なるほど、同じ学生と言っても、昭和初年の「学生」は昨今のそれとは全く意味が違う。冗談ではなく今の大学院出の博士様ぐらいの感覚は一般にあったはずだ。
そういう“エラい”の代表のような学生が、これまた“エラい”の印である学生服に学生帽でもかぶってムラに入ってくる。もちろん、この「ムラ」というもの言いにもまた歴史がある。現在ではあまりその背景に広がる厖大な領域について意識しにくくなっているが、少なくとも赤松さんがそのように歩き始めた頃は、まだその「ムラ」というもの言いにふさわしいようなある意識や感覚のまとまり、濃密な場所についての自覚があり得た時期だ。
そういう意味では、「ムラ」と「学生」というのは、手術台の上でのミシンとこうもり傘の出会いほどではないにしても、やはり当時の感覚として、あまりちょくちょく現実に起こってしまっていいような取り合わせでもなかったのかも知れない。この「学生」はより広く、文字や文字に準ずるある意味の保存度の高いコミュニケーションの技術についてある程度以上の訓練を受け、その技術を身につけた人々、という具合に敷衍してもいいだろう。文字の高度熟練技術者としての「学生」と、その「学生」に必然的に宿ってしまうある意識のありよう。だからこそ、彼らも含めた初期の民俗学者たちは彼らの側と違う論理の宿る「ムラ」へと向かうことを、よけいに自らに課した。彼らはそこで彼ら自身の内側の現実と異なった世界の広がりを目の当たりにする。目の当たりにして、立ち止まる。それは困惑だったり、感動だったり、驚異だったり、憂鬱だったり、あるいはまたそれら全ての微妙な調合によって生まれるある気分だったりする。
ゆるやかな意味での「世間」に向かい合ってしまった時の知性というのは、案外そういうものなのだろう。だが、問題はそこから先、“そういうもの”のとりとめない草原を踏み越えて、なおその「世間」のとりとめなさをつぶさに凝視しようとする意志のありようを自分のものにできるかどうか、にかかっている。今でこそ「フィールド・ワーク」と、何やら横文字でカッコ良くひとくくりに言われる作業だけれども、その最も初発の可能性というのは、きっとこのような“そういうもの”の向こう側を志す知性にこそ、開かれるものだったはずだ。
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赤松さんは、そういう「世間」を凝視した。それはたとえば手始めに、ある限られたストックの中で縦横に使い回される日常のもの言いにはらまれる微細で厖大な“違い”について、自らの感覚を研ぎすませておくことでもあった。
「同じ言葉でもそれが同じ中身で使われとるかどうか、そんなもんちょっとよその土地からやってきたもんが尋ねたくらいでは、ほんまのとこはわからへんのですわ。たとえばの話、小作米を小作米とだけ言うて尋ねとるようではあかん。俺のとこではこない言うねんけどここらではどない言うねん、とこう尋ねる。そしたらそこの土地の言い方で向こうは言いよるわけだ。ここらでは口米や、とかね。はぁ、それやったらどこそこと一緒や、とか、もうそういう話になってくるとしめたもんで、そこでほんまの“はなし”が始まるわけです」
“はなし”を引き出す、というのは単に聞き上手というだけのことではない。そのようなさまざまな違いを内包しながらそこにある現実にゆっくりと身を併せてゆく、そのための技術や知恵が備わっているかどうかが問われることでもある。
「そら、そこらへんのことがわかってないもんじゃ話にならへん。ムラの成り立ちいうもんはそんなもんです。そんなとこにいきなり学生帽かぶったんが来て、教科書に載っとる質問そのまましたかて、まともに答えるわけあらへん。まして、農林省の役人が来たところで、肝心なことは絶対言わへんわな。知らん顔してますわ。適当に相手してええ加減なこと言うて、ムラのためにうまいこと言うたった、ということになる。ムラのためにならどんなアホなこと言うてもええんです。向こうの方は、ほんまのこと知りたいなら小作になって来んかい、となる」
ムラの内側でガッチリと固まった自衛の感覚。以前よく言われたような「共同体の抑圧」なんてのも、このような内と外についての分別の自覚にかかっている。では、同じようなことは今でもあるのだろうか。
「書いたもん読みますからね、今の人は。それがまた難しいんです。昔やったらまだ雑誌を読むなんてのは、まずおらん。何書いたって気づかいないからね。まして『旅と伝説』(当時の民俗学関係の半ば専門誌)なんて雑誌、誰も読まへん(笑)。むしろ、当時こっちが気づかいしたのは警保局ですわ。微妙なとこはみんな〇〇××で書かな、じきに“ちょっとこい”になる。今は逆に、こっちが書いたもんをムラの人でもどこかで読んどったりするわけでしょ。そっちの方がよっぽどこわい。考えたら当たり前なんやけど、それくらい教育が普及してからのムラいうのは変わってきてるんですわ」
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同じ「小作米」という言葉でも、その言葉の向こう側にある現実までもが常にきれいに整った同じ形をしているわけではない。そのちょっとした違い、微妙なズレに焦点を合わせてゆくコツを自分のものにすると、同じように歩き、そして眺めるまわりの風景についても、それまでと違う色あいや手ざわりを獲得するようになる。
