「お金をあげるから事務所に来なさい」慰安婦支援団体がいかに日本政府の調査を妨害したか から続く
挺対協(現・「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」)の不実について告発した元慰安婦李容洙(イ・ヨンス)氏の記者会見によって韓国社会は大揺れに揺れている。
はたして挺対協とはいかなる組織なのか。彼女らの実態をよく知る日本人がいる。
その女性の名前は臼杵敬子氏という。ライターとして女性問題に関心を深く持っていた臼杵氏は、半生を韓国太平洋戦争犠牲者遺族会を支援するための活動に費やした。90年代から議論が始まった日韓歴史問題を、最も間近で見つめてきた日本人の一人であるともいえよう。
本連載では臼杵氏から見た、なぜ慰安婦問題が歪んでしまったのか、その真実について回想してもらう。そして挺対協とはどのような組織だったのかを、当事者として批評してもらおうと考えている。(連載4回目/#1から続む)
挺対協の「性奴隷」という表現が招いたこと1994年、自社さきがけ政権のもと1995年に戦後50年を迎えるにあたって『戦後50年問題プロジェクト』が発足しました。様々な問題を解決しようという取組がなされるなかの一つに、慰安婦問題が入ることになったのです。
私は東京裁判を支援しながら、政治の動きにも注目をしていました。戦後50年問題プロジェクトのもと設置された「従軍慰安婦問題等小委員会」で証言をしたこともありました。
日本政府としてのスタンスは、日韓基本条約で解決した問題であり、人道的には認めるが法律的には認められないというものでした。ある自民党幹部は「慰安婦に対しては1円たりとも払わない」という密約書まで書いていました。私はこの密約を聞き解決の困難さを痛感しました。
挺対協が喧伝していた「慰安婦は性奴隷だった」という表現も日本側を頑にした一因だったと思います。この表現は元慰安婦に本当に失礼であり、人権に対して鈍感なものだと私も思っています。
元慰安婦たちは苦しい環境の中でも精一杯の抵抗をしていたし、自我を持って生活していました。例えば元慰安婦の金田きみ子さんは日本兵と恋人関係になりました。休日には2人でデートし、写真館で貸衣装を着て記念撮影(写真参照)をしたと聞きました。私の知る限りでは、ハルモニで「性奴隷」という表現を“良し”とする人はいませんでした。
挺対協の女性幹部の呆れた主張このころから挺対協は慰安婦問題に大きな影響力を持つようになっていました。私は一度、挺対協の金シンシルという慰安婦担当の女性幹部と問題の解決について話し合ったことがあります。
場所は金浦空港の喫茶店でした。
私は「慰安婦問題をどう解決すればいいと思いますか」と問いました。
金氏はこう答えました。
「日本政府がまとまったお金を韓国政府に渡す。韓国政府はそのお金を挺対協に預け、私たちが配分するのがいい。そう思っています」
私は呆れました。なぜ被害者でもない挺対協がお金を受け取るのか。彼女の主張することの意味がまったくわかりませんでした。
慰安婦の実態を判断することの難しさ1995年7月に「女性のためのアジア平和国民基金(以下・アジア女性基金)」が発足します。基金には私たちの「日本の戦後責任をハッキリさせる会(通称・ハッキリ会)」からもスタッフを一人派遣しました。
スタッフを派遣することには少なくない葛藤がありました。日本の識者や左翼運動家たちは軒並み、国民募金で償うという方法や、半官半民で問題に取組むアジア女性基金の方式は「国の責任を曖昧にする」と大反対していたのです。
でも問題解決には政治力が必須ですし、オール・オア・ナッシングの考え方では物事は進みません。私たちはアジア女性基金に協力することで、少しでも解決の道筋をつけたいと考え参画を決意しました。
また、慰安婦問題を法的に解決するということへの限界を感じていたことも事実です。
私は50人あまりの元慰安婦の話を聞いて行くなかで、だんだん考えが変わっていきました。慰安婦の実態は資料で裏付けられるものが少なく、ほとんどが証言のみで判断しなければなりません。聞いて行くと、それぞれの経験には濃淡があることが判ってきます。根拠がある話をする人もいれば、ちょっと違うんじゃないかと感じる人もいる。
慰安婦の真贋については、ハルモニたちのほうがより敏感でした。
「私は慰安所に8年もいて子供が産めない身体になった。それに比べると、あの女の証言は怪しい」
という言葉を聞くことも少なくありませんでした。
元慰安婦だった期間も、3か月と短い人もいれば7~8年と長い人もいるなど、人によってまちまちです。
韓国政府の慰安婦認定はブラックボックス1992年から韓国政府は全国の自治体を窓口として慰安婦申告を募りました。プライバシーを守り、漏らした者には厳しい懲役刑を科すという条件下で申告作業を進めたのです。
このとき関係者から聞いた話によると、元慰安婦として実際に手を上げた人の数がかなり少なかったことに、挺対協を始めとする関係者はショックを受けたというのです。識者の間では慰安婦は20万人規模でいたとも語られていましたから、その差に驚いたのです。その後、韓国内では「もう、全員慰安婦として認めよう」という雰囲気になったと聞きました。
韓国政府が認定する慰安婦は、2015年には238名でした。現在、その数は増えて247名(挺対協がソウル市南山公園に建立した慰安婦の碑に刻まれた人数が247)いるとされています。
私が元慰安婦の方々に聞いたところによると、彼女らが知っている慰安婦はせいぜい5、60人しかいない。それ以外は匿名性のベールの中に包まれ実態が見えないというのです。韓国政府がどのような過程を経て、彼女らを慰安婦として認定したのかが未だブラックボックスとなっているのです。
