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最終更新日 2019年1月16日
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→vol.8
(このインタビューは2005~2007年に実施したものです。)
大棚町
皆川健一さん
昭和12年生まれ
昭和19年横浜市中川小学校
昭和25年横浜市中川中学校
現センター北商業振興会会長
早渕川親水広場愛護会会長
みなきたウォーク
ハマロードサポーター代表
都筑戦没者遺族会会長
横浜農協資産運用部支部長
緑法人会理事中川第3支部長
大健商事株式会社代表取締役他
今回お話をうかがった皆川さんは、先ごろオープンした早渕川親水広場愛護会の会長さんです。戦争で父を亡くしたあと、一家の大黒柱として農業にたずさわるなかで磨いてきた経営感覚を活かして、この都筑の土地の真に有効な活用に心を砕いてこられた半生をお聞きしました。
──今のお住まいは大塚歳勝土の麓ですか
ひいひいお祖父さんが籐五郎という名前だったのだけれど、その前、6代くらいは代々籐五郎だったという昔から、大棚の住まいは変わらずです。今の区役所通り五右衛門(パスタ屋さん)あたりに田んぼがあり、家から早渕川にかけてが畑で、裏の山の上も畑だったんです。ニュータウン開発前の調査で遺跡(外部サイト)が出てきた。(完全な形の環濠集落の大塚遺跡と、四角い墳墓の周りに溝をめぐらせた方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)の群落の歳勝土遺跡のこと。センター北駅近く。)
それまで、方形周溝墓っていうのは集落の首長というか一番偉い人の墓と考えられていて、一つの集落に方形周溝墓が一つというのが定説だったらしいんだが、35も見つかったというので国の指定史跡になった、今の歳勝土公園の芝生広場の所ですね。
(昭和15年の写真を見ながら)このころの畑の向こう側が早渕川です。川岸にマダケやシノダケが生えててその向こう、きれいな水が流れてる川でした。その手前がモモ畑。うちのモモは、「大健の桃」と呼ばれ中央市場でも有名だったんですよ。
──今も「大健商事」として残ってる「健」の由来はお名前からですか
そう、さっきの籐五郎の後、曽祖父が「健治」でそれ以来「健」の字を受け継いで来てます。「大健のモモ」。タケノコも夏には人を頼んで根いけ(※)をしていました。襟に「皆川」の文字を入れた半纏をそろえて作業していたようですよ。この写真ではトマトを作ってるでしょ、この辺りでトマトを作り始めたのは早いほうだったらしいです。父は、僕の生まれる前、というより結婚する前には温室を建てて、花やメロンの栽培もはじめたといいます
※根いけ・・・いいタケノコが育ちやすいように、竹の根を整理する作業
──進取開拓の気質がおありですね。温室栽培はその後も続けられていたのですか?
