「エピソード記述」について分かりやすく解説する

近年教育、保育、看護、介護などの分野注目されている「エピソード記述」について、概要を説明します。

エピソード記述とは

エピソード記述について鯨岡*1(2005:21)*2は、「人の生のアクチュアリティを可能な限りあるがままに描き出す」ための手法だと述べています。

「アクチュアリティ(actuality)」というのは直訳すると現実性という意味ですが、ここでは「人の生き様に直接触れているところから得られる様々な体験、つまり、自らの身体を通して感じ取られるその人のかけがえのない一回性の生の実相」(p.10)というような意味で使われています。

これをざっくり言うと、「エピソード記述」とは、人と関わる中であなたが実際に「感じたこと」を、できるだけそのままの形で描きだそうと言う試み・方法のことである言えそうです。

(*1)鯨岡峻 (くじらおか・たかし) 1943年生まれ、京都大学大学院文学研究科修士課程修了、京都大学博士(文学)。京都大学名誉教授。エピソード記述の方法を編み出した人。
(*2)鯨岡(200521)と書かれていたら、参考文献の項目にある、鯨岡さんが2005年に出版した文献(『 エピソード記述入門 』)の21ページを参照して下さいという意味だよ。

では、感じたことをそのまま書けば「エピソード記述」になるのでしょうか。残念ながら、それではエピソード記述とは言えません。鯨岡(2012:295)は、「エピソード記録」と「エピソード記述」を明確に区別しています。以下少し長くなりますが、重要だと思われるので引用します。

「私の『エピソード記述』は他の人から『エピソード記録』と呼ばれることがしばしばありますが、私はこの二つを混同してほしくありません。私の場合、心動かされるエピソードを体験したその日に、自分の忘備録に書きとめられるその簡単な記録を『エピソード記録』と呼びます。これは自分の忘備録なので、忘れたくないクライマックス場面、特に子どもの心の動きを間主観的(ⅰ)に捉えた部分や、その時に自分の胸に去来した思いなどを中心に、数行程度にまとめた記録です。こうした記録が忘備録集に書き貯められた後に、その中から、どうしても他者に伝えたいというエピソードを取り出して、そのエピソード記録に基づきながら、その出来事を他者に伝えるために書き直したものが『エピソード記述』です。このように、『エピソード記述』は最初から人に読んでもらうことを想定したものですから、登場人物やその出来事が起こる前後の出来事などを、〈背景〉に示し、また〈エピソード〉もその出来事が読み手にイメージできるようにある程度詳細に書く必要が生まれ、また〈考察〉において、なぜそのエピソードを取り上げたのかの理由を示す必要もあります。この〈背景〉、〈エピソード〉、〈考察〉の3点セットをもって〈エピソード記述〉と呼んでいるので、単に保育場面のちょっとした出来事を従来通りの経過観察や活動の記録として捉えたものをエピソード記録と呼ぶこととは、趣旨が違うことを銘記してほしいと思います」

つまりエピソード記述とは単なる記録ではなく、ある出来事(エピソード)を他者に伝えるための手法であり、そこには背景、エピソード、考察の三点がそろっていることが必要とされます。

また(ⅰ)間主観とは、もとは現象学の分野で使われる語ですが、鯨岡(1999:129)はこれを「一方の主観的なものが、関わり合う他方の当事主体の主観性のなかに或る感じとして把握されるこの経緯を、二者の『あいだ』が通底して、一方の主観性が他方の主観性へと移動するという意味で『間主観性=intersubjectivity』」と呼んでいます。ごく簡単に言ってしまうと、お互いの気持ちが通じ合い、感じ取られるということです。しかし、ここで注意しなくてはならないのは、エピソード記述において「間主観的に感じ取られた」というのはたんに相手の気持ちが分かった、理解できたという意味ではないということです。そうではなく、相手の気持ちが私に「主観的に」感じられたということ、その事実について、当事者(私)が客観的、メタ的な考察を加えようというのがエピソード記述における基本的な態度であり、根幹となる考え方なのです。

 

参考文献

・鯨岡 峻 (1999) 『関係発達論の構築』ミネルヴァ書房
・鯨岡 峻(2005)『エピソード記述入門-実践と質的研究のために』東京大学出版会
・鯨岡 峻 (2012) 『エピソード記述を読む』東京大学出版会

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です