日本軍が慰安所を使っていたのは事実ですが、女性達をどう連れてきたのかを証明することは難しい。前述したように人数などの根本的な基礎データにも不安がある。
日韓の政治状況、慰安婦調査が明らかにされていない実態、様々な状況を考え、法的な解決ではなく人道的な解決が望ましいのではないかと私は考えるようになりました。
計500万円が元慰安婦に支給されることに私たちが支援活動を行っているなかで元日本兵の方からも様々なメッセージをもらいました。
「自分の部隊にも慰安所があった。戦況が悪くなり撤退をすることになったとき、慰安婦の方から『私たちを連れて行ってくれ』と懇願された。しかし、最終的に彼女らを捨てて逃げなければならない状況になってしまった。その後、彼女たちがどうなったか。今でも思い出すし、罪悪感にかられている」
その男性は同時代を生きた慰安婦のことを、とても気にしていました。
慰安所に並んだのは日本兵です。慰安婦たちの背景を知らずに、彼女たちを抱いたり、殴ったりしたのは、いま生きる私たちの祖父であり、親であり兄弟だったかもしれません。その意味でアジア女性基金が始めた国民募金は日本人が反省する原点ともなりうるし、人道的な解決にも繋がると私は考えました。
国民募金には6億円以上のお金が集まりました。自民党の橋本龍太郎氏(後の首相)は家族ぐるみで募金に協力してくれたといいます。他には自衛官の方も多かったと聞きます。
アジア女性基金では国民募金を原資とする「償い金」を200万円、そして国費から「医療福祉支援事業」として300万円、計500万円が元慰安婦に支給されることになりました。
「慰安婦を懐柔しようとしている」アジア女性基金への嫌がらせアジア女性基金が本格的に活動を始めた1996年ごろから、挺対協は私に対する嫌がらせを強めてきました。
同年、自治労から500万円の寄付を貰い、龍山に遺族会ケアセンターがオープンしました。同所は#2でもお話しした元慰安婦や遺族の方が集える場所で、金学順さんも愛した場所です。金学順さんは肺気腫で体調が良くないなか、タクシーを飛ばしてよく遊びにきていたそうです。
ところが尹貞玉氏はこのケアセンターを目の敵にしたのです。
「ケアセンターはアジア女性基金のカネで出来ている。慰安婦を懐柔するために作られたものだ」等と韓国政府に注進するようになったのです。そして「臼杵が慰安婦にアジア女性基金のカネを受け取るよう説得して回っている」というウソも流すようになりました。
遺族会ケアセンターは自治労の支援で出来たものですし、アジア女性基金のお金を受け取るかどうかを決めるのは元慰安婦の方々だと私は考えています。説得などするはずがないのです。
なぜ挺対協はこんなウソをつくのかと悔しい気持ちになりました。
嫌がらせが最高潮に達したのが、1997年1月以降のことです。アジア女性基金は、ソウルのプラザホテルで、極秘裏に金田きみ子さんを含む元慰安婦に、橋本龍太郎総理のお詫びの手紙と、支払金の目録を届けました。
償い金を受け取った元慰安婦の住所を公開した挺対協問題はその後でした。金田さんの自宅にマスコミが殺到しました。記者は口々に「なんで日本の金を受け取ったんだ」と彼女を糾弾した。金田さんが心配になり、彼女の自宅にいた私は、記者に向かって「首相の手紙を写せ!」と言い返しました。それが報道されたかはわかりません。
記者が殺到したのは、挺対協が償い金を受け取った元慰安婦の名前と住所を公開していたからでした。金田さんは韓国名を非公開としていましたが、挺対協は実名も明かした。酷い話です。
「日本から金を貰ったら娼婦だと認めたことになる」
挺対協はこう批判を繰り返しました。罵倒するだけではなく、脅迫電話をかける、「母の日」等の元慰安婦が参加する公式行事の招待メンバーから外す、名簿から名前を外す等――。彼女らは、最初にアジア女性基金から償い金を受け取った7人の元慰安婦を苛め抜いたのです。
元慰安婦に償い金の返還を迫る〈覚書〉それだけではありません。アジア女性基金を潰すための工作も同時に始めていました。
ここに〈覚書〉と書かれた一枚の書類があります。
これは挺対協が元慰安婦にアジア女性基金からの償い金を返金するよう書かせたものです。内容は次のようなものです。
〈上記本人は大韓民国政府が日帝下日本軍慰安婦被害者の生活安定のため支給する支援金・3500万ウォンを受領するため、アジア女性基金からすでに受領した一時金(3600万ウォン)を、挺対協を通じて日本側に返還することに同意します〉
韓国政府は挺対協と連携して、アジア女性基金に対抗するために、償い金と同等額を慰安婦に払うことを決めました。この書類は、韓国政府が金を払うから償い金を受け取るなと、〈覚書〉として挺対協が元慰安婦に書かせたものです。日本政府の調査を妨害したときと同じように、再び札束で顔を引っぱたくような懐柔を挺対協は行ったのです。
挺対協が妨害活動を続けたのは、全ては慰安婦問題を解決させないため、であると今は確信を持って言うことが出来ます。
しかし後に、ハルモニたちのほうが一枚上手だったことが明らかになります――。
(つづく)
(インタビュー・赤石晋一郎)
赤石晋一郎 南アフリカ・ヨハネスブルグ出身。「フライデー」記者を経て、06年から「週刊文春」記者。政治や事件、日韓関係、人物ルポなどの取材・執筆を行ってきた。19年1月よりジャーナリストとして独立
勝山泰佑(1944~2018)韓国遺族会や慰安婦の撮影に半生を費やす。記事内の写真の出典は『海渡る恨』(韓国・汎友社)。
(赤石 晋一郎)
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