いえ、16年には、父が軍に招集されましたし──だから、弟がまだ母のお腹の中にいるこの写真が一家での最後の写真みたいなものです。18年の写真だと残った家族で畑仕事していますね──戦争が激しくなってくると、この辺にも軍の基地があって高射砲の破片が降ってくるのでガラスが割れる。それで温室は壊してしまいました。
──小さいお子さんが遺されたわけですね。終戦は小学時代…
2年生でしたか。それまで中川国民学校といっていた現在の中川小学校です。学校の友達とはよく川や池で遊びました。釣りもしたなぁ、ハヤとかフナとか魚はいっぱいいましたしウナギやシジミも結構獲れたんですが、フナはなかなか釣れなかったっけ。ゲバチ(ギバチ)にハゼ、池ではミヤコタナゴもいましたよ。
──今、絶滅危惧種として天然記念物に指定されてますね。権田池にしかいなかったと聞いていますが。
いや、勝田には3つくらい池があって、ミヤコタナゴもいましたよ。鈴木さんの上のほうには谷戸池って呼んでた池があってヨシとか生えてる、そこにもカラスガイって言うのかな?黒い2枚貝がいっぱいいたんです。
──ミヤコタナゴが卵を産みつける貝ですね
そう、その貝をね。学校の帰りに3人くらいで、勝田橋を渡って池まで行って、深みにはまったらそれこそ大変だったろうけど、子どものことだから素っ裸で(笑)池に入って遊んでは手ぬぐいいっぱい貝を獲ってかえって家の池に放すの。
うちの池は昔っからいろんなものがいたんです、フナ、ハヤ、ウナギ、エビガ二(ザリガニだね)、タニシ…ミヤコタナゴもね。今でも竹やぶの下から、きれいな湧き水が出ていて、庭の池までパイプで引いてますが、昔は飲み水として使っていました。そういえば僕の生まれる前なのかな、隣の家で、湧き水が良い水で、その水で豆腐をつくってたって聞きました。
──水の恵みを存分に取り入れていたんですね。
そう、自然が豊かだったのか昔は今より気温も低かったように思います。なんせ、氷室(ひむろ)があったくらいですから。いえ、うちではないですよ。川の向かい側茅ケ崎は北斜面でしょう、冬場、田んぼに水を引いておくと田んぼ全面が凍るでしょ、それを切り出して蔵に入れて保存しておくのが氷室ですね。江戸時代でしたっけそんな昔から行われていたといいますから。
ホントに昔は川の上も歩けたんですよ(!!)。早渕川は浅瀬も多くて、真冬は凍りつくこともあったんです。朝、学校に行くとき家から勝田橋まで氷の上を歩いたものです。学校が終わってきてみるとまだ氷が残ってたくらい。さすがに氷も薄くなってて乗っかれなかったけど。
──先ほどのお話ですとお若いうちからご家族を支えてらした…
夜学へ通ったりしましたが、農業のほうが忙しい。水稲の新しい種類を栽培したり、デラウエアとかブドウをつくったり。昭和30年代には養鶏をはじめました。卵を獲る鶏舎と平飼いでブロイラーも育ててました。
でもニュータウン開発の話が出始めた頃になると周辺にも住む人が増え始めて鶏糞の処理や臭いが気になりだした。ニューカッスルとか病気も流行ってくる、鶏糞を肥料として使ってくれていた農家も少なくなる、そんなこんなでニワトリはやめて、昭和40年頃からはシイタケ栽培を始めたんです。
神奈川県林務課の指導を受けたり、横浜では、新羽の米山さんという方が先がけて栽培に取り組んでいたので、見学に行ったり、教えを請うたりして始めました。かなりその頃良かったですよ。
──ホダ木はやはりお宅の山の木を使ったのですか?
ホダ木にするナラの原木は群馬・栃木まで(!!)買い付けに行きました。毎年3000本ぐらい原木を買ってきて、栽培しましたから、うちの山の木だけではとても足りません。
夏は難しかったが温度や湿度の管理をして、毎日々々収穫して100グラムのメッシュの袋詰めにして通年出荷する。金子(三千男)さんや男全(富男)さんとも一緒にはじめました。二人とも最初は100本から…みたいな事を言ってました。どうせなら1000本くらいまとめなよて言った覚えがあります(笑)
──みなさん意欲的にいろいろなものに取り組んでいらしたんですね
そうですね、それでも昭和40年代すぎると農業で生計を立てるのはだんだん厳しくなってきた、少しでも安定した収入をと考えて鴨居のこちら側、今ららぽーとになったNECの工場付近に土地を求め、独身寮を建てて、NECに借りていただくといった不動産経営も手がけるようになりました。
──ニュータウン開発に夢を託した?
