明な国際情勢にあっても、日本が自由と民主主義の基盤に立つ原則を曲げよ、という声はない。
日本国憲法は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにする」とし、「主権が国民に存する」と宣言した。不戦の誓いが民主主義と連結した戦後思想は、国民に浸透しているといえるだろう。
むしろ、背を向けているのは政府のほうではないか。安倍政権による国会軽視の数々。市民に必要な情報公開どころか、公文書の改ざんや隠蔽(いんぺい)にまで及んだ権力の乱用は、国民主権への冒涜(ぼうとく)というほかない。
戦争の記憶を継承し、新時代の難題に取り組みながら、問い続けていかねばならない。75年前、再出発した日本がめざした民主国家づくりは、どこまで実践されているか、と。
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