「あれは昭和十年、十一年くらいやから、考えたら恐慌のまだすぐ後ですわ。山形の庄内あたりやったんですけどね、ムラ歩いてるといきなりおっさんが出てきて、娘買わへんか、言うんです。そんなもんカネあらへんわ、言うと、カネ出したる、言う。見たら十歳くらいの女の子ですわ。なんぼやねん、言うたら、十円や、言う。ちょっと大きなったら十二円。十五、六になったら三百円とか二百円になる。つまりこれは“商売”でけるかでけんかで値が違うんです。そやから子供やったら安い。十円ちゅうのは、そうやなぁ、今の百万円くらいですかな。それくらいで女の子が一人買えるわけです。もちろん人間一人のことですから安いことは安いけど、それから後、やっぱり食わさんならん。そやから、そんなもん買えるかいな、言うたら、いや、あんたは上野駅まで連れてってくれたらええねん、と。ここへ行ったらこういう男がおるから、そこへ渡してくれ、と。つまり阿片や何やと一緒、こっちは運び屋として声かけられとるわけですわ。なんでそんなことするかいうと、その頃は警察が駅や港にみな張っとるわけですわ。そやから私らみたいな、それこそ学生の恰好してたりちょっとした行商人みたいな風体のもんに頼みよる。あんたは十円出してくれたらええ、向こう連れて行ってくれたらそこで五十円運び賃くれる、言うんです。今、麻薬なんか台湾やタイなんかから入れてきとるでしょ。わたしらそんなん実際はわからへんけど、おそらくやり口はその頃とおんなじですわ」
その程度に人間の考えることはよく似ている、と赤松さんは言う。食べてゆけなくなる、その状態の切実さは時代も超えるし、社会のありようも超える、と考える。
「もちろん、村役場やなんかは当時、娘売るようなことする前にこっちに相談してくれ、言うてるんです。そのための窓口なんか結構もうけてるんですよ。そやけど実際に困っとるもんの立場からすれば、そんなもん相談したってクソの役にも立たへん、こっちはとにかくゼニが十円でも五円でも欲しいんやから、とこないなる。事実、一人売り飛ばせば確実に一人は口減らしできるわけでしょ。限られた条件の中であとの弟や子供食わせようと思たら、そうせなしゃあないんですわ」
だから、「娘を売る」と言っても、初等教育のくらいは終えてからのことだったろうと考える、そんな考証は信用しない。
「そんなもん、ほんまに困ったら娘になるまで置いとけますかいな。尋常小学校出るのが十二でしょ。食えんようになったらそこまでとても待てんのです。そやから七つ八つになったらすぐ売るんですわ。だいたい、当時の小作の子なんか学校なんて一週間に二日か三日しか通えへんでしょ。そやけど、その事実がみなちゃんと学校の出席簿に記録されとるかいうとそうやない。記録の上ではたいてい、全部きっちり出席してました、となってる。実際は帳簿と違うんです。そやから、学事統計くらいインチキなもんないですわ」
“書かれたもの”を無条件に確かなものにすることなく、あたりまえの眼で「貧しさ」の現実をゆっくり歩く速度で見る。たとえば、今ではテレビの時代劇でもあまり出てこなくなった稗飯についても、実際にどのようなものか、赤松さんはつぶさに見ている。
「稗飯いうとみなまずいと思てるでしょ。ところがムラに行って食べさせてもろたらこれが結構うまいんですわ。こんなもんのどこがまずいんや、と、そない思うんですわ。で、小作の家行って、稗飯ちゅうのはうまいなぁ、言うたら変な顔しよる。話をしてると、おまえどこで食べてん、言うから、どこそこの家や、て答えたら、わかった、もういっぺん食べさせたるさかい食べい、言われる。これが今度はまずいんですわ。朝炊きたての折りは米の飯みたいにねばってひっついとるんやけど、それが昼頃になったらとても食べられへん。お茶でも飲んで流し込まんととても食えんのです。これがほんまの稗飯やとしたら、ほしたらあの時食べた稗飯は何やったんや、と怪訝に思てると、おまえあれは餅米がまぜてあんねん、うまいはずや、と(笑)。ムラの中でも階層によってそれだけ違うんです。こっちは小作の家行って尋ねるからわかったんやけどね。そんなんせんでムラの中のそこそこの家だけで判断しとったら、同じ稗飯でも実際はいろいろあるちゅうのがわからんままですわ」
とは言え、日本中のムラが当時そのような状態だった、というわけでもない。それぞれの土地の事情というのもあれば、程度の違いというのがある。むしろ、極端な例は東北日本のムラにとりわけ特徴的に現われた現象だったという。
「同じムラでも西日本はそんなこと絶対ないですよ。まずムラの生産力が東北地方とは違いますから、そこまで追いつめられることがやはり少ない。そこらへんもまたムラによって違うんですわ。そやから“日本の農村とは……”とか大きな顔して言うたり書いたりしてる連中は、ほんまにそこまでムラの違いを見てから言うてんのかいな、と思いますな。僕ら確かに兵庫県は歩き尽くしたし、近畿地方の農村やったら大体見当つきますけど、それ以外になるとなかなかそんなにスパッと言い切られへん。そやからそんなに簡単に結論を出すちゅうなこと、なかなかでけんのですわ」