ニュータウン開発が始まった時はまだ30そこそこで若かったし、代表の金子(保)さんや先輩たちの後にくっついていくようなものでした。昭和50年頃になると農業で生計を立てていくのは困難になってきましたから。
──それでも大棚町みたいな市街化調整区域で行こうというのは土地が少なくなるからという方が多かったからでしょうか
それもあるでしょうし、農業を続けたいとか税金とかいろんな思いがあったと思います。
──私など移り住んできたものには、例えば大棚の崖線というか斜面の緑地がとても魅力的で残っててよかったなぁと思うと同時にこれからも維持していける方策を今なにか考えていかなければいけないのではないかと焦る思いと入り混じってます
何にも役に立たない斜面の土地という捉え方か、風景や景観を構成する魅力の土地という捉え方かでだいぶ違いますね。
景観といえばこの間募集していた都筑の景観20選(50選に増やしたそうだけれど私の作品も採用されたと知らせが来ました)のような動き、そういった中からみんなの目が肥えていけばいいし、都筑の財産という見方が広まるとまた違った意見が出てくるでしょう。
──早渕川親水広場愛護会も立ち上がりましたね。
あそこは、ニュータウン開発地区の真ん中。地元の願いを集めたような場所です。家族連れで自然や水に親しみ楽しめる広場にしたいってね。
一時期早渕川はゴミ捨てや家畜の汚水や生活排水などでひどく汚かったんです。矢崎橋の辺りでは洗剤の泡が飛ぶような、それこそ昔の多摩川の丸子の鉄橋下みたいにね。コイすら姿を見ませんでしたし、川は遠くなってた。
親水広場のオープンの時、水槽にすくった魚たちを入れて見せてくれてたけれど、テナガエビや小さいエビもいましたね。ようやっときれいになってきたけれどまだまだです。このごろ、よく家から川沿いに北川橋まで歩いたりするので特にそう感じますね
全部親水公園みたいに土手にするのは良いと思うが、水害を考えると難しいのでしょうか、せめて川沿いの道に並木があったり川原近くまで下りられるような場所があるといいな。
増水することもしばしばある。ヨシとかマコモみたいな草が岸に生えているのはいいとしても、川の中に生えてしまっている大きい木は、流れを妨げているように思うし場所によっては対策を考えたほうが良いだろうね。
──みんなの目が川に向くことでいろいろな施策が浮かびそうですね
そういった意味でも早渕川親水広場が、みんなが川を身近に感じて、いろいろな夢を描くきっかけの場となってくれたらうれしいですね。大きく育ったサクラの下でくつろげる日が早く来ると良いですね。
巨大な施設が次々建つ中、人々が「歩いて楽しめる」まちづくりを目指している皆川さん。最近は忙しくて手にしていないという名機ぞろいのカメラで、またいつの日か都筑の風景や事物を独自のアングルで撮って下さるのではないでしょうか。貴重なお話をありがとうございました。
トマト畑にて。昭和15年(1940年)。
祖父母、父母、叔母さんと左端が皆川少年。翌年にはお父様は戦争に。
後ろが「大健の桃」畑、その向こうが早渕川
昭和18年(1943年)のトマト畑。残された家族が畑を守る。右が皆川少年
昭和33年(1958年)今の区役所通り境田付近の水田にて。
稲の早期栽培に成功して微笑む皆川青年。後ろは現在の八幡山公園
昭和35年(1960年)勝田橋付近。後方に勝田町最乗寺の屋根。
新婚当時の二人、なのに道ばたには肥ダメが並ぶ…
以上の写真は「写真集港北ニュータウンむかし・いま、そして未来へ…」
(2002.3協会設立20周年記念写真集刊行委員会・発行)より抜粋
ミヤコタナゴ
神奈川県では、横浜市の権田池(都筑区勝田に昔あった池)を最後に
自然水域から姿を消したという。しかし、その生残個体から
県淡水魚増殖試験場(現内水面試験場)が増殖に成功し、
遺伝子保存のための継代飼育を行っている。
ミヤコタナゴについての情報はこちら(外部サイト)
平成19年(2007年)3月、早渕川親水広場の完成式典で挨拶される皆川さん。
「昔は毎日のようにウナギやフナやハヤを釣って遊びました…。」
地元の願いでもあった親水広場。
ひろくみんなに親しまれる水辺空間を目指して親水広場愛護会も協力します
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